Head-dress of Matoki Society (Blood)
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
1999.9.9
あなたがこの大地のうえで暮らしていて、 この大地で眠っている祖先をもっているなら、 あなたはこの大地のネイティブであると言ってもいいだろう。 ネイティブであるかないかには、 肌の色はまったく関係ない。 わたしは人間を 人種で差別するようには育てられてはいない。 われわれはみな、グレイト・スピリットの庭に咲く花なのであると、 わたしは教えられた。 われわれは同じ根っこをわけあっていると。 その根とは、母なる大地のことなのだ。 その庭が美しいのは、さまざまな色があるからだ。 そしてそれぞれの色は、 さまざまに異なる伝統や文化的な背景をあらわしている。
オー・シンナ(アメリカ先住民) 北山耕平訳 北山耕平さんのホームページ「Whole Life Catalog」より引用
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私自身もこの言葉の意味するところと同じ想いを抱いており、「魅せられたもの・光の証人たち」 という項目で自分なりに書き綴ったことがある。インディアンたちは白人入植初期において、彼ら の宗教・キリスト教を決して否定はしなかった。相手が心から信じているものに対して深い尊敬の 態度を示し、他の宗教や異文化に対して実に寛大な心で接してきたのである。この背景にはどん なに姿形が異なろうとも同じ大地に立ち、その根っこはひとつに繋がっていると理解していたから に違いない。成熟したインディアンの宗教に対して、白人がもたらしたキリスト教は相手を同化さ せずにはおかないものだった。自分たちと同じ色に染まらなければ、自らの存在基盤が揺らいで しまうという傲慢な性質に変貌してしまったキリスト教が何をしたかを考えるとき、悲しみと怒りが こみあげてくる。様々な花が咲く花畑から一種類の花だけを残して、他のすべての花を根ごと抜 きとった人々は、見渡す限り何処まで行っても同じ花しか存在してないことに初めて気づく。そこ で彼らが抱く孤独感、空虚感は計り知れないものになるだろう。同じ大地に立つ他の花たちの美 しさや芳香を感じることが出来ない傲慢さがこのような悲劇を創り出してきた。もし、彼らが創造 主の息吹を肌を通して感じていたならば、様々な花にも創造主の姿が在ることに気づいたに違い ない。その特異な思想のために教区を追われ、長年各地を転々とさせられたカトリックの司祭 モーリス・ズンデルは言う。「キリストを愛するとは、すべてを愛することである。彼とともにすべて を愛するのでなければ、イエス・キリストを愛しているとは言えない。私たちはブッダを愛する。 この人の誠実さはキリスト教的だから。マホメットもまたしかり。いのちと愛の足跡を見いだすと ころなら、どこにおいても人は安らぎを感じるであろう。なぜなら、そこで神に出会うからだ。」 モーリス・ズンデル神父は死ぬ3年前に教皇パウロ6世により、ヴァチカンの黙想指導に招か れ、その異端と思われていた思想が少しずつ認められるようになる。彼は言う。「聴くこと! 何よりも貴い、何よりも稀な、しかし何よりも必要な行為。いのちの深遠をあかしてくれるのは、 ただ沈黙だけである」。この沈黙の神秘について、インディアンの首長ルーサー・スタンディング ・ベアも次のように語るが、たとえ宗教が異なっていても沈黙から降りてきた光には同じ創造主 の息吹が満ちあふれている。そしてどうかこの私たちもこの沈黙を通して創造主の息吹に触れ ることが出来ますように。
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最初のアメリカ人(インディアン)は沈黙を深く信じていた。沈黙は完全 な平衡のあかしであるから。沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあ いをとっていることである。自己を保っている人は、葉の一枚たりとも 動かぬ木のように、小波ひとつ立たない輝く池のように、つねに静か で、実存のあらしに揺すぶられることがない。無学な賢者の考えによ れば、もしあなたがその人に「沈黙とは何か」と尋ねるならば、その人 は、「沈黙とは大いなる神秘!」「聖なる沈黙はそのお方の声!」と答 えるであろう。もしあなたが「沈黙のもたらすものは」と問うならば、そ の人は、「自己抑制、真の勇気、堅忍不抜、尊厳、そして崇高。沈黙 は人格にとって隅の親石である。」というであろう。・・・・・・・ 「生命の織物」 女子パウロ会より引用
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創造主がホピ族(インディアン)に語った預言・警告・教示を綴った 「テククワ・イカチ」より抜粋
バハナ(白人)がこの大地に現れるはるか昔、われらが古代の父祖たちは、あらゆる 霊的知識の達人であった。大霊と、大創造主の掟に人生を捧げていたからである。 彼らの心身は、隅々まで知恵と真理に照らされていた。彼らは大地と自然と生命のバ ランスを知り、理解していた。人々の心の中を見透かし、人類の未来を予知し、地上 の体と天上の体の働き、生命と自然との関係を司る力を熟知していた。自然の大周 期が繁栄か災害かを生むのを決定するほど、人間の行動に力があることを知ってい た。そこで何千年ものあいだ、われわれは平和に生き、正しい生き方を損うものを執 拗に避けてきたのだ。たしかに、われらの古代の父祖たちは、あらゆる霊的知識と 判断の主人であった。われらが大創造主の息によって、そう定められたのだ。万物 の上に立つ唯一の御方の名において、大いなる秩序と教えをもたらすためである。 その御方から、地上で生きるための指導書として、われわれに預言と教示が代々 伝授されてきた。ただ一人の大いなる霊、創造主がおられ、われわれはその子供 たちとしてひとつの幸せな家族でいなければならない。だが、平等の代わりに、人類 はカースト制度と階級闘争をつくり、互いをよこしまな目で見るようになった。ほとん どの宗教集団は、おのれの制度が一番優れていると思い込み、父祖伝来の信仰を 通して平和に生きようとしている者たちを支配し、その領土を奪わんと、彼らを蔑視 し滅ぼそうとしてきた。だが、唯一、真の大霊は、多くの異なる名前と、地上の土地 と同じほどいろいろな性質の象徴をもって崇拝されているのである。人はこの方法 によって大霊から祝福され強められるのだ。われわれはまた、地上はまだらの小鹿 のようなものであるともいってきた。まだらは特定の力と目的を持つ地域である。 われわれの誰もが、大霊と交わるために設けられた各種の波長を授けられている。 それぞれの習慣的な方法に準じて、生命を支える特定の自然法則の働きを実現す るためである。われわれはこの知識を知っているので、大霊の言葉を捨てる気持ち など、さらさらない。最初の宣教使節が到来したときに、ホピは尊敬すべき民であり、 相手の宗教に介入しようとはしなかった。われわれは、彼らが知恵という武具を帯び て到来したのだと信じ、ホピの宗教に介入することなく、かえって同様な敬意を払う ものと信じていた。だが、長老たちの預言していた通り、そうではなかった。罪人は 原初の信仰を捨て、魂を清めて天国へ行くために他宗教に加わり、こうして死後に ホピの地底を逃れるのだといわれた。だが、われわれは創造の初めより、大霊から 原初の道を独自に与えられているのだから、これは無意味である。ホピは他の群れ に加わることに同調したりはしない。宣教師はわれわれの文化と霊的な道を理解す る時間を取ろうとはしなかった。そうしていれば、ホピが唯一の大霊の存在を信じて いることが、彼らにもわかったはずである。それどころか、彼らはわれらの民を改宗 させ、父祖伝来の道を捨てさせようとした。改宗がついには全人類の破滅を呼びか ねない。ほとんどのホピは長老たちから終わりの日の預言を学んでいる。われわれ が異質な他宗教に改宗するときに、大海がわれわれを呑み込むであろうといわれ ているのだ。
「ホピ 神との契約」 この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ著より引用
「魅せられたもの」 1997.2.5 「ネイティブ・アメリカン叡智の守りびと」を参照されたし
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