「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社









本書・帯分より引用



生くることは死にゆここと。

この哀しい事実に想到するとき、

人は住む世界を異にしていても

同じ思想に帰着するらしい・・・・

迫害と暴力、その彼方にあるものは?





比較神話学や民俗学の知見をふまえ、

北欧のふるき語りの宇宙に潜入する!





北欧神話とは、破壊と創造、闘争と平和、犠牲と豊穣、そして死と再生という

中心的テーマが脈打っている。それぞれの語りが緊密な因果の糸で結ばれ

ている。たとえば神界の没落をまねくバルドル殺害の悲劇は、宇宙創成の

原点にその根本原因がひそんでいた。生と死の循環原理に基づく語りは、

全体として円環的な構造をなしていると説く。





生くることは死にゆくこと。されど、死ぬことは生まるることという

強靭な古代思想がここに見える。


 


以下、本書より抜粋引用


北欧神話は、870〜930年にノルウェーからの植民者によってアイスランドに持ち込まれ、

彼らの子孫によって伝えられ、古アイスランド語で書かれている。





このような問答形式になっているのは、キリスト教の教理問答の儀式にならったのかもしれないと推定されて

いる。ともかく、ギュルヴィ王すなわちガングレリは、こうして徹頭徹尾、「幻惑(または眩惑)の魔術」にかけられた

まま、かずかずの問いを投げかけてゆき、三人の相手から解答を受け取ってゆくという体裁をとっている。その

問答のなかでギュルヴィは、原初の渾沌から宇宙創成にいたるまでのプロセス、そして世界を支配した神々など、

さまざまな話を聞き出している。その語りのなかには、人間の創成、神界の構成、侏儒(こびと)族の発生、世界樹

と運命(ウルズ)の泉、妖精族の特徴、オージンを主宰神とする神々の特性、ロキの一族、神界を中心に発生した

銘記すべき出来事、あるいはソール神とロキの旅、ミズガルズ蛇を釣り上げる話、そして、バルドル殺害の事件

など、その他もろもろの神話的情報がふくまれている。最後にラグナロクと称する「神々の滅びゆく定め」と世界の

没落、そして世界の新生にいたるまでの語りを聞かされるという構成である。



古代の叡智ともいうべき神話が、ここではひとりの世俗的な王の幻術体験という「枠組み」の内部に封入されて

いる。いわば、巨大な一幅の絵画の「額縁」のなかにはめ込まれたものは、神話的な物語の全体像を示唆しな

がらも、実はその一部抜粋でしかないのである。このような構成は、「神話作者」スノッリ・ストゥルルソンにとって、

資料を取捨選択する上できわめて好都合な方式であったと言えるだろう。むろん、その「額縁」の内側に収まり

きらなかったものは廃棄処分にされた。もし、ほかの書物(写本)に書記化されることがなければ、切り捨てられた

断片は、永遠に闇のなかに葬られたことになる。





たとえば、ニョルズについて、「風のゆくえを支配し、海と火を鎮める」と明記されている。ちなみに、詩歌

「アルヴィースの語り」によれば、風は「揺れるもの」という名で、神々の間で呼ばれているという。また、ヴァンの

神々の間で、海は「うねり立つもの」、火は「揺れ動くもの」と呼ばれているとされる。



風、海の波、および火の三つのエリメントに共通するのは、まさしく「絶えず揺れ動くもの」という特性である。それら

は、揺れ動くことをやめたとき、およそ存在しえなくなる。したがって、ニョルズという名は、語源的に「強き力を意味

しているが、風、海、そして火という、自然界に遍満する「揺れ動く霊力」を統括する人格神として崇拝されていたに

ちがいない(拙論参照)。



いま「霊力」と言ったのは、J・ドゥ・フリースが解明したような古ゲルマン人の霊力信仰に照らした用語である。ドゥ・

フリースによれば、日月星辰、神々、勇者、そして穀物やその種子、あるいは呪的なルーン文字などにいたるまで、

それぞれの物象や事物は、超自然的な力を内在していると信じられていた。たとえば、アース・メギンは「畏怖すべ

き神々の力」、メギン・ルーナルは「ルーン文字に秘められた力」を意味していた。そしてヤルザル・メギンは、豊穣を

もたらす「大地の力」の意味で用いられていた。今日でもスウェーデンの農民が「その種子にひそむ力」または「その

パンにひそむ力」という表現を用いるのは、そうした霊力信仰が古き時代より連綿と受け継がれてきたことを示して

いる。古ノルド語では、meginまたはmattrが「霊力」の基本概念を示すことばである。



意外に思われるかもしれないが、類似した霊力信仰は古代日本にも存在し、部分的に今日にも継承されている。

神話学者の松村武雄が指摘したように、潮つ霊(チ)、田霊(タチ)、水霊(ミチ)、山霊(ヲロチ)、血、乳、風(「東風

(コチ)や「疾風」(ハヤチ)のチ)などの「チ」の信仰が最も典型的にそのことを明示している。また松村によれば、

「チ」の概念によって統括されているものは「あらゆる事物や現象に内在する神秘的な力能」とされ、男・女の性が

看取される以前の「霊物」である、と定義されている。加えて、ムスヒ(産霊)、ワタツミ(綿津海)、ミタマ(御魂)、

オホモノヌシ(大物主)の神などのことばにおいて、ヒ、ミ、タマ、モノという語もその類型となる。



現代でも、日常語として使用している海幸、山幸におけるサチ(古くはシャチ)の名も、松村によれば、「チ」の概念

に包括され、古代においては、海幸彦と山幸彦との神話に代表されるように、海神と山神の神秘的な呪能を頼みと

すれば、それぞれ豊かなる獲物を授かることができるという漁労民と狩猟民の古代信仰より発しているとされる。





性器露呈の神話


さて、スカジの思惑には反したが花婿ニョルズを差し出すことで、「賠償」は一応成立した。残るは「スカジを笑わせ

る」という難問が残っている。スカジにしてみれば「神々には出来やしない」と思われたその「和解」の条件を、ものの

見事に満たしたのがロキであった。



ロキと牝山羊の綱引きにおいて特に注目されるのは、狩猟女神の面前でロキが男性のシンボルを露呈したという

ことである。先にコーカサスの例を引いたように、この一事をもってしても女神を喜ばせるための予備段階が整って

いる。しかしロキは自分の陰嚢と、なぜ「牝山羊の髭」を結びつけたのだろう?



その疑問を解くひとつの鍵が、「ヒュンドラの詠歌」の記述にひそんでいる。そこではフレイヤが情欲に駆られて夫の

オーズを追う一方で、他の男たちと浮名を流すことが非難されている。そして、そのような破廉恥にして好色な性格

が、牝山羊のヘイズルーンが牡山羊を追いかけ回すことと類比的に表現されている。いわば牝山羊は情欲・好色の

シンボルである。既に述べたように、スカジがロキを誘惑して性的関係に及んだという記録がある。したがってロキ

の綱引きの相手であった牝山羊は、「好色な狩猟女神」そして「並み居る男神たちにとっては輝くばかりの美しき

花嫁」スカジの本性を映し出している。



ところで「女性器露出」のモチーフについては、すでに吉田敦彦によって詳論されているように、日本のアマテラス

神話とギリシャのデメテル神話のあいだに顕著な類似が認められる。女陰を露出して踊るアメノウズメの卑猥な

所作が神々の爆笑を誘い、天の岩屋戸に身を隠していた女神アマテラスをふたたび外界に引き出すことに成功

した、という日本神話はもはや周知のことと思うが、「古事記」によって話のあらましを確認しておこう。



姉神アマテラスが統治する高天原でのスサノヲの乱行(「悪ぶる態」)は、およそとどまることを知らず、機織り場の

棟の上に穴をあけて、「天の斑馬(むちこま)を逆剥ぎ」にして落とし入れたとき、神の衣服を織っていた「天の衣織

女(みそおりめ)」が驚き慌てて、梭(ひ)に女陰(ほと)を突いて死んでしまった。これを見たアマテラスが「天の岩屋

戸」に幽居されたために、高天原ばかりか、「葦原の中つ国」もことごとく暗闇でおおわれてしまい(原文「常夜ゆく」)、

もろもろの災いが世にはびこった。そこでその危機を脱するために登場してくるのがアメノウズメだ。



アマテラスの隠りになった岩屋戸の前で、アメノウズメは、うつ伏せにした桶を踏みとどろかし、「神懸り(神霊の憑依)

して、胸乳をかき出で」、裳の紐を陰部におし垂らして舞い踊ったところ、もろもろの神々がそれを見て、どっと笑った

という。原文には、「八百万の神とともに咲ひき」とある。あとは、その様子を不思議に思ったアマテラスが岩屋戸を

少し開けたところを、待ち構えていた手力男の神がその手を導いて、外へ引き出したという話である。



これとよく似たギリシャ神話として、娘ペルセポネが冥府神のハーデスによって誘拐されたことによって、飲食物を

一切口にしないほど悲嘆に暮れた母神デメテルに対して、エレウシスの土地の女バウボーが、その面前で自分の

性器を露出して見せることによって女神の笑いを誘い、その機嫌をとりなすという話がある。



アレクサンドリアのクレメンス(150〜215年頃)の記録によれば、娘のゆくえを探して、デメテルがアッティカ地方の

エレウシスをさまよい、疲れ果てて、深い悲しみに打ちひしがれて、とある泉のそばに座りこんだとき、バウボーと

いう名の土地の女がデメテルを客人として招きいれ、ワインと食物をふるまったという。



女神はその食物を口しようとはなさらず、悲嘆のゆえに飲むこともなさらなかった。バウボーはいたく傷心して、自分

が軽んじられたと思った。そこで、やにわに陰部を露わにして、女神に見せた。デメテルはそれを見て喜ばれ、つい

に飲食物を口になさったのだ・・・・その光景をたいそう欣喜なされて。

(アレクサンドリアのクレメンス「ギリシャ人への訓戒」2.17)





鳩間島の「プール」祭の三日目に、東西に分かれて綱引きが行われるが、「象徴的な贈答行為」の後に、東組

には男たち(長刀と酒を持つ)、また西組には女たち(稲と粟の穂を結んだ籠を持つ)が陣取り、まず互いに近づい

て、「穀物の入った籠と酒」とを交換する。そしていよいよ綱引きが始まるが、「毎年、西組がかならず勝つ仕組みに

なっている」という。なぜなら、西が勝てば来年は豊作、もし東が勝てば凶作になることが予想されるからだとされる。



このような宗教的な観想をスカジ神話に当てはめれば、「男性側」の引き手であるロキは、女神の膝に倒れ込む

ことによって、「牝」山羊(女性原理の代表)との綱引きに負けてみせなければならなかったことになる。そもそも

スィチヤ殺しは「男性神たちの暴力」によって生じた事件であった。したがって「男性器の露出」によって男性原理を

代表したロキが、女性原理の前に屈服することによって「和解」が成立し、来るべき年の豊猟が期待されることに

なる。あわせて海の神ニョルズは、「神々の輝かしき花嫁」という称辞が与えられた美女神スカジと結婚する幸運に

恵まれたのであるから、海での「豊漁の予兆」となったと解しうる。





王殺しの伝説


「ユングリンガ・サガ」15勝によれば、スウェーデンのドーマルディ王の治世中に飢饉が蔓延したという。そこで人々は

ウプサーラにおいて大供養祭を遂行した。その年の秋に数頭の牛を犠牲にしたが、いっこうに事態は好転しなかった。

翌年の秋には何名かの人間を犠牲にしたが、事態はむしろ悪化した。3年目の秋、犠牲の時節の到来ということで

人々は大挙してウプサーラにやって来た。首長たちは会合を開き、飢饉は自分たちの王ドーマルディに責任があり、

「豊年を招くにはかれを血祭りに上げるべきだ」ということで一致をみた。すなわち「かれらは王を襲撃して殺し、祭壇を

かれの血で赤く染めるべし」という決議を下し、それを実行に移したというのである。



この伝説の後に〈フヴィン出身の〉スィヨーゾールヴの詩歌が引用されており、その中にもスウェーデンの民がドーマルディ

王を殺したのは、「豊年を乞い願って」(アールギョルン)のことだったと明記されている。



以前につぎのような事が起きた。

刃持てる者どもが

大地を赤く染めた、

自分たちの王の血で。

土地の主たちは

ドーマルディの

命を奪い

血潮のついた武器を携えていた

それも豊年を願うあまりに

スヴィーアの民が

ジュート族の敵なる人(ドーマルディ)を

殺すべしとした時のこと。


(「ユングリンガ・サガ」15)



すなわち動物と通常の人間の犠牲によって悪しき状況を打開することができず、最終的には彼らの統治者なる王を

犠牲に処することによって豊饒を招きよせようとしたことが読み取れる。ドーマルディの亡き後は、その息子の

ドーマッルが王位に就任し、かれが統治している間は「豊饒と平和」に満ちた時代であったという。したがってこの

意味において、王の犠牲によって人々は飢餓の時代をのり越えたことになる。



右の詩歌の最終行におかれた動詞「殺す」について、ラーシュ・リョンロートは「(作物の)種子をまく」の地口であると

解し、「王の肉体が豊饒を招くための種子のような使われ方をしたことを示唆している」と述べている。しかし、ここで

はむしろ「王の血で祭壇を赤く染める」ことの主眼が置かれており、その肉体がたとえば解体されて、大地に種子の

ようにばら撒かれたとは想像しにくい。この詩歌にも詠まれているように、王の血が大地に滴り落ちることから豊饒が

招き寄せられるという古代信仰があったようである。



「ヘイムスクリングラ」の「ハーコン善王のサガ」14章を参照されたい。そこでは異教の犠牲祭に執心するシグルズ侯

のエピソードが記されている。場所はノルウェーの北、トロンヘイム、犠牲祭の時節の到来ともなれば、農民たちが食物

をもって異教の神殿に集まって来る。この祝宴(ヴィイスラ)においては参加者全員がエール酒を飲んだとされる。馬を

含めたいろいろな家畜が犠牲に処せられ、血は「供犠の血」(フロイト)、また血を撒く小枝は「供犠の枝」(フロイト・

テイン)と呼ばれた。その小枝を用いて、偶像の台座や神殿の壁の内側と外側など、いたるところに血を撒き、また

塗りたくると記されている。先のドーマルディの場合も、「祭壇をその血で赤く染めるべき」とあるからには、同じような

儀礼に則っていたのだろう。



「ハーコン善王のサガ」の記述によれば、犠牲獣の肉を煮て、宴会の食物として供された。神殿の真ん中にいくつも

火が燃えており、その上に鍋がかかっている。そして犠牲用の容器が火のまわりに運ばれ来たると、宴会をとりしきる

首長が犠牲獣の肉と酒杯にかけて、つぎのような手順で祝杯をあげるという。



まず最初にオージンに祝杯を捧げた。それは王のために勝利と権勢を祈願して飲むべきものであった。つぎに豊作

と平和を祈願してニョルズとフレイに祝杯をあげた。それから多くの者たちは王のために乾杯する慣わしであった。

人々はまた亡き親族を偲び乾杯したが、それは追悼礼と呼ばれた。


(「ハーコン善王のサガ」15)





こうして北欧に始まり、日本とギリシャにおける「王の犠牲」の伝説を概観してきたのだが、細部こそ異なるものの、

「豊穣を招き寄せる」ことを本来の目的とした共通する信仰背景が認められた。一見残忍と思えるが、牛や鹿などの

聖なる犠牲獣の供犠とパラレルな関係をもって、神聖なる王者の犠牲的な死が語られ、「流された血を大地に滴ら

せ、また祭壇に振りまく」古代呪術がひそんでいた。



そして古代日本においても、王者や獣を「はふる」(屠る・散る)ことは、「けがれを祓い散らす」という宗教的な行為

(「祝り」)に連結していた。いわば「羽振り」は、まつろわぬ者どもを平伏させ、神への犠牲者として「葬る」(血祭りに

あげる)ための古代呪術であった。祟神紀にみえるように、「謀反」をくわだてた(「帝傾ぶけむ」)者を葬り去ったのち

に、その呪術の最終目標が達成される、という「王花」(おもぶけ)の思想(人心を帝王のもとになびかせること)が

打ち出されている。「羽振り」は、波や風のハフリ(「溢り」)を導く。端的には、「反逆者」たちを「平定」したのちに、

「豊穣」がこの世にあふれる(「溢り」)という、古代の呪術的な、かつ政治的なイデオロギーが存在していることに

なる。



ずいぶんと遠回りをしたが、そのおかげで、北欧神話のなかの一連の「殺害」の意味するものが、より鮮明に見えて

きたようだ。たとえば、巨人ユミルの殺害によって宇宙が創成され、虐殺された女神グッルヴェイグが蘇生を繰りか

えすことによって、両神族が「和平」を結ぶにいたった。そして女神イズンの「略奪者」となった巨人スィヤチの虐殺が、

ひいてはその娘のスカジとニョルズ神の「聖婚」を導いている。それは「山と海の原理の和合」を意味していたが、

同時にアース神族と巨人族の一時的な「和解」を意味していた。



こうしてみると、バルドルも「神々の犠牲者」として殺さねばならなかったと推定できるだろう。「犠牲と豊穣」にまつわる

古代思想が、北欧神話のなかでまぎれもなく語られていることを終章で確認してみよう。





ただし、バルドル神話は「身代わりの山羊」の図式だけでは説明がつかないところも多々ある。たとえば、ショック死した

妻ナンナばかりか、バルドルの馬までもが、馬具とともに同じく火葬の薪に上げられ焼かれている。神々は「毎朝のように、

運命の泉に向けて馬を走らせる」のだが(「ギュルヴィの幻惑」15)、バルドルの愛馬を屠殺したということは、そのような

「裁きの神」としての特性も完全に剥奪したことを意味しているだろう。そして、もしバルドルが「神々の罪と穢れ、そして

災厄」の一切を背負わされて、冥府ヘルに下降したとするならば、ヘルはなぜ、「万物の嘆き」という困難な条件を提示して

まで、バルドルの返還を拒んだのだろうか? この問いについては、先述したように、ロキの娘ヘルとバルドルの結婚の

モチーフを想定することによって解答可能となる。いずれにせよ、いろいろな要素が絡まりあってバルドル神話が成り立って

いる。



最近ではルネ・ジラールが、「身代わりの山羊」という著の中でバルドル神話に言及している。ジラールは、より古い神話に

おいては、アースたちの集団による殺害が一種の「迫害の基本的な常套手段(ステレオタイプ)として、よりあからさまに

語られていたと推察し、後代の人々がこの「集団による殺害」を抹消するために、「悪魔的な存在者」としてロキが登場させ

られている、と読解した。すなわちジラールによれば、「集団リンチに参加した全員が本来は共有していた暴力」の責任が、

ひとりロキに集中的に帰せられることによって、いわば「ロキの名声を犠牲にすることによって、他のすべての神々の名誉

回復がなされている」、と論じている。



「暴力と聖なるもの」や「身代わりの山羊」その他の訳著を通じて、「暴力と犠牲」についてのルネ・ジラールの理論は、神話

と犠礼と文学の間に緊密な連関を打ち立てるものとして、わが国でも画期的なものとして受けとめられている。しかし、この

バルドル殺害神話に関するかぎり、「ロキの関与」が本来の神話には無かったという議論そのものは、1920年大のオイゲン・

モックなどをはじめとして、古くから繰り返されてきた。モックによれば、原神話では、バルドル殺しはホズが単独で成就した

話になっていて、後代の神話伝承の担い手によって改変され、「ロキの関与」のモチーフが挿入されたのだという。



しかし、ジラールの功績のなかで特筆すべきは、たとえばキリストの磔刑、黒死病の流行時のユダヤ人虐殺、あるいは

魔女狩り裁判といった、「集団による迫害」というかずかずの史実の根底にひそむ図式が、神話のレベルにおいても直接、

間接に認めうることを発見したところにある。そうした「迫害の基本的な常套形式」は、ジラールによれば、つぎのすべての

要件が揃っている必要はなく、みっつ、または場合によっては二つでも充分だとされる。




@ 暴力の行使

A 危機の存在

B 犠牲者の選び

C 犠牲者に危機の責任を負わせて、これを殺害するか、もしくは犠牲者によって「汚染」された共同体から追放する。


 



Baldr - Wikipedia, the free encyclopedia





以下、本書より引用


バルドルの再来と世界の新生



第六章で触れたように、バルドルを冥府から連れもどすための万物の嘆きの儀礼は、ひとりソックの妨害によって

失敗してしまった。ラグナロクにおいて、神々も巨人族も、魔物たちもことごとく滅び去った。こうして全世界が崩壊

したまま、北欧神話の語りが終焉を告げれば、まさに暗澹たる思いに襲われるところだが、時を経て、海の中より

ふたたび、「とこしえに緑なす大地が浮かびくる」とされる。そして不思議にもバルドルは、自分を殺したホズととも

に、この世によみがえってくる、と歌われている。(「巫女の予言」59〜62)。



かの女(巫女)は見る、

海中よりふたたび

とこしえに緑なす

大地が浮かびくるを。

滝はたぎり落ち、

山に棲まう、

鷲が上空を飛び、

魚を狙う。



アースたちは、

イザヴォッルに邂逅し、

そして力猛き

大地の帯(ミズガルズ蛇)のことを語らう。

そこで思い出されるのは、

畏怖すべき運命的な出来事、

そしてフィムブル・テュール(偉大なる神オージン)の

古き秘蹟(ルーン)のことども。

そこでふたたび

草むらのなかに、

不可思議な

黄金のチェス駒が見い出されよう、

それらは過ぎし昔に

神の族の持てしもの。



種まかずとも

穀物は育つだろう・・・・

ありとあらゆる災厄が吉に転じよう、

バルドルは来たらん。

彼らホズとバルドルは、

戦士の神々の聖域なる

フロフトの勝利の地に住む。

おのおの方、さらに知るや、それとも如何に?



先述したように、バルドルの落命が引き金となって、ラグナロクにおける「大いなる殺戮(アヴタカ)」と「喪失」

(ミッサ)が生じることについては、父神オージンが予知していた。いわば、このような大量の犠牲をもってはじめて、

「悲嘆・哀悼の情」が世界にみちあふれ、ヘルが提示したような、バルドル再生の条件が整ったと言える。



「魚を狙う」鷲の描写は、常態への復帰を意味しているのだろうか。それとも、「知恵と予言」のシンボルとしての

蜜酒を巨人から盗み出したとき、オージンが鷲に変身したように、新しき英知をつかさどる神の存在を示唆して

いるのだろうか。



アースたぎが「イザヴォッルに邂逅」するとき、それは天地創成した神々の所作(「巫女の予言」7)を「ラグナロクを

生きのびた者たち」が模倣することを意味している。彼らは、ミズガルズ蛇との激闘、そして「畏怖すべき運命的な

出来事」のかずかずを思い起こすとされる。当然その追憶のなかには、バルドル殺害という不可避的な一大事も

ふくまれているにちがいない。あたかも、往昔の日々にまつわる彼らの記憶が、神話的な時間を反転させるかの

ようである。



フィムブル・テュール(「偉大なる神」)と称されたオージンが駆使したルーンの秘儀も、いまや遠い昔のことのように

思える。そのとき、草むらの中から、「黄金のチェス駒」が見い出されるというのは、単なる偶然ではありえない。この

「古言」(ふること)を吟じ、悠遠なる過去を「幻視」する巫女のまなざしには、天地創成の大業をなした神々が、トゥー

ンの野原で盤戯に打ち興じた(8節)、あの黄金時代の記憶がまざまざとよみがえってきているのだろう。



バルドルとホズがかつての敵対関係を解消して、フロフトの地に平和に住むとされる。フロフトは「呪言・託宣の神」

の意で、オージンの別名である。バルドルの冥界下降とその蘇生は、「種まかずとも穀物は育つだろう」と歌われて

いるように、大地に豊穣力がよみがえることを象徴している。バルドルと、その仇敵であったホズの蘇生、それは

積年の敵意と不和の解消を象徴し、まさに多くの犠牲を払うことによって、「平和と豊穣」の時代が再来することの

予兆となっている。グッルヴェイグをめぐる「この世で最初の激闘」と彼女の「虐殺と再生」の秘蹟が、ヴァンとアース

両神族の「和平」を導いた話と一脈通ずるところがある。



「ありとある災厄が吉に転じよう、バルドルは来たらん」という予言は、「バルドル殺し」の事件がひとつの「畏怖すべ

き運命的な出来事」として繰り返して生じうるが、その惨劇を経験することによって、世界が更新され、バルドルは

再来するだろう、という、民の期待と祈願が存在していたことを示している。これまでに卑見を提示してきたように、

バルドルは豊穣と幸をもたらす「北欧のマレビト」であると定義できる。



こうしてラグナロクの試練をくぐりぬけて、何人かの者たちが生き残った。ヴィーザルとヴァーリ、そしてソール神の

息子なるモージとマグニたちだ。それぞれ「勇武」と「強力」を意味し、まさに次代を担う若き勇者の登場を物語って

いる。また、とある森の中で朝露で命をつなぐ者がいて、彼らから新たに人類が発するとされる。ちょうど、ユミル

殺害のあとに発生した大洪水を生き残った巨人がいたのと同じように。まさに、すべてのものが滅んだ後の

「夜明け」の記述であり、大いなる死のあとに生の鼓動がはじまる。と同時に、円環的な神話の語りがここに完結

をみることになる。



 


以下、本書「あとがき」より抜粋引用


いまにして思えば、1980年代は「生と死」のテーマを中心にして母神、豊穣、運命、犠牲、あるいは楽園の問題に

取り組んできたことがわかる。とりわけバルドル殺害神話のなかには、これらの問題がすべて含んでいる。その魅力

は尽きることがない。



その一方で、「風、海そして火の神ニョルズ」(1982年)や「古ゲルマンの楽園の原風景」(1984年)、また「神々の

犠牲者としてのバルドル」(1986年)などの考察を進めるうちに、「古北欧のマレビトと常世郷」という新しい問題が浮上

してきた。わが国の民族学では周知の「流され王」(柳田国男)や「マレビト」(折口信夫)の基本概念は、北欧神話の

分析に適用可能であるどころか、きわめて有効である。岡正男や山口昌男その他の諸賢によって提示された「異人

論」は、北欧神話の世界観を説明するための方法論となりうると同時に、神々や勇者の特性を照射してくれる。その

追求は現在も続行している。



本書は、水と火、対立と平和、死と再生、創造と破壊、および犠牲と豊穣などの諸問題を扱っており、主として、私の

研究史の前半部に総括を加えたものになっている。言いかえると、「北欧マレビト考」の着想を得る以前のテーマが

中心である。総じて「生と死の循環原理」が、北欧神話のなかで一貫して語られていることを示したつもりである。



本書の脱稿の数日前、朝日新聞に詩人・高橋睦朗氏の評言が掲載されていた。



「人間は死と戦い、未知を追いつめ、闇を追撃したあげく、生を、知を、光を痩せさせてしまった。じつは生を富ませる

のは死、知を甦らせるのは未知、光を輝かせるのは闇であるという単純な事実を忘れてしまったからだ。」

(2002年1月3日付け「朝日新聞」「白い手帳に」)



まさしく至言である。北欧神話において、死と生、未知と知、闇と光のそれぞれの境界は、つねに来往を繰り返す

べきものとして存在している。原古の巨人ユミルは「新たなる生と創造」のために殺されねばならなかった。同じく

バルドルは、永遠に「不死」であり続けることは不可能であった。光り輝くバルドルの下手人となりはてた者が、闇の

化身としての盲目のホズであるというのはいかにも意味深長である。



「生と死」のテーマの追究が、ある意味でえは必然的に、海のかなたより来往する「北欧のマレビト」および「異人と

外来王」の構想を促すにいたった。「北欧の異人・マレビト考」については、同じく松柏社から姉妹篇として近年中に

刊行が予定されている。


 



e-tonamino.com│よみもの│となみ野ストーリー


水野コレクション より以下引用


水野美知子
(故水野知昭教授夫人)


一昨年秋に主人が急逝して1年5ヵ月が過ぎました。その間に研究室から戻ってきた書籍と、自宅で使用していたものを

併せると、私共にはたいへんな数の本が残されることになりました。



主人が約三十年間に国内外で集めた書籍は、専門の北欧神話・古英詩、またそれらとの主な比較研究の対象であった

日本民俗学関係だけに留まりませんでした。その広がりは、さまざまな比較領域から事例を見つけ出す探究心と論文

執筆意欲ゆえと思われます。



見返しの遊びに記された購入の日付・書店名などを目にすると、その当時が懐かしく思い出されます。タイミングよく本を

手に入れた時はことのほか嬉しそうで、それをインスピレーションの源として持論を展開して、また次の研究へとつなげて

ゆき、多くの論文を残しました。



以来、私共だけで所有して死蔵、散逸しかねない主人の蔵書を、然るべき公的な場所で「生きた本」として活用できない

ものかと模索しておりました。また「一生懸命に収集したこれらのまとまった専門書が研究者に利用されれば、その研究

もさらに展開してゆくのでは」との思いもありました。



そのような折昨年10月に、幸いにもその全てが、信州大学附属図書館に「水野コレクション」として移管・保存されました。

主人が研究生活を続けたこの松本の地、信州大学に蔵書を残すことができとても嬉しく思います。



研究半ばではありましたが、主人の思いも込めて、後継者が育つことを願いつつ、このコレクションが専門家だけではなく、

国内外からより多くの人々に検索・利用されることを期待いたします。



2007年3月






野津 寛
(信州大学人文学部比較文学分野 助教授)


平成17年10月23日、本学人文学部文化コミュニケーション学科比較言語文化講座の水野知昭教授が急逝されました。

56歳という若さでした。周知の通り水野教授は北欧神話文学研究の分野で目覚ましい研究成果を数多く公にしてこられ

ましたが、長年かけて収集された膨大な蔵書が後に遺されることになりました。これらの貴重な蔵書をぜひとも信州大学

図書館に寄贈し、後進の方々の研究と教育に役立ててもらいたいという、ご遺族からの願っても無いご提案に答える形で、

信州大学図書館スタッフの尋常ならざるご尽力と、学生の有志の皆さんの熱心なご協力の結果、総数5700点(洋書3800点、

和書1900点)からなる「水野コレクション」が、こんなにも早く、完全な形で目録化され、信州大学図書館の開架図書として

検索・閲覧可能な状態になったことを大変嬉しく思います。



「水野コレクション」が、水野教授の狭義の専門分野であるゲルマン語学と北欧神話文学に関して他に類を見ない貴重な

コレクションであることは言うまでもありません。しかし、水野教授の学問的な関心はご自身の狭義の専門分野を遥かに

超えて、周辺領域へと果てしなく広がっていました。「水野コレクション」のカヴァーする領域は、印欧語比較文法、比較

神話学、西洋古典学(古代ギリシア・ラテン文学)、古代インド、オリエント、ケルト、日本神話、民族学、人類学にまで及ん

でいます。水野教授の蔵書の全体を眺めることによって、水野教授の専門分野における学問の深さと広さを、水野教授の

研究が向かおうとしていた行き先を感じ取ることが出来ることでしょう。「水野コレクション」が学内外を問わず多くの人々に

利用され、志半ばにして絶たれた水野教授の学問の精神を継承して下さる方がいつの日か現れることを祈ってやみません。



2007年3月




Baldr's death by SceithAilm on DeviantArt


King and Queen (sculpture) - Wikipedia

1952年、スコットランド 「キングとクィーン」
20世紀のイギリスを代表する芸術家・彫刻家である、ヘンリー・ムーアの作品



アイルランドの写真(大きな画像)(他のサイトからの引用)

 




2015年11月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


アイルランド(写真は他のサイトより引用)



22歳の時に何気なく取ったアイルランドの写真集、思えばそれから写真や写真集に惹かれていったのかも知れない。



アイルランドと言えばIRA(アイルランド共和軍)によるテロしか思い浮かべなかったが、大地や人々の息づかいが

聞こえてくるような写真に、私自身の眠っていた遺伝子を呼び覚まされるような不思議な感覚を持った。



ケルト人の宗教は自然崇拝の多神教であり、エンヤやケルティック・ウーマンの音楽を通しても、澄みきった風の

ささやきが聴こえてくる。






Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「死に至る病 (まんがで読破)」キェルケゴール・作 バラエティアートワークス

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作 & サンデル「正義とは」・ハーバード白熱教室

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

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