「沈黙を聴く」
現代の神秘家 モーリス・ズンデルの人と霊性
福岡カルメル会 編訳 女子パウロ会 より
私とキリスト教との最初の出会いは奄美大島にいたときのことである。当時家の近くに カトリック系の幼稚園があり、ロジャース神父(?)さんやシスター達が運営していた。そこ の像の何とも言えない高貴な、そしてすべてを包み込んでくれるようなその祈りの姿に、 私の心はひきつけられ魅せられていたことだけは鮮明に思い出すことが出来る。海上 保安庁に勤めていた父の仕事の都合で各地を転々とするが、高校時代を過ごした宮崎 の日南で、カトリックの良寛様と言われた小林有方神父さんの「生きるに値する命」とい う衝撃的な本に出会う。私の両親はキリスト教ではないのに何故この本が家に置いて あったのか今でも不思議であるが、当時灰色の青春時代を送っていた私にとって、こ の本は人間の、そして生きることの素晴らしさを垣間見させてくれたものだった。このよ うな出会いがあったにも関わらず、私は教会に行くことはなかった。詳しいことは散文詩 に書いているが、その後シモーヌ・ヴェイユに魅せられ、ある神父さんの部屋でアッシジ の聖フランシスコを描いた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」に触れ、カトリックの 信仰に強くひかれていった。そして単純素朴なカトリックの信仰を持つ妻との結婚を前 に横浜の教会で洗礼を受ける。このモーリス・ズンデル神父との出会いは、それから暫 く経ってからのものである。キリスト教の奥義、三位一体の互いを与え尽くす姿、父と子 と聖霊がそれぞれに自らを与え尽くし、そして私たち被造物に対しても、ひざまずき苦し んでおられる神の姿を心に映し出してくれた。このモーリス・ズンデル神父は現代の聖 フランシスコと呼ばれ、貧しさの中に生き苦しむ人と共に歩んだ人であったが、彼の思 想は当時異端扱いにされ様々な教区を転々とさせられる。彼の数少ない理解者で、特 に彼を愛した教皇パウロ6世によってヴァチカンの黙想指導に招かれたのは彼が死ぬ 3年前のことであり、生涯の大半は疑いの目で見られ疎んじられていた。彼が私たち に遺したものは25年経った今でも、人々の心に三位一体の神の姿を鮮やかな色彩と 芳香をもって映し出し、沈黙を通して語られた神の現存は、私たち一人一人が追体験 することなしには、魂にその根を降ろすことはないだろう。まさに彼はすべての存在の 背後にある創造主の息吹に触れることができた純度の高い鏡そのものであり、その 鏡に反射された希望と喜びは私たちの魂の奥深くまで貫いているのかも知れない。
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2011年12月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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モーリス・ズンデル神父(1897-1975) 1897年 スイスに生まれる。 1919年 司祭に叙階される。 以後、そのユニークな思想のために教区を追われ、 長年、フランス、イギリス、エジプトなどを転々とする。 1946年 スイスに帰り、ローザンヌの小教区の助任司祭。 1972年 教皇パウロ6世により、ヴァチカンの黙想指導に招かれる。 1975年 ローザンヌで没する。
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私は一人の母親を知っていました。祈りの人で、完全な母親、だれからも何も期待していない無私な 母親でした。この母親から人々は息子を奪ったのです。彼女の夫は乱暴者で、息子に洗礼を授ける ことも宗教的な教育をすることもすべて禁じ、母親にはただ息子を育てることだけしかさせませんでし た。そしてこの女性は三十年以上ものあいだ、堕落して名誉も何もかも奪われて悲惨な罪人となった 息子の苦しみをともに担い、自分の名誉などは露ほども考えずに、ただ息子のためにのみ生き、寛大 に与え尽くして、息子自身よりも深く彼のうちに彼とともに彼のために生きていました。例外的とも言え るその清さのゆえに、彼女は息子の状態を、より明瞭に悟り、その堕落を心裂かれる思いで生きて いたのです。彼女は待ちました。そして、結核にむしばまれ、死を待つ状態の息子に再会しました。 彼女はその病床に昼夜付き添い、弟子たちの足を洗われたイエスのように、そこでひざまずいてい ました。息子の責任を問うことなく、沈黙のうちに自分を与え尽くしていました。そして、この息子は、 突然自分の生涯を振り返り、母の宗教に入ることを望んだのです。そのメッセージが何かは分から ないながら、彼のうちに次第に明らかになってきたこの愛に、彼は自分を明け渡すことを望みました。 そして、この息子が、神の姿に、母性的な愛を無限に超える神の姿に出会ったのは、彼が知った唯一 福音、この母親の生きた福音をとおしてだったのです。私が神の喜びを悟ったのはこの女性をとおし てでした。それは、すべてを所有し、すべてを己のために保つ喜びではなく、すべてを失って、もはや 失うものを持たない方の喜び、永遠にご自身を空にして、「私」が他者である拝すべき三位一体の 神秘的な貧しさの中で永遠にご自身を与える方の喜びであります。この女性はもはや何も持ってい ませんでした。すべてを与え、すべてを失ったために、何も失うことはできず、この息子をあまりにも 大きな愛で愛していたために、これ以上愛することができなかったのです。そのために、彼女の愛は 自分の息子の状態によって色づけられていました。息子が不幸せで堕落していたときには、彼女の 愛は苦しみ、十字架にかけられていました。そして息子がすっかり改心して、あれほど待っていた母 の愛に自分を開いたときには、それまでも完全に愛していた母親はそれ以上愛することができない ほどでした。しかし、彼女の愛は息子の新たな状態によって新たに色づけられ、彼が喜びのうちに、 光のうちに、平和のうちに入ったとき、彼女の愛は美しいステンドグラスのように、喜びの太陽、復活 の太陽を射し通らせたのです。
全宇宙、全歴史、全人類を網羅した供え物を携える私たちを受け入れてくださるキリストの広大な 次元の中に入りましょう。すべての被造物に代わって、神が愛であり、神が三位一体であり、神が 貧しさであり、神が自由であることへの感謝をささげましょう。まさに、神のうちに私たちは自分自身 に到達し、あの洗足のときイエスが教えられた感嘆すべき秘密を知ることができるのです。すなわ ち、偉大さとは人の上に立つことにあるのではなく、偉大さとは自分を与えること、それも、より多く 与えることであって、神が無限に偉大であるのは、まさに、神が私たちの足を洗うために、永遠に 被造物の前にひざまずいていてご自身を与えておられるからなのです。
家族という人間的三位一体の単純な現実が、永遠の三位一体のもっとも美しいたとえとなることに 注意を向けていただきたい。理想的な家族とはどんなものであろうか? 妻に向けられる夫のまな ざし、夫に向けられる妻のまなざし、子どもたちに向けられる父と母のまなざし、両親に向けられる 子どもたちのまなざしでなくて何であろうか。まさにおのおのが、相手のため、相手のうちに生きる 分かたれ得ない調和のうちでの互いの息遣いでないなら、家族の幸せや喜びや一致は何なのだ ろう? そして、この幸せな家族の幸せはだれに属するのか? それはだれか一人のものではな い。父親は自分が家庭の中心、源泉であるとは言えない。母親もまた、一致や愛や子どもを自分 が独占することはできない。この幸せは相互のコミュニケーション(相互付与)、相互の絶え間ない 無所有、自己放棄によってしかあり得ないのだ。まさに、知性と心に源を持つ真実の幸福、人格的 な幸福、精神の幸福は、だれも自分独りで所有することのできない善なのである。真理を所有した いと望むと、それを失う。それを独占したいと望むなら、真理を醜いものにし制限してしまう。愛を 所有したいと望むなら、愛とは無関係な者となってしまう。三位一体という神的生命は所有し得な いものである。神はこの上ない無所有であり、反所有であり、反ナルシスであって、神が神である のは、まさにこの無所有のゆえなのである。
神の貧しさの中により深く入る度合いに応じて、そして神の喜びが完全な譲与の喜び、何も自分の ために保たず何も自分のために所有しない者の喜び、その認識と愛が永遠のコミュニケーション、 永遠の無所有である者の喜び、完全に自分を空にした者の喜びであることを知る度合いに応じて、 また、最高の人間的愛の表れとして、母が自分を空にして子どもの人生を生きるように、愛が他者 を生かすために相手と一つになる能力があるということを見いだす度合いに応じて、この優しさの 深淵に身を沈める度合いに応じて、人は神の弱さをよりよく理解するであろう。この神は私たちを支 配するファラオではない。私たちを所有する所有者ではない。神は永遠に自分を与え、愛以外の何 ものでもない方である。永遠に自分を空にした愛、各ペルソナが他者に向かう清い飛翔である愛!
キリスト者の神、イエス・キリストによってご自身を啓示される神は、永遠に自分を失った神であり、 それゆえに何も失うことのできない方なのだ。神は永遠にすべてを与えられたので、これ以上与え ることができない。この譲与こそ、アガペそのものである神の姿なのである。この神、人が考えてい るのとはまったく違う神、預言者でさえ考え及ばなかった神、ただイエスのみがユニークな方法で生 き、キリストただ一人があかしされた神が、神とは人間を制限し、脅し、罰し、人間の価値を下げて しまうものだというイメージから私たちを解放してくださるであろう。神のうちに、私たちが隷属して いる主人を見る代わりに、私たちと愛の契りを結んでくださった神を見なければならない。私たち は神との婚姻の喜びのうちにいるのであり、それだけが大切なことなのだ。
キリストを愛するとは、すべてを愛することである。彼とともにすべてを愛するのでなければ、イエス・ キリストを愛しているとは言えない。私たちはブッダを愛する。この人の誠実さはキリスト教的だから。 マホメットもまたしかり。いのちと愛の足跡を見いだすところなら、どこにおいても人は安らぎを感じる であろう。なぜなら、そこで神に出会うからだ。
光になりなさい。そうすれば、あなたは光を見るであろう。憎しみと恐れの悪夢の中でよろめいている 人類の、出口のないトンネルの闇を追い払う「太陽」はどこにおられるのか? それは「あなた」のうち なのだ。神は私たちのうちに隠れている「太陽」のように、つねに、すでにそこにおられる。不在なの は私たちであって、神の光を遮る壁は私たちなのだ。「神のみ心を行う者は私の兄弟、姉妹、母であ る」という福音の感動的な言葉は、私たちをイエス・キリストの揺りかごになるようにと招いている。私 のうちに主の人性の延長が行われ、今日の歴史の中にイエスが現存されるために、私の存在自体 が主に浸透されるものとならねばならない。「私にとって生きるのはイエス・キリストである。」 キリスト 者のすべての完全さはそこにある。それは私たちのうちに、私たちの心、感受性、精神、私たちの肉、 行為、行動の中に生きておられるイエス・キリストである。キリスト信者の徳とは、禁欲主義の固い綱 の上での曲芸ではない。キリスト教の徳とは、もし私たちが自分のすべての能力の中にキリストを生き させるなら、私たちをとおしてすべての人類にご自身を与えられるキリストのいのちである。大切なの は私の救いではなく、私たちの手の中に託された神のいのちなのである。キリスト者の召命は神の顔 となること。教会とは私たちであって、自分が生きた福音となる責任を感じながら、一人一人が他の 人々にとって神の顔となるように努めるなら、今日の世界には喜びがあるであろう。人が救われるの は説教によってではなく、現存によってである。そしてこの現存は人間の顔をとおしてしか現れない。 太陽が歌うステンドグラスになろう!
聴くこと! 何よりも貴い、何よりも稀な、しかし、何よりも必要な行為。いのちの深淵をあかしして くれるのは、ただ沈黙だけである。
確かに、私たちの深奥でこの現存に出会うためには、私たちの心深くに刻まれたこのみ顔に出会う ためには、人間存在を宇宙的存在にするこの広大な領域を見いだすためには、もっとも深い沈黙の うちに入り、自分の中で自分とのどんな騒ぎも起こさずに、私たちのうちに住んでおられる愛する方と の心の交わりによって、まさに、自分の人となりが涌き出る存在の根源にまで下っていかねばならな い。もし、この中心まで下りていかず、この無限の沈黙のうちに生きないならば、必然的に個人的・ 集団的な本能が君臨している本来的、自然的な領域に身をおいて、自分のごく表面的な場にしか生 きることができないであろう。事実、そうなると人間はもはや存在しているとは言えない。人間はただ 宇宙に運ばれるままになり、細胞科学によってしか説明できない宇宙の産物になってしまうであろう。 そうなると、神はもはや偶像となり絵空事になる。そうなると、全人類と全宇宙の喜びであり解放であ る無限の現存によって生きることによって新しくされた者が、永遠の福音を全世界にもたらすという、 無比なすばらしい新しさについての認識を世に与える体験などは、もはやなくなってしまうだろう。まさ にここにこそ、それなしではどんな真の人間生活もあり得ない観想生活の意味があるのだ。人類の 中心にいて、人類の源泉に達し、新たに生まれて自分のうちに神の輝きを帯びる者の姿をとおして 神の啓示の充満に到達する。そこに観想生活の意味があるのだ。これこそ、観想生活の意味であ る。これこそ現代世界、技術的には全能でありながら、人間的な舵をまったく失った現代世界におけ る緊急必用事なのである。この世界に、歩むべき道の指針を返し、内的な舵を与えねばならない。 各人に責任があり、各人がそこで欠くべからざる存在であるこの創造に、一人一人を連れ戻さねば ならない。なぜなら、人は自分のうちに無限の領域を創ることによってのみ、世界のものとなり、人類 兄弟のために解放の酵母、生きる神の啓示となることができるのだから。ごく隠された謙虚な人の 生活は、たびたび、もっとも大声で人々に語りかけている。もっとも単純な、もっとも沈黙深い、もっと も知られない人々の生活は、ほとんどつねにもっとも深く、現存の働き、沈黙の働き、「神の現存」の うちに根ざし、その輝きを帯びている働きの影響を及ぼしている。非常に恵まれていて、数々の才能 を持ち、傑作を造り出す人々は、個人的に接触してみると、自己満足的に満ちていてがっかりさせら れることが多い。いっしょにいるとほんとうに自由に感じさせ、満ち足りた思いをさせるのは、その魂 のうちに無限の「現存」が息づき、無限の領域を持っている人々である。
「だれにも話してはならない。」これはイエスが病をいやした人に言われたことばである。キリスト教 のすべてはこのことばにかかっている。「だれにも話してはならない。」 大部分の人々にとって、 キリスト教が愛の情熱、希望するものをはるかに超えて彼らを満たす答えである代わりに、果たす べき数々の義務のようになってしまったのは、たぶん私たちがこの沈黙の精神が分からないか、 またはそれを失ってしまったためであろう。こうして、沈黙はますます破壊され、キリスト教は集団 的な禁令、沈黙に根差す唯一の偉大さを失った集団の運動と化してしまう恐れがある。沈黙なし には何も成し得ないことは確かだ。私たちの自由を創造する沈黙、人類のうちに私たちを造り出 すのはこの沈黙である。そして、私たちが神に出会い、自分たちの生物的自我と、大衆を支配し ているいろいろなスローガンに打ち勝つのは、そこにおいてなのである。
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モーリス・ズンデル神父(1897−1975)が書いた文献として「日常を神とともに」 「内なる福音」があり、それぞれ女子パウロ会から出版されているが、どれも胸を 打たずにはいられないものである。
「魅せられたもの」 1997.2.5 「ネイティブ・アメリカン叡智の守りびと」を参照されたし 「心に響く言葉」 1999.9.9 「グレイト・スピリットの庭に咲く花」を参照されたし
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目次 すすめのことば 奥村一郎 第一部 人 1.ある生涯の素描 マルク・ドンゼ 2.回想 フランス・デュ・ゲラン 3.ともに生きた人たちの言葉
第二部 霊性 1.手記からの抜粋 神 愛 神の秘跡であるイエス 秘跡的教会 真実の世界の愛 悪、神の苦しみ 人間のあるべき姿 沈黙の調べ 沈黙の巨人 2.説教からの抜粋 三位一体、貧しさと譲与の秘儀 神の痛み 典礼生活と宇宙的交わり 「貧しさ」であること 幼子のように
あとがき
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「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より |
2012年4月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年1月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。
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