「英語化は愚民化」日本の国力が知に落ちる 施光恒・著 集英社新書
2016年6月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 UK | FT Photo Diary 自給自足できる国・世界秩序づくり(写真は他のサイトより引用) 端的に言えば、個人・国家が「根づくこと」だと思います。 この根を切り取り、「国境がない、民族間の違いもない」と言ったところで、種は空中に浮揚しているだけで 大地に新たな生命が産みだされることはないのでしょう。 かつて西欧・アメリカが行った植民地・先住民への同化政策により、「根こぎ」された無数の魂や国家が 空中に投げ出されました。 基盤を見失った種が、過激な思想などに自身を依存させてしまうことは容易に想像できます。 人間に限らず動植物においても、その土地の風土に大きな影響を受け、独自の根を張ってきたのではと 思います。 現代ではもてはやされている「グローバルな社会」は、個人・企業の欲、国家の欲が生み出した「根こぎ」を 美化した言葉に過ぎないと私は感じています。 農産物に限らず全ての分野において、国は自給自足の社会を可能な限り目指すべきであり、各国はその 実現に向けて互に協力すべきだと思います。 昔の時代が全て清い世界だったとは言えませんが、人類が歩んできた歴史から未来への礎を見つけだす ことくらい出来るはずです。 追記 2017年6月1日 「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人 を参照されたし。 |
2015年8月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 アイヌ民族や世界の先住民、特にアメリカ先住民(インディアン)の文献に多く触れてきたためか、国の同化政策により部族の言語を 失うことがどれほど悲痛なことか。 言語の消滅はその部族の伝統文化の消滅を意味している。 そしてその痛みを分からない日本人があらゆる分野のトップに就こうとしている。 以前にも書いたが日本語は世界的にみても希有な言語である。 祖語があり、そこから枝分かれした西欧の言語とは違い、日本語はさまざまな言語が融合した世界にも類がない言語。 この独特な言語が、日本独自の感性を養ってきた要因の一つであることは容易に推察できる。 勿論、他言語との架け橋として英語の大切さは言うまでもないが、それは自己の言語に誇りを持った上での話である。 2018年からの小学校では、将来的に「英語で討論・交渉できること」を目指した実践的な英語教育が始まるそうである。 文科省といい企業のトップといい、言語という自己を育んできた存在に対しての無知さが垣間見えてならない。 つい最近、日本の漢文学者・古代漢字学で著名な故・白川静さんの「常用字解」という辞書を購入したが、漢字にはこんな意味が あったのかと本を開くたびに自分の無知を痛感させられ、また新たな発見の驚きがある。 多くの人に日本語そして漢字の素晴らしさを改めて感じてもらいたい、その上で必要としている人は英語を勉強してほしいと 願っている。 追記 2017年6月1日 「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人 を参照されたし。 |
本書 「英語化は愚民化」 日本の国力が知に落ちる より以下抜粋引用 啓蒙主義とグローバル化 21世紀の現在、「グローバル化史観」に影響されているのは、日本人だけではない。アメリカやイギリスをはじめ、 多くの国々の人々がこの見方を共有している。 その一方で、この「グローバル化史観」が正しいかどうかについて、批判的な検討を試みている研究者も少なくは ない。たとえばイギリスの政治学者ジョン・グレイである。グレイは「グローバル化史観」の背景には、西洋的な啓蒙 主義があると指摘する。啓蒙主義とは、人間の理性や知性を信頼し、合理的に世界を見つめ、より良きものへと 進歩させていこうとする発想だ。 啓蒙主義思想では、それぞれの社会にもとからあるいかなる慣習や伝統、文化、社会通念に拘束されない存在を 「進歩した個人」であると看做す。慣習や伝統などから一定の距離をとり、そういったものを選択の対象と見ることが できることを啓蒙主義は進歩だと理解するのだ。 また、進歩した政治・経済の制度とは、土着の慣習、伝統、文化などの影響を脱し、「グローバルな普遍性」を持つ に至ったものだと理解される。「進歩した個人」は、一切の土地の慣習、伝統、文化から解放されるゆえに、このよう な普遍的な政治経済制度のもとでこそ、最も合理的かついきいきと活動できると想定されることになる。 このような啓蒙主義の考え方が現代人のものの見方の根底にあるため、グローバル化・ボーダレス化は、進歩へと 向かう際の人類の宿命であり、「普遍的な歴史法則」だとして理解される傾向がある。グレイはそのように述べ、 グローバル化・ボーダレス化と、いわゆる「歴史法則主義」との結びつきを指摘する。そして、グレイは「歴史法則 主義」が歴史を単純化する誤った見方である以上、現代の「グローバル化史観」にも疑いの目を向ける必要がある と警告するのだ。 英語化の罠を見抜いていた馬場辰猪(たつい) 福沢諭吉のような知名度はないが、森有礼の「英語公用語化論」に対して、建設的な方法で批判を行った人物も いた。慶応義塾の福沢のもとでも学んだ自由民権運動家、馬場辰猪である。その批判は、現代の目から見ても 非常に説得力のあるものなので、ぜひ紹介しておきたい。 馬場辰猪は、土佐藩の留学生としてイギリスに留学した経緯を持ち、非常に英語が達者だった。先に述べたように 森有礼も英語が得意であり、「英語公用語化論」も英語で訴えたが、馬場辰猪もこれに英語で反駁している。馬場 辰猪が森有礼に反対を表明したのは、ロンドン在住の時で、その方法は非常にユニークなものだった。なんと馬場 は、英語で日本語の文法書を著し、イギリスの出版社から出版したのだ。それはなぜか。(中略) 馬場の主張は、 主に以下の4点であった。 第一に、英語学習には大変な時間がかかり、若者の時間の浪費につながりかねない。英語は日本語と言語学的に 大変異なった言葉である。それゆえ、日本人の英語学習は非常に骨が折れ、時間がかかる。なすべきこと、学ぶ べきことの多い若者の時間が、無駄に費やされる恐れがある。 第二に、英語を公用語化すれば、国の重要問題を論じることができるのが、一握りの特権階級に限られてしまう。 英語学習は困難かつ多大の時間を要するため、英語に習熟できるのは、国民のごく一部の有閉階級に限られる。 日々の生活に追われる大多数の一般庶民が英語に習熟することは非常に稀だろう。したがって、国の諸制度が 英語で運営されたり、政治や経済に関する知的な議論が英語でなされたりするようになってしまえば、国民の大多数 は、天下国家の重要問題の論議からまったく切り離されてしまう。近代的な国づくりに国民のごく一部しか関われな いことになる。これでは、国民すべての力を結集し、欧米列強に伍していく国づくりを行うことができない。 第三に、英語の公用語化が社会を分断し、格差を固定化するという問題だ。国の重要問題から庶民を切り離すこと となるだけでなく、英語が話せるか否かが経済的格差につながり、豊かな国民と貧しい国民との間の軋轢を生む 可能性がある。果たして、それが近代日本の目指すべき国家の姿であろうか。 第四の問題点は、英語を公用語化すれば、国民の一体感が失われてしまうのではないかという懸念である。 馬場は言う。今の英領インドを見よ。英語を話すインド人と、インドの言葉を話すインド人の間には、「共通の思想も 感情も存在しない」。母語による共通の国民教育を実施する方法をとらない限り、インドで見られるような国民の 一体感の欠如は日本でも必ず生じるであろう。 英語化で壊されるもの @ 思いやりの道徳と「日本らしさ」 多くの日本人が日本の良さだと感じるものの一つとして、「思いやり」や「気配り」の道徳がある。言葉に出されなくて も、他者の気持ちや思いを細やかに察し、他者の観点から自分自身を見つめ、他者に配慮するものだ。「思いやり」 「気配り」の発達と日本語の特性には、密接な関係がある。日本語が生み出すものの見方や日本語会話で求めら れる習慣は、「思いやり」や「気配り」の文化の源泉である。 精神医学者の木村敏氏や言語学者の鈴木孝夫氏などが指摘してきたことだが、日本語と英語などのヨーロッパ 言語では、話し手は、異なった自己認識を迫られる。日本語には自分自身を指す語は、「私、俺、僕、自分、わし、 手前、小生」などたくさんある。また、話している相手を指す語も、「あなた、君、お前」など数多い。これ以外にも、 相手や自分を、職場や親族のなかでの「役割」で指し示す場合が少なくない。(中略) このように、日本語では、 会話のなかで自分や相手を指す言い方が多岐にわたっており、状況に応じて、うまく使い分けなければならない。 他方、英語などヨーロッパの言語は、自分や相手を指す語はとても限られている。ヨーロッパ言語では、自分や相手 を指す言葉は、せいぜいそれぞれ一語か二語ぐらいしかない。英語の一人称は、どんな場合でも常に“I”だ。これ は、英語の世界観では、常に自分が出発点、あるいは基準として、そこから周囲を認識するというものの見方になる ことを示している。自分がまず揺るぎなく世界の中心に存在していて、そこから他者や周りの状況を規定していくと いうわけだ。 木村敏氏の言葉を借りれば「一人称代名詞が例えばアイの一語だけであるということは、自分というものが、いつ いかなる事情においても、不変の一者としての自我でありつづけるということを意味している」。つまり、自我は、状況 や他者との関係の認識に先んじて、それとは独立に規定されることが表現されている。日本語の世界観は異なる。 日本語では、状況に応じて適宜、自分を指す言葉を柔軟に使い分けなければならない。自分の周りの状況を先に よく知り、その後、そこでの自分が認識されるという順番となる。 木村氏は次のように述べている。「日本語においては、そして日本的なものの見方、考え方においては、自分が誰で あるのか、相手が誰であるのかは、自分と相手との間の人間関係の側から決定されてくる。自分が現在の自分で あるということは、けっして自分自身の「内部」において決定されることではなく、つねに自分自身の「外部」において、 つまり人と人、自分と相手の「間」において決定される」。 日本が主張すべき世界秩序・・・・棲み分け型の多文化共生世界 では日本は今後、どのような世界秩序を目指し、国際社会に訴えていくべきなのか。本書のこれまでの議論に基づ けば、理想的な世界秩序構想のあり方に関して考えるうえで次の三つの観点が必要となってくる。一つは、「グロー バル化=進歩」という誤った見方に立たない、より適切な近代化理解の観点である。二つめに、日本社会の「良さ」 や「らしさ」を損なわず、一般の日本人が閉塞感や疎外感を覚えず、いきいきと暮らせるか否かという観点である。 三つめは、国内的にも、また世界秩序構想としても、「公平さ」という価値を損なっていないかどうかという観点である。 幸い、いずれの観点とも、同じ結論を導く。一言で言えば、多元的秩序である。私の好む表現を用いれば、「積極的 に学び合う、棲み分け型の多文化共生世界」とも言える。これは、ごく簡潔に述べれば、次のような発想で作られる 世界秩序である。 人間は、言語や文化を多かれ少なかれ背負った存在である。各自の言語や文化、慣習、思考や行動の様式を基礎 にした社会のほうが、人々は自分たちの能力を磨き、発揮しやすい。それゆえ各国、各地域ごとに、それぞれの言語 や文化があり、自前のやり方があることを、互いに尊重すべきだ。そういう相互尊重の多元的枠組みがあってこそ 公正な世界秩序だと言える。軽々しく「世界標準だ」「普遍的だ」などと口にし、自国の言語や文化、やり方を他国に 押し付けたり、一律化したりしていくべきではない。 ここで提案している世界秩序は、もちろん、孤立主義的なものではまったくない。それぞれ外国との交流は重視する。 外国と交流し、良いところは積極的に学んでとり入れねば、自国文化の多様性は増し、活性化もされるからである。 だがその際に重要なのは、それぞれ自国に合うように「翻訳」と「土着化」を繰り返すことである。そうしなければ、外来 の知の恩恵を受けられるのは、ごく一握りの特権層だけになってしまう。格差社会化も進展し、人々の連帯意識は薄く なり、社会の安定性も失われる。つまり、日本が訴えるべき理想的な世界秩序とは、各国が自国民の幸福を願い、 自国の言語や文化、発展段階などを大切にし、特色ある国づくりをそれぞれ行っていくことのできる多元的な秩序な のである。 |
2012年11月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 他の動画を見ていたら、偶然サンデル教授が日本で行った「震災後の民主主義の復活」という動画に 出会った。講演という時間的な制約のなかでも、聴衆者の相反する立場の意見が聴き、それを新たな 議論へと導くサンデル教授の手法にいつも感心してしまう。 本当ならもっと掘り下げた議論を聞きたかったけれど、一つ一つの問題を深く議論すれば膨大な時間 がかかるものだし、少し消化不良なものを感じたのも仕方ないことだと思う。 講義の内容とは関係ないが、サンデル教授や全ての聴衆者には同時通訳用の機械が渡されていたの にも関わらず、聴衆者の日本人同士が自分の意見を言い合う場面で、相手の日本人に対して、英語で 応える日本人が何人かいた。 尊敬している山中教授の受賞会見でも感じたことだが、話の内容に共感することはあっても、日本人 同士の会話で日本語で話すことは私にとっては当たり前のことだと思っているし、日常の会話で英語 の単語を多く使いたがる人間に昔から違和感を感じていた。勿論、これは私自身英語が苦手なので そう思うのかもしれない。 自分の考えや想い、それを如何に相手に正確に伝えるか、それは本当に難しいことで英語の単語を 使わず日本語だけを話せば解決する問題でも決してないし、日本語の特殊性(音訓読みなど)も関係 しているのだろうか。 西洋の言語が枝分かれして成立してきたのに対し、日本語は逆に様々な言語が一つの幹となってきて いること。これは安部公房さんが提唱されてきたことで、母語の違う集団(弥生人と縄文人)の子供たち が遊びの中で、自然に新しい文法や言葉が生まれてきたという説(「縄文 謎の扉を開く」を参照)がある。 ただ、見知らぬ人間相手に英語の単語を多用する人は、この説(子供の遊びの中で自然に)とは違う 次元にいるのではと感じてしまう。 話を最初に戻すが、講演後の中学生の言葉で、「いろいろな意見が聴けて面白かったし勉強になった」 という言葉、この柔らかな感受性はいつまでも忘れたくないものだと思う。 ☆☆☆☆ 追記 2017年6月1日 「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人 を参照されたし。 |
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