プラトン全集 5 岩波書店 1974年発行 より以下抜粋引用


「饗宴」・・・恋について・・・ 鈴木照雄・訳



『では』と彼女は応じた。

『わたしたちがたびたび認めてきたあのものを、恋はその本性上目指すのであると、もし

あなたが信じるなら、訝るのはよしましょう。つまり今の(動物)の場合死すべきものの本性は、先と同じ理屈により、

永遠に存在し不死であることをできる限りにおいて求めるものなのです。しかしそれは、この出生という方法によって

のみ可能なのです。なぜなら、それは古いものに代って新しいものを常に残していくからです。このように言うのは、

じつに次のようなことがあるからです。動物の各個体が生存しそして同一のものであり続けると呼ばれる間、・・・・

たとえば、人は幼児から老人になるまで同一人と呼ばれます。まったくの話、その者は決して同じものを自分のうちに

持っているのではないのに、しかも同一人と呼ばれますが、その実、髪でも肉でも骨でも血でも、いや、身体の全部に

おいて、常に若返っているとともに、他方では失うものがあるのです。しかも、それは肉体に関してだけのことでは

ないのであって、魂に関してもまた、性向、人柄、意見、欲望、快楽、苦痛、恐怖、これらはいずれも同一不変のものと

して各人にあるのではなく、そのあるものは生じ、あるものは滅びるのです。しかしそれよりもはるかに奇異なのは、

じつに知識といわれるものの場合です。つまり、わたしたちの内においてそのあるものは生じ、あるものは滅び、

したがってわたしたちは知識に関しても決して同一不変の者ではないのですが、単にそれだけではなく、さらに

それらの知識のどれであれ一つ一つがまた同じ(たえざる変化)の状態にあるのです。つまり、復習するといわれる

行為が知識に関わるのは、知識が逃げ出すものと考えられてのことなのです。なざなら、忘却は知識が逃げ出すこと

であり、復習は、去って行く記憶の代りに新たな記憶を飢え付けることによって、再びその知識を保全し、その結果

それが同一の知識と思えるようにすることです。・・・・まことにこの方法によって、死すべきものはすべて保全される

のです。つまり、神的なもののようにまったく同じものとして永遠にあるという仕方ではなく、古くなり去り行くものが、

かつての自分と同じような別の新しいものを後に残していくという仕方です。この工夫によって、ソクラテス』

と彼女は語り続けた。

『死すべきものは、肉体でもそのほか何でも、不死にあずかるのです。しかし、不死なるものは別の仕方によってです。

まあそんなわけだから、すべてのものが自分から生まれ出たものを大事にしても、驚くことはないのです。なぜなら、

この熱意と恋とがすべてのものに随伴しているのは、じつに不死のためだからです』







『さて、いろいろの美を順を追って正しく観ながら、恋の道をここまで教え導かれて来た者は、今やその恋の道の窮極

目標に面して、突如として、本性驚嘆すべきある美を観得することでしょう。これこそ、ソクラテスよ、じつにそれまでの

全努力の目標となっているところのかのものなのです。すなわち、それはまず第一に、永遠に存在して生成も消滅も

せず、増大も減少もしないものです。次に、ある面では美しいが他の面では醜いというものではなく、ある時には美しい

が他の時には醜いというのでも、ある関係では美しいが他の関係では醜いというものでもなく、またある人々にとっては

美しいが他の人々にとっては醜いというように、ある所では美しいが他の所では醜い、というものでもないのです。

さらにまた、その美は見る者に、何か顔のような恰好をして現れるものでなく、また手や、そのほか身体に属する

いかなる部分の形をとって現れることもないでしょう。それに、何かある言論や知識の形で現れることもなく、また

どこかほかの何かのうちに、例えば動物とか大地とか天空とか、その他何ものかのうちにあるものとして現れることも

ないでしょう。かえってそれ自身、それ自身だけでそれ自身とともに、単一な形相をもつものとして永遠にあるのです。

ところがそれ以外の美しいものはすべて、いま述べたあの至上の美を次のようなある仕方で分ち持っているのです。

すなわち、これらほかの美しいものが生成し消滅しても、かの美は決して大きくなったり小さくなったりせず、いかなる

影響も外から受けないという仕方です。したがって、ひとが、自分の正しい少年愛のおかげで、この地上のもろもろの

美から上昇して行って、かの美を観じ始めるときには、その者はほとんど窮極最奥のものに達したことになるでしょう。

なぜならば、じつにそれが、自分で進むなり他人に導かれるなりして、恋の道を進む正しい進み方だからです。

つまり、地上のもろもろの美しいものから出発して、絶えずかの美しいものを目的として上昇して行くのですが、

その場合ちょうど階段を使うように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての

美しい肉体へ、そして美しい肉体から美しいかずかずの人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へと

登って行き、最終的にはそのもろもろの学問から、ほかならぬかの美そのものを対象とするところのかの学問に

行き着いて、まさに美であるそのものを遂に知るに至るというわけなのです』

とこのマンティネイアから来ている異国の婦人は語るのだった。

『親愛なソクラテス、いやしくも人生のどこかにあるとするならば、まさに此処においてこそ、その生活が人間にとって

生きるに値するものとなるのです。なぜなら、その者は美そのものを観ているからです。ひとたびあなたがこの美を

見るならば、それは黄金や衣装の比ではなく、世の美少年美青年の比でもないと思われるでしょう。現在のあなたは、

その青少年たちを見て有頂天となり、またあなただけでなくほかの多くの人々も、もし自分の愛する少年を見ながら

絶えずその者といっしょにいるのであるならば、飲食も、何とかできるものならば、摂らずただ彼を眺め彼といっしょに

いたいものだ、という有様ですけれどもね』

『それでは』と彼女は続けた。

『いったいどういうことになるとわたしたちは考えるでしょうか・・・・もし誰かが美そのものを純粋清浄無難の姿を見て、

それを人間の肉や色や、そのほか数多くの死滅すべきつまらぬものにまみれた姿においてではなく、かえってその

神的な美そのものを単一の形相をもった姿において観るということが、誰かに起る場合には。・・・・人がかの美の方を

眺めてやり、用うべき本来の器官をもってかの美を観、それと共にいるとき、そもそもその生活がつまらぬものになる

と思いますか。それともあなたは考えていないのですか』

と彼女は続けた

『ここにおいてのみ、すなわち、かの美を見るに必要な器官をもってそれを見ているときにのみ、次のようなことが

起るであろうことを。それは、彼の手に触れているものが徳の幻像ではなくて真の徳であるからして、その生むものも

徳の幻像ではなく真の徳であるということを。さらにその者は、真の徳を生みそれを育てるがゆえに、神に愛される者

となり、またいやしくも人間のうち誰か不死となることができるならば、まさにその者こそ不死の者となりうるのだと

いうことを』

じつに以上のことを、パイドロスならびにほかの諸君、ディオティマが話したのだ。そしてぼくは、それをもっともだと

思った。で、もっともなことと思ったので、ほかの人々にも説いて、人間の本性にとってこの宝物を得るための助力者

として、エロースにまさるものを人は手易く手に入れることはできまい、ということを説得しようとしているのだ。じつに

こういうわけで、ぼくとしては、万人がエロースを崇むべきことを主張し、またぼく自身恋の道を尊び、際立ってその

修行に励み、それを他の人々にも勧告し、そして現在もこれからも永久に、ぼくの力の及ぶかぎりエロースの力と

勇気とを讃えるのだ。



さて以上の話が、パイドロス、お望みなら、エロースへの讃美として話されたのだと考えてくれたまえ。といっても、

異存があれば、君の好む呼び名なり呼び方なりで、それを呼んで貰ってもけっこうだ」



「パイドロス」・・・美について・・・藤沢令夫・訳



ソクラテス・・・魂はすべて不死なるものである。なぜならば、つねに動いてやまぬものは、不死なるものであるから。

        しかるに、他のものを動かしながらも、また他のものによって動かされるところのものは、動くのをやめる

        ことがあり、ひいてはそのとき、生きることをやめる。したがって、ただ自己自身を動かすもののみが、

        自己自身を見すてることがないから、いかなるときにもけっして動くのをやめない。それはまた、他の

        およそ動かされるものにとって、動の源泉となり、始原となるものである。



        ところで、始原とは、生じるということのないものである。なぜならば、すべて生じるものは、必然的に

        始原から生じなければならないが、しかし始原そのものは、他の何ものからも生じはしないからである。

        じじつ、もし始原があるものから生じるならば、始原から生じることにはならないであろう。



        そして、始原とは生じることのないものであるとすると、他方それはまた、必然的に、滅びるということの

        ないものである。なぜならば、始原が滅びるようなことがもしあったとしたら、いやしくもすべてのものは

        始原から生じなければならない以上、始原そのものもあるものから生じないであろうし、また他のものが

        始原から生じるということもなくなるであろう。



        このようにして、自分で自分を動かすものは、動の始原であり、それは滅びることもありえないし、生じる

        こともありえないものなのであるもしそうでないとしたら、宇宙の全体、すべての生成は、かならずや崩壊

        して動きを停止し、そして二度とふたたび、生じてくるために最初の動きを与えてくれるものを、持たない

        であろう。



        さて、自己自身によって動かされるものは不死なるものであるということが、すっかり明らかになったいま、

        ひとは、この〈自己自身によって動かされる〉ということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その

        本質を喝破したものだと言うことに、なんのためらいも感じないであろう。なぜならば、すべて外から

        動かされる物体は、魂のない無生物であり、内から自己自身の力で動くものは、魂を持っている生物

        なのであって、この事実は、魂の本性がちょうどこのようなものであることを意味するからである。

        しかるに、もしこれがこのとおりのものであって、〈自分で自分を動かすもの〉というのが、すなわち魂に

        ほかならないとすれば、魂は必然的に、不生不死のものということになるであろう。



        (中略)



        天のかなたのこの領域のことを、地上の詩人の誰ひとり、それにふさわしく讃えうたった者はなく、

        これから先もけっしてないであろう。だが、それはつぎに話すようなものである。ひとは、とくにほかならぬ

        真理について話そうとするとき、真実ありのままを語る勇気をもたなければならないのだから。



        まことに、この天のかなたの領域に位置を占めるもの、それは、真の意味においてあ・るところの存在

        ・・・・色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、

        かの〈実有〉である。真実なる知識とはみな、この〈実有〉についての知識なのだ。されば、もともと神の

        精神は・・・・そして、自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂においてもこの

        ことは同じであるが・・・・けがれなき知性とけがれなき知識とによってはぐくまれるものであるから、いま

        久方ぶりに真実性を目にしてよろこびに満ち、天球の運動が一まわりして、もとのところまで運ばれる

        その間、もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、幸福を感じる。一めぐりする道すがら、

        魂が観得するものは、〈正義〉そのものであり、〈節制〉であり、〈知識〉である。この〈知識〉とは、生成流転

        するような性格をもつ知識ではなく、また、いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物の中にあって、

        その事物があれこれと異なるにつれて異なった知識となるごとき知識でもない。まさにこれこそほんとうの

        意味であ・るものだという、そういう真実性の中にある知識なのである。



        魂はこのほかにも、さまざまの真実性を同じようにして観照し終え、その饗宴を楽しんでしまうと、

        ふたたび天の内側にはいって、すみかへと帰って行く。そして帰りつくや、馭者は馬たちをかいば桶の

        ところへつれて行って立たせ、彼らの前に神食を投げ与え、それに添えて、神酒を飲ませてやる。







ソクラテス・・・これに対して、こんどは、言語を語ったり書いたりするのが立派なことであるか、恥ずべきことであるか、

         そして、どのような場合に、それが非難に値する行為と言われてしかるべきであり、あるいはそうでない

         のか、という問題についてはどうだろう。ついさっきの議論の結果が、この問題について明らかにしたこと

         は・・・・。



パイドロス・・・ついさっきの議論といいますと?



ソクラテス・・・とにかく、こういうことが明らかにされた。・・・・リュシアスでもほかの誰でもいが、一個人としてものを書く

        場合にせよ、あるいは、法律の制定者として政治的な文章を書くやり方で、公の場でものを書くにせよ、

        いやしくもかつてものを書いたり、ないしはこれから書こうとするに際して、もし書かれた文字の中に何か

        高度の確実性と明瞭性が存すると考えてそうするのであれば、その場合にこそ、人が実際に非難を口に

        するとしないとにかかわらず、書く本人にとって恥ずべきことなのである。なぜならば、正も不正について、

        善と悪について、覚めて見るその真実のすがたと夢の中の影像との区別を知らないということは、たとい

        群衆こぞってこれをほめ讃えようとも、真理の名において非難されることをけっしてまぬかれるわけには

        行かないのであるから。



パイドロス・・・そのとおりですとも。



ソクラテス・・・これに対して、書かれた言葉の中には、その主題が何であるにせよ、かならずや多分に慰みの要素が

        含まれていて、韻文にせよ、散文にせよ、たいした真剣な熱意に値するものとして話が書かれたという

        ことは、いついかなるときにもけっしてないし、さらには、口で話す言葉とても、吟誦される語のように、

        吟味も説明もなく、ただ説得を目的に語られる場合には同断であると考える人、・・・・書かれた言葉の

        なかで最もすぐれたものでさえ、実際のところは、ものを知っている人々に想起の便をはかるという役目

        を果すだけのものであると考える人、・・・・そして他方、正しきもの、美しきもの、善きものについての教え

        の言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の

        中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、・・・・そしてそのような言葉が、

        まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような

        言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生まれた場合、こういう言葉こそ、いわば

        自分の生み出した正嫡の子とも呼ぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、

        ・・・・このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人

        なのだ。



パイドロス・・・ほんとうにおっしゃるとおりです。この私は、そうなりたいと思いますし、祈りもいたします。




 


「哲学大図鑑」 (大型本)

ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂 より抜粋引用




イデアを求めて



「国家」のなかで、プラトンはソクラテスを、徳や道徳についての明晰で厳密な定義を打ちたてようと考え、そのため

に必要な問いを発してやまない存在として描いている。ソクラテスが「徳は知である」と述べ、たとえば正しくふるまう

にはまず正義とはなんであるかを問われねばならないと述べたことはよく知られている。プラトンは、思考や推論を

進めるさいになんらかの道徳的概念に依拠する前に、まずもってそうした概念で私たちがなにを言わんとしている

のか、そしてその内容がまさにそうした類いの事物であることを保証するものがなんなのかをはっきりさせておか

ねばならないと主張する。プラトンが提起する問いとは、事物の正しい姿や完全な姿を、言いかえるならどんな時代

や社会にも等しく妥当する姿を、私たちはどうやって知るのかという問題だ。こう問うことで、プラトンが言わんとして

いるのは、この世界のうちにあるどんな事象・・・・それが道徳的な概念であると物理的な対象であるとを問わず

・・・・にも、なんらかの理想的なかたちが存在しており、私たちはその存在に気づいているにちがいないという

ことだ。



プラトンは、たとえばベッドのようなこの世界にあるふつうの事象について語る。それによれば、私たちがベッドを

見るさい、それがベッドであることはわかっており、それどころかどんなベッドでも、たとえそれらがどれほどさまざま

な点で異なっていても、それをベッドを認めることができる。一口に犬といっても多種多様で、この先さらに多様に

なりうるだろうが、それでもあらゆる犬は「犬性」とでも言うべき特徴を共有しており、このおかげで私たちは犬を

犬として識別できるし、さらに犬とはなにかを自分たちは知っていると語ることができる。プラトンによれば、だから

といって「犬性」なり「ベッド性」が実在しているわけではなく、だれもの精神のなかに理念的な犬なりベッドなりが

あって、それに依拠することで、私たちは個体の識別をおこなっているのだ。



みずからの論証をさらに推しするめるために、プラトンは数学の例を引いて、真の知識は感覚をつうじてではなく

推論によって到達されると主張する。彼の言うところでは、論理的なステップを踏めば、直角三角形の斜辺の自乗

は、ほかの二辺の自乗の和に等しい、あるいは任意の三角形の内角の和はつねに180度であるということは

わかる。私たちはこれらの言明が真であることを知っているが、完全な三角形などどこの自然界のどこにも実在

しない。それでいて、私たちは理性のみを用いて、完全な三角形を、あるいは完全な直線や円を思いえがくことが

できる。こうしてプラトンは、そうした完全なかたちは、どこかに実在しうるのだろうかと問いをすすめる。



イデア界



推論の結果、プラトンはただひとつの結論に到達する。それは、物質界から完全に切りはなされたイデア界がある

にちがいないというものだ。完全な「三角形」のイデア(概念)は、完全な「犬」や完全な「ベッド」のイデアとともに、

イデア界にある。プラトンによればこの場所は、感覚器官によっては知覚しえず、理性をつうじてのみ知覚可能と

なる。さらにプラトンは、このイデアの領域こそが真の「現実」であり、私たちの周囲の世界は、それをモデルにして

つくられたものにすぎないとまで言う。



プラトンは、みずからの理論を描写するのに、こんにちでは「洞窟の比喩」として知られる物語を提示する。まず

私たちは、人びとがそのなかに生まれながらに囚われていて、闇のなかに浮かぶ壁に向きあうように固定されて

いる洞窟を想像するよう求められる。彼らには、自分の正面にある壁のほうを向くことしか出来ない。彼らの背後

には炎が燃えさかり、その影だけが、彼らの向きあっている壁に映しだされる。炎と人びとのあいだにも壁が立ち

はだかっているが、外の人びとはその壁に沿って動きまわり、ときどきさまざまな事物を手にする。すると、その

影が壁の上に映る。この影こそが、囚われている人びとが世界について知りうるすべてだ。彼らは、実際の事物

それ自体についてはいかなる概念ももたない。囚われているひとりが、いましめをふりほどいて後ろを向くことが

できたなら、事物それ自体を眼にすることだろう。だが、それまでの人生を欺かされてすごしたわけだから、その

とき彼は混乱するとともに、炎のまぶしさで目の前がくらくらし、おそらくはふたたび壁に向きなおって、それまでの

なじみの現実だけに向きあおうとするだろう。



プラトンの考えでは、私たちの感覚器官が知覚するいっさいはこの洞窟の壁に映った像のようなもので、現実の

影だ。この信念こそが、私たちが感覚で知覚しうるあらゆる日常的な事物には、それに対応する「イデア」・・・・これ

は、その事物の永遠にして完璧な現実だ・・・・がイデア界にあるというプラトンのイデア論の土台が。現実の不完全

な、あるいは欠けたところのある「影」の経験にもとづいているのだから、それらの事物にかんして本物の知識を

もつことはかなわない。脇見くらいならもてるかもしれないが、真の知識はイデアを探求しないことには得られない

し、その探求は、私たちを欺くことのある感覚をつうじてではなく、理性によってのみ成就される。見かけの世界と、

プラトンが現実とみなすイデアの世界という二つの世界の分離は、変転してやまない世界のうちに恒常的なものを

見いだすという問題への解決ともなっている。物質界は変化を免れないが、イデア界は永遠にして不動だ。プラトン

はその理論をベッドや犬といった具体物ばかりでなく、抽象概念にも適用する。プラトンのイデア界には、本物の

正義自体である正義のイデアがあり、物質界にみられるさまざまな正義の姿は、イデアとしての正義をもとにした

ヴァリエーションにすぎない。同じことは、プラトンが究極的なイデアであり、あらゆる哲学的探求の目標点でも

あるとみなす善の概念にもあてはまる。




生得的な知識



残る問題は、私たちはどのようにしてイデアを知り、この世界にあるのがイデアの不完全なかたちだと知ることが

できるようになるのかだ。プラトンの論じるところでは、イデアについての私たちの概念は、自分では気づいていな

いにしても、生得的なものにちがいない。人間は、身体と精神という二つの部分に分けられるとプラトンは考えて

いた。身体には感覚器官があり、これをつうじて物質界が知覚される。それにたいして、魂には理性がそなわって

おり、これを介してイデアの領域が知られる。プラトンの結論は、不死で永遠なものである私たちの魂は、生まれる

以前からイデアの世界に住まっており、死んだのちはその領域にもどりたいと願っているというものだ。だから、

世界内にあるイデアのさまざまに変容した姿を感覚をつうじて見るとき、私たちはそれらを一種の再認(思いおこし)

として知る。イデアについての生得的な記憶を呼びさますには、魂にそなわる能力である理性の助けが必要だ。



プラトンの考えでは、哲学者の使命は理性を用いてイデアを発見することにある。「国家」のなかでプラトンは、

支配階層は、哲学者ないしは哲学者の使命に忠実な者であるべきだと言う。その理由は、真の哲学者のみが

世界の正確な本性と道徳的価値の真実とを理解できる存在だからだ。だが、「洞窟の比喩」に出てくる囚人の

ように、事物の影ではなく本物の事物を見た人間の多くは、自分たちに快適だと感じられる世界のほうへもどって

ゆくだろう。そのためかプラトンは、みずからの使命の本性をきちんとわかった後継者となるべき哲学者を見つけ

られなかったようだ




 


「生きることと愛すること」W・エヴァレット著 菅沼りょ・訳 講談社現代新書 (1978年刊)より抜粋引用。



このように、人間はほかの人間や物質に頼らなければ、人間として生きつづけることはできない。このことから人間の

もっとも大きな欲望は、「なにかがほしい」という欲望であるといえるだろう。私たちは、この欲望を満たしてくれるものを

よしとし、愛するという。これをプラトンは「エロスの愛」と呼んだ。



こんにちでは、「エロティック・ラブ」という言葉は男女間の性愛をさすようになったが、プラトンは、元来その言葉を自分

の欲望を満たしてくれるものに対する感情として、広義に用いていた。プラトンは「エロスの愛」を5段階に分けている。

もっとも初歩的な段階は、男女間の性的な愛であり、そこから新しい生命が生まれる。次の段階は、広く感覚的に美し

いと感じるものに対する愛であり、第3段階は家庭や祖国に対する社会的な愛である。第4段階は、真理・知識・道徳を

追求する愛である。そしてもっとも高度なエロスの愛は、「美」(または善)そのものと一体になりたいという欲望であると

いう。



このエロスの愛はプラトン哲学の中心的な原理となっている。彼は人間の美・善・自己完成への努力はみな、このエロス

の愛によって説明しようとした。物質界において、石が引力によって無条件に地上に落下するように、人間はエロスの愛

の作用によって、不完全な自分を満たしてくれるものにひきよせられるのである。つまり、エロスとは、人間をよりすぐれ

た人格にし、文化を進歩させ、美へ、そして完全へと駆りたてる原動力なのである。





2016年4月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


アイスランド南部にあるセリャラントスフォス(滝)とオーロラ
(写真1枚目はNASAより、それ以外は他のサイトより引用)



1枚目の写真、幻想絵画かなと思いましたが、滝の水しぶきで何度もレンズを拭きながら撮られた写真です。



オーロラのやや右側に明るく輝く星が織姫星(ベガ)、左側に輝く星が彦星(アルタイル)です。



ですから天の川が位置するところにオーロラが出現したんですね。



北欧では死者と生者の世界を結びつけているのがオーロラであり、イヌイットの伝説ではこの世で善い行いを

した人はオーロラの世界へ行けると言われているようです。



死後の世界を意識することによって、初めて生の意味が問われてきたのかも知れません。



それはギリシャ哲学(ソクラテスプラトンなど)よりも遥か太古の世界、ひょっとしたら私たち現生人類よりも

前の人類にも芽生えた問いかけのように感じています。



オーロラなど天球に映し出される様々な現象(太陽、月、天の川、星、彗星など)を通して、人類は異なる次元の

世界を意識し死後の世界とのつながりを感じてきた。



ただ、精神世界の本に良く見られる「光の国(星)からのメッセージ」的な言葉に違和感を感じているのも事実です。



自分自身の足元の大地にしっかりと根をはらずに、ただ空中を漂っている、或いは彷徨っているような感じしか

受けないからです。



アインシュタインの相対性理論、まだ理解は出来ていませんが、それぞれの立場によって時間や空間が変わる、

それは他者の立場(社会的・文化的・経済的)を想像することと同じ意味を持っているのではと感じます。



もし、相対性理論なしでカーナビを設定すると現在地よりも11キロずれたところを指してしまいますが、それが

人間同士や他の生命間のなかで実際に起こっている。



自分自身の根をはらずに、他者のことを想像することなど出来ないのではないか、その意味で私も大地に根を

はっていないのでしょう。



一度でいいからオーロラを見てみたいです。




 

2013年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




ニーチェと宮沢賢治(写真は1年前に作ったレゴの蒸気機関車です)



ニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴される虚無主義(ニヒリズム)と「超人」思想。



私はニーチェの著作に触れたことがなく正しく読み取っていないかも知れませんが、、現世から目を背けている

当時の風潮に対して、彼は果敢な挑戦状を叩きつけたのだと思います。



しかし、来世のことだけを語る宗教への断罪と虚無主義。一部において何故彼がこう考えたのか納得はするも

のの、私たち一人一人は空気や水・食べ物など、地球や他の生命が養い創ったもののなかでしか生きられま

せん。人間は決して単独で存在できるものではありませんし、他のものとの関係性なくしては生きられないので

はないかと疑問に思ったのも事実です。



デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」からニーチェ、ハイデッガー。彼らの「個(人間)」だけを世界から切り

離した思索、人間中心主義が横行した西洋哲学に対して、梅原猛さんはその著「人類哲学序説」の中で鋭く

批判しています。



これらの西洋哲学者の対極にいるのが宮沢賢治先住民と呼ばれる人なのかも知れません。西洋哲学が

人間を世界から切り離して真理に近づこうとしていたのに対し、賢治や先住民は他のものとの関係性(繋がり)

を基軸に据え、賢治の場合は「銀河鉄道の夜」などの童話を通して私たち後世の人に想いを託したのでしょう。



賢治が言う「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、互いの繋がりを

真に肌で感じた者にしか発することが出来ない言葉なのだと思います。



梅原さんは前述した本の中で、宮沢賢治と江戸時代の画家「伊藤若沖」を紹介され、二人の思想の背景には

「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」(国土や動物・草木も仏性を持ち成仏できる意味)が

あり、縄文時代アイヌを含む世界各地の先住民の世界観に共通しているものがあると言われます。



またノーベル賞を受賞した福井謙一さんの言葉「科学はいまに、裁かれる日がくるだろう。自然を征服する科学

および科学技術から、自然と共生する科学および科学技術へと変わらなければいけない」を紹介されていました

が、科学技術文明の基となったデカルト以来の西洋哲学にも同じことが言えると主張されています。



私たちはデカルト以来の西洋哲学を、反面教師として捉える時期なのかも知れません。



ニーチェの「神は死んだ」、私は彼の思索の片鱗も理解できていないかも知れませんが、虚無としか映らない

状況のなか一筋の光りを見た女性がいました。



ニーチェの「超人」思想がヒトラーに悪用され、ハイデッガーがナチスの思想ではなくヒトラーの強い意志に魅了

されていた同じ頃、アウシュヴィッツの強制収容所で亡くなった無名の人ですが、賢治の銀河鉄道と同じように

多くの人の道標として、これからもその軌道を照らしていくのだと思います。



最後に、フランクル「夜と霧」から抜粋引用し終わりにします。



☆☆☆☆



それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。



「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。



「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを

追っていなかったからですの。」



その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹は一人ぽっちの私のただ一つのお友達

ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。



外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。



病人の寝台の所に屈んで外を見るとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた

一本の緑の枝を見ることができた。



「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。



私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女は譫妄状態で幻覚を起こしているだろうか? 

不思議に思って私は彼女に訊いた。



「樹はあなたに何か返事をしましたか? -しましたって!-では何て樹は言ったのですか?」



彼女は答えた。



「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-私は-ここに-いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ。」



☆☆☆☆





シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)



ほくと未来ネットワーク:マイケル・サンデル より引用


   



NHK DVD ハーバード白熱教室 DVD BOX [DVD]

【収録内容】



■DISC.1 ・第1回  「殺人に正義はあるか」  Lecture1 犠牲になる命を選べるか  Lecture2 サバイバルのための殺人

・第2回  「命に値段をつけられるのか」  Lecture1 ある企業のあやまち  Lecture2 高級な 「喜び」 低級な 「喜び」



■DISC.2 ・第3回  「「富」 は誰のもの?」  Lecture1 課税に正義はあるか  Lecture2 「私」 を所有しているのは誰?

・第4回  「この土地は誰のもの?」  Lecture1 土地略奪に正義はあるか  Lecture2 社会に入る 「同意」



■DISC.3 ・第5回  「お金で買えるもの 買えないもの」  Lecture1 兵士は金で雇えるか  Lecture2 母性 売り出し中

・第6回  「動機と結果 どちらが大切?」  Lecture1 自分の動機に注意  Lecture2 道徳性の最高原理



■DISC.4 ・第7回  「嘘をつかない練習」  Lecture1 「嘘」 の教訓  Lecture2 契約は契約だ

・第8回  「能力主義に正義はない?」  Lecture1 勝者に課せられるもの  Lecture2 私の報酬を決めるのは…



■DISC.5 ・第9回  「入学資格を議論する」  Lecture1 私がなぜ不合格?  Lecture2 最高のフルートは誰の手に

・第10回 「アリストテレスは死んでいない」  Lecture1 ゴルフの目的は歩くこと?  Lecture2 奴隷制に正義あり?



■DISC.6 ・第11回  「愛国心と正義 どちらが大切?」  Lecture1 善と善が衝突する時  Lecture2 愛国心のジレンマ

・第12回 「善き生を追求する」  Lecture1 同性結婚を議論する  Lecture2 正義へのアプローチ



【特典映像】 ・「ハーバード白熱教室@東京大学」   前編:「イチローの年棒は高すぎる?」(58分)

後編:「戦争責任を議論する」(58分) (10月3日・10日 NHK教育テレビにて放送)

・サンデル教授スペシャルインタビュー(70分)[未放送映像含]



<音声・字幕 切替機能付> 本編の講義部分については、音声(日本語吹替/英語オリジナル)、

および字幕(表示なし/日本語/英語)を選択することができます。

字幕は、「英語オリジナル」音声のタイミングに合わせて表示されます。 2010年 放送


 
 


「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂 より以下、抜粋引用



自由と正義は両立するか?



人々が文明社会の恩恵をこうむるには、人びとを統治する法律がなくてはなりません。市民には自分のために好き勝手な

ことをする自由がない、ということになりますが、その法律が市民の財産、安全、健康、基本的人権を守るのです。ただし、

それが認められるには、法律が公正とみなされなくてはなりません。



殺してはならない



正義を確保できるような社会のまとめ方について、哲学者からはさまざまな解釈が出されました。どんな種類の政治体制

でも、市民にルールを、つまり市民の安全を保護する法律を課します。個人の権利と自由をどの程度保護し、どの程度制限

するか、その両方がつりあうところがはっきりしていることはめったにありません。たとえば、トマス・ホッブスは生命と財産を

保護する権威主義政体を支持しましたが、その対極にあるジャン=ジャック・ルソーの意見は、人民が社会全体のために

法律を定めるべきだというもので、制約というより、自由の発見でした。



限度内の自由



ジョン・スチュアート・ミルは、そうした両極端の説の間をとって、英国自由主義を確立しました。ミルが影響を受けたのは、

道徳性は最大多数の最大幸福によって評価されると主張した、ジェレミー・ベンサムの功利主義的な考えです。ただし、それ

を政治にあてはめると、実際的な問題が出てきます。・・・・大多数の幸福が、一部の人の幸福を侵害するかもしれません。

ミルの主張によると、個人の幸福すなわち公益と考え、「自分がしてもらいたいように人にもしなさい」という原則に従って

行動するよう、人々を啓発するのが、社会の役目です。自分の幸福を追求する自由は誰にでもあるが、社会は「危害原則」

という制約を課すべきというのです。他の者に危害を加えないかぎり、人々には好きなことをする自由があるが、その限度を

超えれば自由を制限されるということです。そして、個人の行動が国家に関わりがある場合だけは社会が動くことになり、

政権や法律は、社会を守るためにしか、個人の自由に干渉すべきではなというのです。



公正さか、資格か?



「正義」の定義は何かということは、現代でもなお争点となります。米国の哲学者ジョン・ロールズとロバート・ノージックは、

それぞれ違った解釈を提唱しました。ロールズによると、正義とは公正の問題・・・・社会における権利、資源、地位の公正な

分配です。思考実験として、理想的な社会を想像し、そこではあらゆるものがどう分配されるかを考えてみました。ただし、

その社会で自分がどういう位置を占めているかはわかりません。その「無知のヴェール」(自分と他者の立場や能力がわか

らないこと)のせいで、私たちは私利私欲に影響されず、誰にとっても公平な社会をつくり出すことになるのだと言います。

一方、ノージックによれば、正義とは資格の問題です。自分が所有するものを、所有する資格がある場合が正義だというの

です。財産は公平に譲渡されなければならず、所有者間の同意なしに政権が処理に関与するのは、その財産を資格のない

者が入手した場合だけ・・・・たとえば、何かが盗まれた場合などだけです。



「唯一その名に値する自由とは、自分自身の幸福を自分なりに追求することだ。」 ジョン・スチュアート・ミル






2012年3月25日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

「NHK DVD ハーバード白熱教室 正義」



NHKの番組でサンデル教授の授業が印象深かったので、レンタルで借りて見た。教授の例え話は

勿論のこと、学生達の言わんとしていることを的確に掴み、対話を通して議論を深めていく技術。

現代に甦ったソクラテスなのではないかと感心してしまった。



また教授の質問に自分の意見を瞬時に見い出していくハーバード大学生の優秀さと同時に、その

道徳性の高さにも驚き、サンデル教授の「対話しながら善の一致を探る」姿勢は感動的すらあった。



ただこれらの対話の中で、質問に対し瞬時に反応できるとはどういうことだろうと考えてみた。確か

に教授から投げ掛けられた設問を常日頃から考察してきた結果とみることも出来るが、私たちは

身の回りに起きている多くの事象を、好き嫌いなど直感的な感情や過去の経験などに縛られ捉え

ていることが多いと思う。



相手の質問に対し自身の直感的な感情を排し、その質問の全体像を再構築させるためにはある

程度の時間が必要になるのではないかと感じてしまうのもまた事実だった。



現代では瞬時に論理的な反応を示すことが「頭がいい」という流れにあるのかも知れない。ただ

友達と土手に座り雨上がりの虹を見ながら、「どうして虹はいろいろな光を映し出すんだろう」という

友達の問いに、「それは空気中の水滴がプリズムの役割をするため、光が分解されて見えるんだ」

という答えと、「君の目に涙がなければ魂に虹は見えないんだ」という答え。そのどちらも併せ持つ

ことこそが求められているのかも知れない。



ちなみに「目に涙がなければ魂に虹は見えない」は北米ミンカス族のことわざから引用しました。



☆☆☆☆



人間の左脳と右脳の働きを理解した私の祖先たちは、個々人の中で左右の脳のコミュニケーション

を活性化させるために、これら学びの物語の原形を編み出したのです。



彼らは左脳が話し言葉(ないし書き言葉)を処理する傾向にあり、右脳がイメージ(アルファベットに

もとづかないアメリカ先住民伝来の手話を含む)を処理する傾向にあることを理解していたので、学

びの物語には、話し言葉で語りながら、同時に心のなかで鮮明なイメージを生み出すような工夫を

凝らしました。



それによって右脳が刺激され、左右の脳のコミュニケーションが活性化になるのです。



「知恵の三つ編み」
ポーラ・アンダーウッド(イロコイ族)著より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 

 

2012年11月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。




他の動画を見ていたら、偶然サンデル教授が日本で行った「震災後の民主主義の復活」という動画に

出会った。講演という時間的な制約のなかでも、聴衆者の相反する立場の意見が聴き、それを新たな

議論へと導くサンデル教授の手法にいつも感心してしまう。



本当ならもっと掘り下げた議論を聞きたかったけれど、一つ一つの問題を深く議論すれば膨大な時間

がかかるものだし、少し消化不良なものを感じたのも仕方ないことだと思う。



講義の内容とは関係ないが、サンデル教授や全ての聴衆者には同時通訳用の機械が渡されていたの

にも関わらず、聴衆者の日本人同士が自分の意見を言い合う場面で、相手の日本人に対して、英語で

応える日本人が何人かいた。



尊敬している山中教授の受賞会見でも感じたことだが、話の内容に共感することはあっても、日本人

同士の会話で日本語で話すことは私にとっては当たり前のことだと思っているし、日常の会話で英語

の単語を多く使いたがる人間に昔から違和感を感じていた。勿論、これは私自身英語が苦手なので

そう思うのかもしれない。



自分の考えや想い、それを如何に相手に正確に伝えるか、それは本当に難しいことで英語の単語を

使わず日本語だけを話せば解決する問題でも決してないし、日本語の特殊性(音訓読みなど)も関係

しているのだろうか。



西洋の言語が枝分かれして成立してきたのに対し、日本語は逆に様々な言語が一つの幹となってきて

いること。これは安部公房さんが提唱されてきたことで、母語の違う集団(弥生人と縄文人)の子供たち

が遊びの中で、自然に新しい文法や言葉が生まれてきたという説(「縄文 謎の扉を開く」を参照)がある。



ただ、見知らぬ人間相手に英語の単語を多用する人は、この説(子供の遊びの中で自然に)とは違う

次元にいるのではと感じてしまう。



話を最初に戻すが、講演後の中学生の言葉で、「いろいろな意見が聴けて面白かったし勉強になった」

という言葉、この柔らかな感受性はいつまでも忘れたくないものだと思う。



☆☆☆☆



追記 2017年6月1日 
「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人
 を参照されたし。














2012年4月8日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ティナ・シーリグ教授(写真は他のサイトより引用)



マイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」に感銘を受けて、「スタンフォード白熱教室」の

ティナ・シーリグ教授のDVDを借りて見た。



スタンフォード大学は多くの企業家を生み出してきた大学として有名らしいのだが、その授業の中

でもティナ・シーリグ教授の手法(集団発想法)は常識を打ち破る新たな創造性を産みだしている。



私はまだ4巻の内2巻しか見ていないのだが、マインドマップなど様々な道具を利用しながら発想

方法を学んでいく。これまで特に印象に残ったのが「最悪のものと思える」ことから新たなものが

生まれる可能性があるということ。勿論、企業家を目指すための講座なのだが、私たち一般の

人間にとっても、日々の生活の中でそれらの手法は活かせるのではないかと思ってしまった。



ただ私の中で、マイケル・サンデル教授もそうだが、テレビに映る画面を見ながら言葉を聴いて

いると、それらの言葉が頭の中をすり抜けていくような感じになってしまう。脳の老化現象なのか

も知れないが、そのためこれらの講座を私は目を閉じて言葉を聴くようにしている。



しかし暗闇の中で言葉が降りてくると、何故この言葉を使ったのだろう、この言葉に隠された感情

は何だろう、などとイメージが新たな方向に膨らんでいくのが不思議だった。



チェスでも最近は頭の中で棋譜を追い続けるよう訓練している。強いアマチュアやプロ棋士だった

ら盤を見ない「盲指し」は誰でも出来るが、逆に「盲指し」をやり過ぎると脳にいい影響を与えないと

も言われている。チェスが強かった旧ソ連でこの研究結果が出たと記憶しているが、確かにイメー

ジの世界と現実とのかいりが人格を分断させてしまう可能性はあるのかも知れない。



この研究結果が本当のことなのかわからないが、イメージと現実の世界を常に行ったり来たりする

ことで脳の平衡状態が生みだされ、悪い影響を避けることができるのだろう。



家のベランダに置いてある睡蓮鉢では、睡蓮の葉が水中で大きくなり、メダカがもう卵を抱えている。

春、生命の躍動を感じてしまう季節だ。



☆☆☆☆



知識から自由になる(『超訳 ブッダの言葉』小池龍之介・編訳)より引用


内面を見つめる力や集中力や落ち着きといった能力をトレーニングをするかわりに知識を増やそう

とするのは、愚か者の証。



哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、

記憶のメインメモリーは不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。



「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたいよー」とか「せっかく学んだのだからこの知識を使っ

てみたいよー」などと、それらの知識への執着が生じるがゆえに、知らず知らずのうちに知識に

支配される。



その知識のフィルターを通してしか物事を感じることができなくなり、いつの間にか不幸になってしまう。



頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、ものごとをありのままに感じるように。



法句経72



☆☆☆☆



(K.K)



 



Forgetful? Distracted? Foggy? How to keep your brain young | The Independent




人類発祥時からの流れをつかむ、その探求を避けては真の哲学の意味など見出せないでしょう。

哲学=西洋哲学ではなく、人類が先ず世界とどのように関わってきたのか、太古からの生き方を

受け継ぐ世界各地の先住民族の考え方や視点、そしてその世界観を知ることを基底としなければ

ならないと思います。現在の自分自身の立っている場を正しく捉えるためにも、この探求は必要

不可欠なものだと感じます。




「ギリシャ、エジプト、古代印度、古代中国、世界の美、芸術・科学におけるこの美の純粋にして正しい

さまざまの反映、宗教的信条を持たない人間の心のひだの光景、これらすべてのものは、明らかに

キリスト教的なものと同じくらい、私をキリストの手にゆだねるために貢献したという私の言葉も信じて

いただいてよいと思います。より多く貢献したと申してもよいとすら思うのです。眼に見えるキリスト教

の外側にあるこれらのものを愛することが、私を教会の外側に引き留めるのです。」

シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」より






アビラの聖女テレサ(イエズスの聖テレジア)の生涯と「霊魂の城」

「夜と霧」 ドイツ強制収容所の体験記録 ヴィクトール・フランクル著 霜山徳繭訳 みすず書房

「100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか」ジュリアン バジーニ (著), 河井美咲 (イラスト), 向井 和美 (翻訳) 紀伊国屋書店

「薩垂屋多助 インディアンになった日本人」 スーザン小山 著

「シャーマニズムの精神人類学」癒しと超越のテクノロジー ロジャー・ウォルシュ著 安藤治+高岡よし子訳 春秋社

「哲学大図鑑」ウィル バッキンガム (著), 小須田 健 (翻訳) 三省堂

「チベット永遠の書・宇宙より遥かに深く」テオドール・イリオン著 林陽訳 徳間書店

「人類哲学序説」梅原猛・著 岩波新書

「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」比嘉康雄著 集英社新書

「みるみる理解できる相対性理論」Newton 別冊

「相対性理論を楽しむ本」よくわかるアインシュタインの不思議な世界 佐藤勝彦・監修

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一 著 講談社現代新書

「英語化は愚民化」施光恒・著 同化政策の悲劇を知らない悲しい日本人

「進化しすぎた脳」 中高生と語る大脳生理学の最前線 池谷裕二著 講談社

「死に至る病 (まんがで読破)」キェルケゴール・作 バラエティアートワークス

「生と死の北欧神話」水野知昭・著 松柏社

プラトン 「饗宴」・「パイドロス」

「人類がたどってきた道 “文化の多様化”の起源を探る」海部陽介著 NHKブックス

良寛『詩歌集』 「どん底目線」で生きる  (100分 de 名著) NHKテレビテキスト 龍宝寺住職 中野東禅・著

カール・ラーナー古希記念著作選集「日常と超越 人間の道とその源」カール・ラーナー著 田淵次男 編 南窓社

「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」ウォール&アーデン著 舟木 アデル みさ訳 築地書館

「ホピ 神との契約」この惑星を救うテククワ・イカチという生き方 トーマス・E・マイルス+ホピ最長老 ダン・エヴェヘマ 林陽訳 徳間書店

「火の神の懐にて ある古老が語ったアイヌのコスモロジー」松居友著 小田イト語り 洋泉社

「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社

「沖縄文化論 忘れたれた日本」岡本太郎著 中公文庫

「ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)」プラトン・原作 & サンデル「正義とは」・ハーバード白熱教室

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社文庫

「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」 梅原猛 山折哲雄 著 祥伝社

「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」福岡伸一 著 木楽舎

「アンデス・シャーマンとの対話」宗教人類学者が見たアンデスの宇宙観 実松克義著 現代書館

「沖縄の宇宙像 池間島に日本のコスモロジーの原型を探る」松井友 著 洋泉社

「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」岩田慶治著 第16回 南方熊楠賞 受賞 人文書館

「10代からの哲学図鑑」マーカス・ウィークス著 スティーブン・ロー監修 日暮雅通・訳 三省堂

「面白いほどよくわかるギリシャ哲学」左近司 祥子・小島 和男 (著)

「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」マーク・ローランズ著 今泉みね子・訳 白水社

「エデンの彼方」狩猟採集民・農耕民・人類の歴史 ヒュー・ブロディ著 池央耿・訳 草思社

「カラマーゾフの兄弟 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「罪と罰 (まんがで読破)」ドストエフスキー・作 バラエティアートワークス

「夜間飛行 (まんがで読破)」サン=テグジュペリ・作 バラエティアートワークス

「若きウェルテルの悩み (まんがで読破)」ゲーテ・作 バラエティアートワークス



美に共鳴しあう生命

オオカミの肖像








夜明けの詩(厚木市からの光景)

美に共鳴しあう生命

シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)

ホピの預言(予言)

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天空の果実


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