『「太陽の哲学」を求めて エジプト文明から人類の未来を考える』

梅原猛 吉村作治著 PHP研究所 より引用








この文献にはアメリカ・インディアン、アニミズムという言葉は一切出てこない。しかし、

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教と異なる多神教が古代エジプトに存在

し、その中心には太陽崇拝があった。この太陽崇拝に近いものをアメリカ・インディアン

アッシジの聖フランシスコも共有していた。日本でも「アマテラス」がそうであるように、

太陽を崇拝している自然哲学がそこには存在していた。しかし、農業中心の哲学はいつ

しか人間崇拝の哲学へと変わり、ギリシャ、イスラエルに引き継がれて西洋近代文明へ

と移行し、多神教も一神教が支配するようになっていった。梅原猛氏が現代の環境問題

や核戦争の危機的状況の根源的な問題として、一神教の成立を挙げているのだが、氏

のアイヌ文化を紹介する文献などを読んでもその主張は一貫している。ただ私自身の中

で、キリスト教は人類が創造してきたものとは言えないと感じているのも事実だ。アッシジ

の聖クララルルドのベルナデッタの腐敗を免れている遺体を見ると、何か超自然的な

力が働いているとしか思えない。確かに梅原氏と私は立つ座標が違うけれど、多神教や

アニミズムの中に世界を救う「美」の存在を感じている点で共通しているものを感じてなら

ない。「エジプトで私が獲得した『太陽の哲学』はまだ十分に整理されていないが、私は残

された人生において、できるだけその哲学を論理一貫した体系をもつ哲学にして、それを

平明な言葉で語りたいと思う。」と語る哲学者・梅原猛氏の姿勢・方向性に強い共感を覚

えると同時に、心からの尊敬の念を抱かせる。

(K.K)





本書 「ユダヤ教、キリスト教成立の真相」 より抜粋引用

重要なのは、モーゼは一つの神を崇拝しているが、その神はかたちがないということです。

偶像崇拝を一切排除したということ。これは人類の宗教史において画期的なことでしょう。

もう一つは、モーゼの一神教はアクエンアテンの一神教を受け継いでいるが、モーゼの

一神教とアクエンアテンの一神教は、はなはだ異なる。アクエンアテンの一神教は、一種

のユートピア的な「愛」と「平和」の一神教で、クローズドではなくオープンな一神教であった

のではないかということです。ところが、モーゼの一神教となると、神の力でもって他民族

をねじ伏せるという非常に排他的でクローズドなものになった。同じ一神教でも天と地ほど

の違いがある。モーゼの一神教もアクエンアテンの一神教も、かたちのないものを崇拝す

ることについては共通でありながら、内実は違っている。アクエンアテンの一神教にはラー

の神々、太陽信仰の残像がある。その意味で自然崇拝です。しかし、モーゼの一神教に

はラーの神の信仰はまったく影をとどめていない。そこには自然崇拝はまったくない。そ

このところが私は非常に大事だと思います。その一神教の運命がいまの人類の大きな

運命になって、イスラエルとパレスチナの闘争、ユダヤ教あるいはキリスト教とイスラム教

との対立になって、世界の平和を乱している。この一神教が、一神教のゆえに起こしてい

る紛争について、西洋の人は考えたくもないし語りたくないでしょう。キリスト教の人も、ユ

ダヤ教の人も、イスラム教の人も、その点は沈黙している。しかし、その一神教同士の争

いは世界の平和を乱し、核戦争の危機を招きかねない。多神教の徒はそれについてはっ

きり語るべきです。世界の平和や人類の存続を願っているなら、彼らの思想を反省したら

どうですかということを、われわれははっきりいわないといけないと思います。そこで、次に

吉村さんに聞きたいのはモーゼの「十戒」のことです。エジプトの宗教にはない、新たに付け

加えられたものが五つあるということですが、ご存じない読者のためにモーゼの「十戒」をご

説明できますか。


 
 


本書 「エピローグ」 より抜粋引用

「このようなラーの神がギリシャ文明、イスラエル文明において消失してしまう。それは、

ギリシャでもイスラエルでも農業国家ではないことと関係するであろう。奴隷国家といっ

てよいギリシャでは、労働はほとんど奴隷に任せて、そのうえに戦士である支配階級が

君臨していたのである。プラトンの『ポリティア(国家)』において、国のトップに哲学者王

が君臨し、そのもとに戦士がいて、庶民を統制するのが理想国と考えられている。イス

ラエルの民もまた放浪する遊牧の民であり、農業民とはいえない。この段階において、

哲学はすでに大地から遊離したのである。そしてその大地からまったく遊離した理性中

心の哲学が近代の哲学になったといってよい。近代の自然科学において天動説から

地動説への転換があった。天動説では人間の住む地球中心に自然の動きをとらえてい

た。コペルニクス(1473〜1543)は、この天動説を科学的な観察によって地動説に転換

させた。このように自然科学においては天動説から地動説、すなわち人間の住む地球

中心の自然観から太陽中心の自然観への転換があったわけだが、哲学においてはい

まなお天動説が支配しているように思われる。この天動説の如き人間中心の哲学を

自然中心、太陽中心の哲学に転換させないかぎりは、環境破壊という人類を襲ってい

る深い病根を容易に除去できないであろう。エジプトからラーを中心とする自然科学を

改めて学び、そのような自然哲学を、科学技術が大発展した二十一世紀という時代に

おいて復活させねばならない。科学技術が悪いわけではない。科学技術を推し進めた

哲学が間違っていたのである。」 梅原猛 本書「エピローグ」より抜粋引用


 


Akhenaten(アクエンアテン)


 


目次


はじめに・・・・梅原猛


第一章 太陽神「ラー」の誕生


1・・・・すべては「太陽」にはじまる

古代エジプト人たちは「太陽神族」だった

日本にも太陽崇拝の思想があった

エジプトは「ナイルの賜物」か


2・・・・ピラミッドとは何か

階段ピラミッドと真正ピラミッド

「大嘗祭」は前の天皇の魂が次の天皇に乗り移る儀式


3・・・・古代エジプト人たちの世界観

イシスの創世神話はいかにして生まれたか

スフィンクスは再生・復活の神だった

パピルスとロータスとスカラベ


第二章 多神教世界の一神選択


1・・・・ラムセス二世とアブ・シンベル神殿

エジプトを支配した神・アメンラー

なぜ巨大な彫像をつくったのか

宗教国家から軍事国家へ

平和主義に転換して国を失う


2・・・・アクエンアテンのアマルナ改革

愛と平和を求めた一神選択

人間崇拝になって戦闘的になった


3・・・・カルナク神殿とルクソール神殿

柱を立てるところから人間の役割がはじまる

「オペトの祭」と「祇園祭」


第三章 ユダヤ教、キリスト教成立の真相


1・・・・ユダヤ教の成立

ヘレニズム文化はエジプトから興った

モーゼの「出エジプト」の真実

誇り高く、頑なで、団結心が強い放浪の民

モーゼの一神教とアクエンアテンの一神教の決定的な違い

モーゼの「十戒」の意味するもの


2・・・・キリスト教の誕生

ユダヤ教から生まれた終末論は一種の脅し

イエス・キリストはなぜ殺されたのか

愛と平和の思想が人間中心主義に変わるまで


第四章 プラトン哲学と人間中心主義


1・・・・エジプトとギリシャ

「マリア信仰」はいかにして生まれたのか

エジプトがギリシャ哲学に与えた影響

なぜギリシャは太陽崇拝を捨てたのか


2・・・・中世から近世へ

キリスト教的な「復活」はいかにして生まれたか

中世の文明はエジプト的な文明だった


エピローグ ラーの哲学に帰れ・・・・梅原猛

おわりに・・・・吉村作治

本書をより深く知るための本





2013年5月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



(大きな画像)


テントウムシ(天道虫)とネムノキ(合歓の木) 5月26日ベランダにて撮影



テントウムシはアブラムシ類や、種類によってはカイガラムシ類やハダニ類、うどんこ病菌を

食べる益虫として昔から尊ばれてきました。また太陽に向って昇り、枝の先端からでないと

飛び立たないことから、日本では「天道虫」として親しまれていました。



英語では「聖母マリアの使い」、ドイツ・スペイン語では「マリア様の虫」、フランス語では「神様

の虫」、イタリア語では「神の雌鳥」との意味があり、イタリアやアメリカでは、テントウムシが体

にとまると幸せが訪れると言われているようです。



ヨーロッパのある伝承では、無実の罪で処刑されそうになった男の肩にテントウムシが留まり、

男は息を吹きかけて逃がしてやりますが、そのテントウムシは違う男の肩に留まります。その

男はこのテントウムシを叩き潰してしまいますが、それを見ていた領主が不審に思い再調査し

たところ、叩き潰した男が真犯人だとわかったことから「無実の人を救う虫」となったというもの

もあります。



ネムノキ(合歓の木)、何故「合歓の木」と呼ばれたのかは、夜、葉を閉じる姿が眠っているよう

に見えるとか、夫婦の交わりを意味すると言われていますが、私は手を合わせる行為、祈りの

姿に似たものをそこに感じます。



日の出とともに咲き、日の入りとともに花をしぼめる蓮や睡蓮は、エジプトやヒンズー教、仏教

では聖なる花ですが、合歓の木の姿を見て、そこに蓮や睡蓮と同じように太陽と共に生きたり

眠ったりする姿を重ね合わせた人がいたのかも知れません。



自然の営みを通して思い起こさせてくれる「祈り」の姿は、あるべき道から離れた心を呼び戻そ

うとしているかのようです。





2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。










アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

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