光の証人たち インディアン・ヴェイユ・聖フランシスコ 1997.12/3



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日本ユニセフ協会(子供たちに笑顔を)







人類の歴史は征服と搾取に彩られていると言っても過言ではない。

そこには肉体的・知的に優れたものが、この世界の君主になるべき

ものとの確信が意識の底深くに住みついており、事実そのような力

なくしては自らの欲望を達成することは出来ないであろう。その飽く

なき力は自分の同胞である人類に、そしてこの地球上に共に住む

他の生命体に向けられてきた。それは現代においても形こそ変えて

いるが意識の底に脈々と流れている。確かに動物としての人間と

いう観点から見ると、力あるものが支配するというのは自然の掟で

あり、自然界は弱肉強食の世界であるのは動かしがたい事実で

ある。それは自らの命の営みを続けてゆくには当然の行為であり、

誰も非難できるものではない。しかし、動物は自分が置かれている

環境までも変えうる力はない。だからどんなに強い生き物であって

も自然の、大地の摂理に従って生きねばならないのである。そこに

この生態系のバランスを微妙に保ってきた摂理を感じてならない。

人類という、他の動物にはない環境を変えうる特別な力を持った生

命が登場したことにどのような意味があるのだろうか。当然にその

力を乱用するならばこの地球そのものは殺戮と破壊の死の惑星

になってしまうだろう。地球自身が、あるいは創造主がこのような

血に飢えた癌細胞を自ら産み出すとは私には到底考えられない。





この環境までも変えうる力を持った人類の登場にどのような意味が

込められているのかは私にはわからない。ただ地球そして創造主が

この人類に新たな摂理という種を一人一人の深い意識の底に蒔か

れていたのではなかろうか。自らの置かれている環境を客観的に認

識できる知性と共に。この新たな摂理、掟と呼ぶべき光に、人類は

どのような態度を取ってきたのかは歴史がその多くを語りかけてく

る。ただこのような底が見えない暗闇の中にも点々と灯る光が存在

していた。創造主から蒔かれた種が成長し、香り豊かな花を開かせ

多くの人々に「人類の真の姿」を垣間見させてくれたその光。この

光を宿した種が自分自身の中にも、しっかりと息づいていることを

光の証人達は私達に気づかせてきた。風土という異なる土壌の上

に、これらの種は虹のごとく様々な色と芳香を放ってきたのだろう。

たとえ色が違っていてもその源流に流れる創造主の息吹は一つ

でしかない。私にはそのように感じてならないのだ。「この聖典を

読まなければ」「この宗教に入らなければ」などという創造主の

息吹から全く離れた死んだ言葉には、既に光は宿ってはいない。





この光の種を見出すのは自分自身の気づきと、絶えることのない

探求が求められているのかも知れない。たとえこの光の種を豊か

に花咲かせた師と出会っても、気づきとはなってもその師の花の

色になることは出来ないのではないだろうか。一人一人の心の風

土という原光景が違うからである。それを無理に合わせようとした

所に各宗教が産み出した悲劇の原形を見ることが出来るような

気がしてならない。他の人も自分と同じような色に染まらなければ

我慢がならないといったもの。この傲慢さは過去そして現在におい

て特にキリスト教の中に具現化されており、どれだけ多くの人の血

と涙が流されていったかは歴史が雄弁に証している。勿論この私

の中にも宗教とはまた違う形での傲慢さが巣食っていることは自明

なことである。ただキリスト教においてアッシジの聖フランシスコの

存在は、私にとって創造主の摂理を体現した数少ない一人として、

心に光を射し込んでくれるような気がしてならない。多くの生きとし

生けるものの声を真に聴くことが出来た人であったが故に。悲しい

ことに彼の弟子と称してはばからない修道士達が、先住民たちへ

何をしてきたのかを歴史は語っている。一人一人に宿っている光と

いう種は、師から与えられるものではなく、自ら追体験してゆくもの

であり、それを怠った所に悲惨な悲劇が繰り返されてゆく。





アメリカ・インディアンのレイム・ディアーが「二番煎じは嫌だ」という

言葉を使った意味は、一人一人自らの責任においてこの光を探し

だすことが絶対欠かすことの出来ない義務であるとの認識から来

ている。そしてそこには人間への、創造主への深い信頼が横たわ

っている。それぞれの魂の異なる心の風土から産まれ出でる花に

同じものは一つとしてなく、よって自らの探求によってしか導きだ

すことが出来ないものだからである。それは子供から大人として認

められるための儀式「ヴィジョン・クエスト」に象徴的に見ることが

出来る。シモーヌ・ヴェイユは「つねに、あらゆる場所で、真理を望

む人ならば誰でもが自由にとることのできるように、おかれていな

いものはすべて、真理とは別のものである。」と書き残しているが

この言葉こそ、一人一人に蒔かれた種の真の姿を現し、そして

ここにもアメリカ・インディアン同様に生命への、そして創造主へ

の深い信頼と希望が横たわっている。ヴェイユは感じていた。

存在そのものの重みに耐えうる人の瞳は、創造主の光に包まれ

ることを。たとえそれが生命を宿していない物体のかけらであろう

とも、蒔かれた種を豊かに花開かせた人の目には、その背後に

創造主の息吹が吹いていることを感じた。アメリカ・インディアンの

ラコタ族の長老マシュー・キングは言う。「風と雨と星がわしらの聖

書なんだ。わしらの聖書はこの世界であり、インディアンはそれを

何百年もの間、学んできたんだ」。私がアメリカ・インディアン、シ

モーヌ・ヴェイユ、アッシジの聖フランシスコに惹かれているのは、

それぞれの心の風土は異なっても、創造主が蒔かれた種を守り、

そしてそれを成長させ、豊かに花開かせた光の証人たちだからで

ある。存在そのものの重みに耐え、その後ろに創造主の息吹を

真に感じ取ることができた人々。たとえその表現は異なっても心

の奥深くに吹いている風は同じものなのだ。私は「在る」という

存在そのものに耐える人でいたい。そこにこそ創造主が蒔かれ

た種を花開かせる鍵があることを多くの生命と共に気づき合い

たい。最後に散文詩「時の彼方へ」にも書いたことだが、ある

無名の女性の言葉を紹介したいと思う。この女性は第二次

世界大戦中、アウシュビッツで多くの人と共に焼却炉で焼かれ

たが、その魂は光の証人として深く人々の心に記憶され、そし

てその光は多くの人々の道標として永遠に輝きつづけている。

(K.K)



虹の戦士たちへ
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それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。



「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉

どおりに彼女は私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘

やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追っていなかったからですの。」

その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹は一人ぽっち

の私のただ一つのお友達ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。



外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外を

見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑

の枝を見ることができた。



「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。

私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こし

ているだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしま

したか? -しましたって!-では何て樹は言ったのですか?」 彼女は答えた。



「あの樹はこう申しましたの。

私はここにいる-私は-ここに-いる。

私はいるのだ。永遠のいのちだ・・・・・・・。」



「V・フランクル著「夜と霧」みすず書房刊 より引用



「魅せられたもの」 1999.01.30 「未来を守る無名の戦士たち」を参照されたし

「心に響く言葉」 1999.09.09 「グレイト・スピリットの庭に咲く花」を参照されたし


 



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