「レイム・ディアー」

ジョン・ファイアー・レイム・ディアー口述 リチャード・アードス編

北山耕平訳 河出書房新社より引用

北山耕平さんのホームページ「Native Heart」


現在、この本の文庫版である「インディアン魂」(「レイム・ディアー」の改題)

が河出書房新社から出ている。




750ページを超すこの大きな本の最初には、レイム・ディアーがメディスンマン

として目覚めるまでの放蕩生活が語られるが、ヴィジョンを追い求める者と

して、彼はメディスンマンになる運命が待ち受けていた。インディアンの多く

の聖なる儀式の持つ意味が詳しく語られ、いつしかそれは、祈りへと導かれ

てゆく。この本の原書(英語)は1972年に発行され、フランスやドイツでベスト

セラーになったほどの古典的傑作である。またこの本の文庫版である「インデ

ィアン魂」(「レイム・ディアー」の改題)が現在河出書房新社から出ている。

そして彼の息子レオナルドもメディスンマンとして部族の霊的指導者として

後を引き継ぐが、四世代にわたる物語をレオナルドが「魂の指導者 クロウ・

ドッグ」という文献に記している。

(K.K)


雑記帳「魅せられたもの」1997.3/6「レイム・ディアー」を参照されたし


 




本書より引用


だが、今こそわしらインディアンが、生き方の見本を天下に示さねばならない。

どうすれば自分の兄弟たちと共に生きることができるのか?兄弟たちを使うの

でもなく、殺すのでもなく、傷つけるのでもない方法。それを見せてやらなくては

ならない。わしらは、わしらの一部である生命を持つパイプと共に、平和を祈り

つづける。戦争のあるところに平和のもたらされんことを祈り、わしらの国に平和

のもたらされんことを祈る。わしらは、ご覧のとおり今なおここを「自分たちの国」

とよぶ。なるほど物理的には、さまざまな国から来たさまざまな人種のひとたち

が、わしらの国の土地という土地を全部所有してしまってはいる。しかし、それ

でもなお、ここはわしらのものであるのだ。土地というものはけっしてひとりの人

間に帰属するものではなく、すべての人々と、これから生まれてくる者たちのも

のものであるのだからな。わしもパイプを人類のために使うようにせにゃならん。

人類は今、自己破滅の道のうえにいる。なんとしても、わしらは、パイプの道、

赤い道、生命の道に戻るようにしなくてはならない。自分で自分の首を絞めつつ

ある白人を、なんとしても救うように努めなければならない。インディアンとイン

ディアンでないとにかかわらず、わしらのひとり残らず全員が、他所から来た敵

として自らの意志を地球に押しつけるのではなく、もう一度自分たちをこの地球

の一部として見れるようになれたとき、そのときはじめて、それも成し遂げられよ

う。なぜなら、わしらはただパイプの意味を知っているのみならず、人間もまた

地球の生きている一部であり、母なる地球の肉体をほんの一部でも傷つければ、

それはすなわち自分自身を傷つけることにほかならぬことを、知ってもいるからだ。

おそらく、この聖なるパイプをもってすれば、政治家たちや、企業家たちや、専門

の技術者たちが「現実」としてわしらに押しつけてきているこの汚染された大気の

雲をとおして、そのむこう側を見ることだって、互いにもう一度学び合うことができる

だろう。このパイプをとおして、自分の内側のもっとも深いところに住み着いている

わしらの最大の敵とのあいだにも、おそらくは平和を作りあげることができる。この

パイプがあれば、わしら全員が、もう一度、あの終わりのない輪を形作ることも

できるのだ。


 
 


訳者後書き より抜粋引用


本書の語部であり、スー一族のたぐい稀なメディスンマンであったジョン・ファイアー・

レイム・ディアーは80年代初頭に亡くなっている。彼の言葉を借りれば、ゴースト・

トレイルを辿って南に行ったきりだ。彼が帰らぬひととなったことをわたしが知った

のは、1983年のことであった。たまたまサンダンスを見るためにアリゾナにあった

ナバホとホピの共有地にでかけたとき、そこで彼の息子であるアーチー・レイム・

ディアー氏と会いその事実を知らされた。氏は父親のジョン・レイム・ディアーから

パイプを引き継いでおり、聖なる土地を守るためにそこで開かれたサンダンスの

指導者の役を務めていた。そこではじめて目のあたりにしたサンダンスの儀式も

強烈な印象を残したが、前の世界を知っていたジョン・レイム・ディアーが、例の

モーニング・スターの毛布にくるまれて葬られた事実は、わたしとこの本をさらに

一層強く結びつけた。ジョン・レイム・ディアーはネイティブの魂を持つ世界中のひ

とたちにこの書物を残したのである。これは彼の遺言でもあるのだ。この本はあな

たを変えていくだろう。それだけの不思議な力、レイム・ディアーがメディスン・パ

ワーとよぶ偉大な力が、この本にははいっている。なんどもなんども読み返される

ことになるだろう。そして読むたびにちがう発見をするだろう。本書はすでにヨーロッ

パ各国語に翻訳され、フランスやドイツではベストセラーにもなった。


本書のオリジナルはこの20年間に著されたネイティブ・アメリカン・リタレチュアーの

最高傑作のひとつであり、はじめから古典となるべき運命を持たされていた本である。

わたしがこの本にはじめて触れたのは1978年、29歳のときだった。以後十数年間

この本をなんとか日本語化しようと試みたのだが、なかなか満足いくようにはできず、

諦めかけたこともなんどかあった。わたしが若かったことがとりあえず最大の原因で

あるが、それでもこれを訳し終えたいという意志だけは持ちつづけた。この本の翻訳

に駆り立てるなにかがあった。私をこの本にひきつけていたもの、それは「声」であ

る。シャーマニスティックな声だ。ショショーニ一族の伝統的メディスンマンであるロー

リング・サンダーと運命的な出会いをして以来、ネイティブ・アメリカン・ピープルに伝

わる口頭伝承哲学に深く関心を抱いたのも、その「声」に誘われたからである。これ

までわたしはアメリカ・インディアンの精神性についての本を一冊書き、アメリカ・イン

ディアンについて書かれた本を数冊翻訳した。とくに数年前「ホピの予言」(宮田雪監

督製作・1987年)というドキュメンタリー映画の製作に関わった際、ホピ一族というアメ

リカ南西部に数千年にわたって暮らしてきた伝統的な部族に伝わる予言と教えである

「ホピ物語・・・・生命のはじまりから浄化の日まで」(ダン・カチョンバ口述 ランド・アン

ド・ライフ・ジャパン刊 非売品)という小冊子も縁あって翻訳させてもらえたことがた

いへんな契機になったことはまちがいない。おかげでわたしはもう一度勇気を奮い

起こしてこの本の翻訳に立ち向かうことができたのである。それまでにできていた

原稿をすべて破棄し、まったく一からこれを訳し直すことにした。以後丸5年間、わた

しはこの本とむかい合って生きてきた。まがりなりにも自信をもって送り出せる形に

なったことは、物質的精神的に助けを受けた多くの友人たちのおかげである。この

日本語化された「レイム・ディアー」が良い本になっているならば、それはあくまでも

レイム・ディアー翁そのひとのメディスンのなせる術であり、万が一これが悪い本で

あるならば、それは訳者であるわたしの技量不足以外のなにものでもない。


 


目次


1 山のうえにひとりで

2 ニューヨークの博物館にあるあの銃 あれは、わしのもの

3 緑色の蛙の皮

4 飲んだくれになること 牢屋にはいること

5 ルーズベルト大統領の頭に腰をおろして

6 「丸」と「四角」

7 フクロウと蝶ちょに話しかける

8 毛布のなかにふたりで

9 良いメディスンと悪いメディスン

10イニピ・・・・偉大なる曾祖父の吐く息

11 ユウィピ・・・・いずこからともなく来る小さな光

12 太陽を見つめて 彼らは踊る

13 森を 傷つけるべからず

14 世界を 巻きあげる

15 天地逆さま、前後反対、熱さ寒さのひっくり返し

16 石になった血


後書きにかえて インヤン・ワシカン(石の白人)・・・・文・リチャード・アードス

スーのひとたちの言葉

訳者後書き・・・・文・北山耕平


 


2012年4月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




インディアンの言葉の中には多くの感銘する言葉があるが、私自身一番強烈に響いた言葉が、

放蕩生活からヴィジョン・クエストを通して目覚めたレイム・ディアーの次ぎの言葉である。



「二番煎じは嫌だ」



これはレイム・ディアーが生きた時代背景を捉えないと、単なる既存宗教の批判になってしま

う恐れがある。



彼が言いたかったことは、日々新たな生命・風を心に送り込め、自己の鏡を常に磨けという

ことなのだと思う。の見地から言うと、「一瞬一瞬を生きろ」ということなのかも知れない。



人は同じ位置に留まっていることは出来ない。新たな経験、思索により180度異なる視点を

持つこともあるだろうし、少しずつながら変化していくのは当たり前のことなのだろう。



しかしそれでもこの言葉には創造主への揺るぎない信頼が横たわっている。この処にしっか

りと立ち、そこに自分の根をおろさなければならないことを意味しているのかも知れない。



根づくことなく足下がふらついている時、何かにすがりつかなければ人は倒れてしまう。レイ

ム・ディアーは、当時の白人に対してそのような姿を見出したのだろう。だから彼はこの言葉

を使ったのではと感じてならない。



何かにしがみつくのではなく、深く深く自分の根っこを張れと。



☆☆☆☆



おお父よ、わたしはあなたの声を風のなかに聞き、

あなたの息はこの世界中のすべてのものに生命を与えています。

お聞きください。

わたしはあなたの前に、あなたのたくさんいる子供たちのひとりとして、 

今、立っています。

わたしは小さくて弱く、

あなたの力と智恵とを必要としています。



どうかわたしを、美のなかに歩ませ、

なにとぞこの眼に、赤と紫の夕陽をお見せください。

この両手が、

あなたの創られたものを、尊敬させるようにしてください。

この耳を、

あなたの声が聞こえるように、鋭くしてください。

そうすればきっと、あなたがわたしの一族に与えられた教えを、

一枚一枚の木の葉や、

ひとつひとつの岩のなかにあなたが隠された教訓を、

このわたしも、理解するかもしれません。



父よ、わたしは力を求めています。

偉大なる敵と戦うことができるようになるための力ではなく、

その力で、汚れのない手と、濁りのない眼をもって、

わたし自身があなたのもとを訪れる準備をさせてください。

もしそれがかなうのなら、

日没の太陽が姿を消すように、わたしの生命が終わりを迎えたとき、

いささかも恥いることなく、

わたしのスピリットはあなたのもとを訪れることができることでしょう。



アクエサスネ・モホーク・ネーションのセント・レジス・リザベーションのなかに立つ「トム・ホワ

イトクラウド」という名前のひとりのネイティブの墓に刻まれている祈りの言葉。「虹の戦士」

北山耕平 翻案 太田書店 より引用 注)写真はインディアンを撮り続けたカーティスからの

もので、レイム・ディアーではありません。

☆☆☆☆



(K.K)



 

 

2012年5月6日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




4月17日に投稿した「二番煎じは嫌だ」とも通じますが、ブッダの言葉の中で最も好きなものを紹介しようと

思います。



この言葉は後世にいい影響とそうでないものをもたらしたように思います。しかしブッダはそれ予見してい

ながら、それでも自分の教えが新しく生まれてくる人たちによってより深まっていくのを確信していたように

感じてなりません。



さまざまな宗教には多くの問題がありますが、それでもより洗練された姿になろうという方向性を感じます。



宗教の根源、沈黙でしか聴くことが出来ない次元に根を下ろした偉大な魂は道標として私たちを導いてく

れました。そして新たに生まれてくる魂が、今度はどんな景色をみせてくれるのか本当に楽しみです。



☆☆☆☆



君が川を渡るために筏(いかだ)をつくって、川を渡ったあとでこう考えたとしてみよう。



「この筏はとても役に立ったから捨てずに背負って歩いてゆこう」と。



そんなお荷物をかかえ込んでしまっては、重たくて重たくて、まともに歩けはしなくなる。



それが君の業績であれ学歴であれ職歴であれ、この筏と同じこと。



私の言葉も教えも真理すらもまた、この筏のようなものにすぎないのだから。



君が私の教えを使い終わったなら、惜しむことなく捨て去るように。



中部経典「蛇喩経」



「超訳 ブッダの言葉」より引用



☆☆☆☆




(K.K)





APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 

 

2012年5月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



題・・・「お父さん、宇宙が、金環日食が、ここにもあるよ」・・・自宅近く



(K.K)



 

2012年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



2004年の金星の太陽面通過、太陽の右側に金星が写っています。(写真はNASAより引用)



今日の部分月食は厚い雲に覆われ見ることが出来ませんでした。



でもお陰で近くに天体観望できる開けたところを新たに開拓することが出来たので感謝です。



ところで、明後日の金星の太陽面通過ですが、上の写真は2004年6月8日の時のものです。



じゃあ明後日見逃しても数年後に見れるんだ、と思われたら大きな間違いで、次は105年先に

なってしまいます。



105年先というと、現在の赤ちゃんでも見るのは殆ど出来ず、その赤ちゃんの赤ちゃんが長生

きしてようやく見ることができるのだと思います。



私たちが明後日見る金星の太陽面通過、そして次に目にするであろう世代を想像するとき、

インディアンの言葉を思い出します。



☆☆☆☆



「私たちの生き方では、政治の決め事は、いつも七世代先の人々のことを念頭におきなが

ら行われる。



これからやってくる人々、まだ生まれていない世代の人々が、私たちよりも悪い世界で暮ら

したりすることのないように、できればもっと良い世界に生まれてこられるように心を配るの

が、私たちの仕事なのだ。



私たちが母なる大地の上を歩くときに、いつも慎重に一歩一歩進むのは、これから生まれ

てくる世代の人々が、地面の下から私たちのことを見上げているからだ。



私たちはそのことを、片時たりとも忘れない」



オレン・ライオンズ(オノンダーガ族)



「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」築地書館より



☆☆☆☆




(K.K)









アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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