「アイヌ神謡集」
知里幸恵 編訳 岩波文庫 より引用
これ程に悲しみを湛えた序文を、そして文字通り命をかけて成し遂げたかった アイヌに伝わる伝承物語の中に息づくアイヌの豊穣な精神性を見て心を揺さぶ られてしまった。大正時代に出版されたこの文献は、アイヌの人にとって自己の アイヌとしての基盤を世に認めさせた最初の文献であったが、それでもアイヌへ の差別はその後も続いていくこととなる。アイヌの悲惨な歴史の中で知里幸恵 は、幼少の頃の美しい思い出を糧に、その精神性をこの文献を通して語り継ぐ 使命を感じていたのだろう。「アイヌとして生きる」そして生きた知里幸恵のこの 文献は私の心の中でいつまでも消えることの無い熱い炎を燃やすだろう。 (K.K)
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知里幸恵 「アイヌ神謡集」岩波文庫より引用 大正十一年三月一日 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。 天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に 抱擁されてのんびりと楽しく 生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであっ たでしょう。 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせ ず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白 い?の歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く 春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀る小鳥と共に歌い暮らして蕗 (ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に稲揃うすすきをわけて、 宵まで鮭とる篝(かがり)も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円(まど) かな月に夢を結び、嗚呼なんという楽しい生活でしょう。 平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転 をなし、山野は村に、村は町に次第々々に開けてゆく。 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々 として暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ。僅かに残る私たちの 同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり、しかもその 眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の 輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わか ず、よその御慈悲にすがらねばならぬ。 あさましい姿、おお亡びゆくもの・・・・・・それは今の私たちの名、なんと いう悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。激しい競争場裡に敗残 の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強 いものが出て来たら、進みゆく世と歩を並べる日も、やがては来ましょう。 それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。 けれど・・・・・・愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通じる為に 用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらの ものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょう か。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある 毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな 話の一つ二つを拙い筆に書連ねました。 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただくこと事が出来ますならば、 私は、私たちの同族先祖と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に 存じます。 |
金田一京助宅の庭にて撮影
知里幸恵さんのこと 金田一京助 本書より引用
知里幸恵さんは石狩の近文の部落に住むアイヌの娘さんです。故郷は胆振の 室蘭線に温泉で有名な登別で、そこの豪族ハエプト翁の孫女と生れたのです。 お父さんの知里高吉さんは発明な進歩的な人だったので、早く時勢を洞察し、 率先して旧習を改め、鋭意新文明の吸収に力められましたから、幸恵さんは幼 い時から、そう云う空気の中に育ちました。その母系は、幌別村の大酋長で有 名なカンナリ翁を祖翁とし、生みのお母さんは、姉さん〔金城マツ〕と一緒に函館 へ出で、英人ネトルシプ師の伝道学校に修学し、日本語や日本文はもちろんの 事、ローマ字や英語の知識をも得、ことに敬虔なクリスチャンとして種族きっての 立派な婦人です。その人々をお母さんと伯母さんに持った幸恵さんは、信者の子 と生まれ信者の家庭に育ち、父祖伝来の信仰深い種族的情操をこれによって 純化し、深化し、ここに美しい信仰の実を結び、全同胞の上に降りかかる逆運と、 目に余る不幸の中に素直な魂を護って清い涙ぐましい祈りの生活をつづけて 二十年になりました。
唯々「この人にしてこの病あり」と歎かわしいのは心臓に遺伝的な固疾をもって、 か弱く生い立たれたことです。それに近文の部落から、旭川の町の女子職業学校 へ通う一里余りの道は朝朝遅れまいと急ぎ足で通う少女の脚には余りに遠過ぎま した。その為、なおさら心臓を悪くして大事な卒業の三学年は病褥の上に大半を 過ごしました。それでも在校中は副級長に選まれたり、抜群の成績を贏ち得て、 和人のお嬢さん達の中に唯々ひとりのアイヌ乙女の誇を立派に持ちつづけました。 幸恵さんの標準語に堪能なことは、とても地方出のお嬢さん方では及びもつかない 位です。すらすらと淀みなく出るその優麗な文章に至っては、学校でも讃歎の的と なったもので、ただに美しく優れているのみではなく、その正確さ、どんな文法的な 過誤をも見出すことが出来ません。しかも幸恵さんは、その母語にも亦同じ程度に、 あるいはそれ以上に堪能なのです。今後その部落に伝わる口碑の神謡を発音どお り厳密にローマ字で書き綴り、それに自分で日本語の口語訳を施したアイヌ神謡集 を公刊することになりました。幸恵さんのこの方面の造詣は主として御祖母さんに負 うらしく、父方の御祖母さんも母方の御祖母さんも、揃いも揃って種族的叙情詩の 優秀な伝承者であるのです。
すべてを有りの儘に肯定して一切を神様にお任せした幸恵さんも、さすがに幾千年 の伝統をもつ美しい父祖の言葉と伝とを、このまま氓滅に委することは忍びがたい 哀苦となったのです。か弱い婦女子の一生を捧げて過去幾百千万の同族をはぐくん だこの言葉と伝説とを、一管の筆に危く伝え残して種族の存在を永遠に記念しよう と決心した乙女心こそ美しくもけなげなものではありませんか。「アイヌ神謡集」はほ んの第一歩に過ぎません。今後ともたとい家庭の人となっても、生涯の事業として 命のかぎりこの仕事を続けて行くと云って居られます。
大正十一年七月十五日
今雑司ヶ谷の奥、一むらの椎の木立の下に、大正十一年九月十九日、行年二十歳、 知里幸恵ノ墓と刻んだ一基の墓石が立っている。幸恵さんは遂にその宿痾(しゅくあ) の為に東京の寓で亡くなられたのである。しかもその日まで手を放さなかった本書の 原稿はこうして幸恵さんの絶筆となった。種族内のその人の手に成るアイヌ語の唯一 のこの記録はどんな意味からも、とこしえの宝玉である。唯この宝玉をば神様が惜し んでたったの一粒しか我々に恵まれなかった。
大正十二年七月十四日 京助追記
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「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著より引用
あれだけアイヌ文化を研究し、アイヌ文化を愛したはずの金田一京助は、多くの国語辞典は
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2012年3月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
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