「歓喜する円空」新しき円空、発見 梅原猛著 新潮社


 











 


円空わが内にありて生きるるなり (本書より引用)



泰澄はまた、日本における木彫仏製作の創始者と伝えられる。後に詳しく述べるが、行基は泰澄から

木彫仏製作を学び、素木(しらき)に彫った異形と言うべき仏像を多く残した。この行基仏の影響であろ

う、平安時代になると、奈良時代の主な寺院にあった金銅仏、乾漆(かんしつ)仏、塑像仏などが姿を

消し、仏像は木彫仏一本やりになる。木は昔から日本人にとって神の宿るものとされてきた。それゆえ、

その神の宿る木から仏を作る木彫仏製作は、神仏習合の思想と深く関係している。



円空は三井寺系の白山信仰の修験者であり、しかも多数の異形の木彫の仏像および神像を作った。

円空は神仏習合思想と木彫仏の製作という二点において、泰澄・行基の伝統の上に立つ。このことが

私の頭にひらめいた時、円空は私の心をすっかり奪ってしまった。長谷川氏とともに全国の円空仏を

訪ねる旅を続けるうちに、私はすっかり円空の虜(とりこ)になってしまった。多少大げさに言えば、パウ

ロが「われ生きるにあらず、キリストわが内にありて生きるなり」と言ったように、「梅原生きるにあらず、

円空わが内にありて生きるるなり」と言える心境になった。円空は私にとってもはや一人の芸術家にす

ぎない存在ではない。むしろ彼は私に神仏習合思想の深い秘密を教える哲学者なのである。







『円空歌集』の和歌には「楽」「喜」「歓」という言葉がしばしば登場する。私は円空の思想の中心は

生きている喜び、楽しみを礼賛することであると思う。それはまさに神々の清らかな遊びである。







私はあえて言いたい。今回、円空の歌集を西行の『山家集』とともに読んだが、西行の歌より

円空の歌の方により強い感銘を覚えた。円空の歌を西行の歌と比較するなど、とんでもない

ことであると多くの人は言うかもしれない。たしかに歌としては西行の歌の方がはるかに巧み

である。また、円空の歌には誤字や脱字があり、「てにをば」も誤っている。にもかかわらず、

円空の歌には今までどのような日本人の歌にも見られない雄大な世界観が脈打っている。

まるで超古代人の声が聞こえてくるようである。







「祭るらん 産の御神も 年越へて 今日こそ笑へ 小児子(ちごのね)ノ春」(一一七三)

春になり年が明けた。今日こそ産土(うぶすな)の神を祀って、大いに笑おう、子どもたちよ。

良寛のように子どもたちと無心に遊んでいる円空の姿が目に浮かぶようである。この笑いの

精神は空海の精神に結びつく。私は若い時、人生を不安・絶望の相に見る実存哲学から

自己を解放するために「笑いの哲学」なるものを構想し、笑いを価値低下という概念で考え

たが、笑いはそのような概念で解釈されるべきものではない。その時はまだ私は空海の

言う「大笑」というものをよく理解していなかった。今ようやく円空を通じて空海の「大笑」の

意味が少しは理解できるようになったのではないかと思う。







「老ぬれは 残れる春の 花なるか 世に荘厳(けだかけ)き 遊ふ文章(たまづさ)」(一四二一)

これは今の私の心境をぴたりと表したものである。円空がこの歌を作ったのは六十歳頃である

と思われるが、私はそれよりさらに二十年の歳をとり、八十歳を超えた。そのような老人にも春

があるのである。私はまだ花を咲かせたい。学問の花、芸術の花を咲かせたい。学問や芸術

はしょせん遊びなのである。遊びのない学問や芸術はつまらない。作者が無心になって遊んで

いるような学問や芸術なくして、どうして人を喜ばせることができようか。



円空の仏像制作は地球の異変を鎮め、人間ばかりかすべての衆生を救うためであった。菩薩

は人を救うことを遊びとしている。私もこの歳になってようやく菩薩の遊び、円空の遊びが分って

きた。その遊びは荘厳なる遊びでもある。遊びと荘厳、それはふつうは結びつかない概念であ

るが、それが結びついたところに円空の芸術の秘密があろう。



 


木彫仏の伝統のもとに (本書より引用)



(中略) また円空の寺である関市池尻の弥勒寺の本尊が行基作の弥勒仏であったことも注意すべきで

あろう。円空は終始、白山信仰の信者であり、泰澄を厚く尊敬したことはすでに述べた。彼らの製作した

白山十禅師という地蔵形の僧像は、泰澄の肖像であろう。円空は白山の主峰イザナミノミコトの本地仏

である十一面観音像をたくさん作っている。円空の思想は天台密教、あるいは華厳思想、あるいは法華

思想と結びつくが、その中心に泰澄の白山信仰があったことは間違いない。このようにして円空は神仏

習合の思想と同時に木彫仏の制作においても泰澄・行基・空海の伝統のもとではっきり日本思想史の上

に位置づけられるのである。ついでに言えば木彫仏制作は、泰澄・行基の後は空海に受け継がれる。

空海の建立した東寺の講堂の、真言密教の思想を立体的に表した立体曼荼羅(まんだら)と言うべき見

事な群像はすべて木彫なのである。この木彫仏の制作技術はやがて寄木細工の技術を生み、その精密

な技術で知られた平安中期の仏師・定朝(じょうちょう)によって宇治市の平等院鳳凰堂の本尊・阿弥陀

如来像のような傑作を生む。そしてこの定朝様式が主流となり、各地にすぐれた仏像を多く残したが、そ

れはやがてマンネリ化する。そのマンネリ化に抗して、鎌倉時代初期に仏師・運慶(うんけい)による仏や

人間の相貌をよく写した雄渾にして剛健な像が登場する。



この鎌倉時代において木彫仏は完成期を迎えるが、以後、木彫仏制作は衰えていく。それは一つには

宗教思想の変化による。なぜなら仏像を必要としていたのはやはり奈良・平安の仏教で、とくに真言密教

や天台密教であった。恵心僧都源信(えしんそうづげんしん)(九四二〜一〇一七)によって始まったと

言ってよい浄土教も画像とともにすぐれた仏像を生んだが、それが鎌倉時代に法然(ほうねん)、親鸞(し

んらん)らの口称(くしょう)念仏による浄土教となる時に、もはや仏像の制作は不要になる。仏像の代わり

に名号(みょうごう)が礼拝の対象になり、本尊も来迎(らいごう)印を結ぶ阿弥陀如来の立像に限られる。

禅(ぜん)は人間の自己そのものが仏になるという教えであり、本来礼拝の対象としての仏像を必要とし

ない。祖師の頂相(ちんぞう)こそ尊ばれるものの、仏像はほとんど作られない。日蓮(にちれん)宗も日蓮

上人像や髭題目(ひげだいもく)が重んぜられ、仏像は不要となる。



このように宗教思想の変化に応じて鎌倉以降、室町時代、江戸時代を通じてすぐれた仏像が作られな

かったのは至極当然であろう。こうした状況の中で江戸初期に生きた円空は、再び泰澄・行基の伝統を

復活しようとする。それが木彫仏製作の原点に帰る作業だったのである。そういう伝統を円空自身がどれ

だけ自覚していたかはわからない。しかし円空はまさに日本の木彫仏の原点、神仏習合思想の原点に

立って多くの仏像を制作した修験道の僧であったと言わねばなるまい。


 


イルカの大歓迎 (本書より引用)



洞窟はかなり大きく、奥の深いところに、あちこちに傷のついた一体の仏像があった。菅江真澄の言う、

三番目の文字の判読できない像であろう。菅江真澄が来た時には、この辺りにはほとんど人家がなく、

わずかに海人の数軒の家があるのみであったという。円空の時もほぼ同様であったろう。



洞窟は、アイヌの人にとっても聖なる場所であった。円空はアイヌの人たちから聖なるところで聖なる仏

像を彫ることを許されたにちがいない。円空は地を鎮め人の心を和らげる目的で仏像を彫ったのであ

ろう。円空がここに来た寛文六年の三年後の寛文九年に、和人の横暴に憤ったアイヌが大挙して兵を

挙げたシャクシャインの乱が起こった。敏感な円空が、そんな和人とアイヌの間にある微妙な空気を感

じとらないはずはない。円空は、彼の北海道旅行の保護者でありシャクシャインの乱の鎮圧者となった

蠣崎蔵人とは違ったアイヌ観を持っていたのであろう。円空の仏像作りの精神は和であった。円空は、

北海道の山の鎮魂とともに和人とアイヌとの和を真剣に祈って仏像を作ったのであろう。アイヌの人々

も、このような仏師・円空を親愛し尊敬したのではないか。



こうして私は礼文華の洞窟を訪ね、帰りの船に乗り、しばらく一人とりとめのない空想にふけっていた。

すると福沢氏が「イルカが見られるかもしれませんよ」と言った。私はぼんやり聞いていたが、いつの

間にか船の周りを無数のイルカが取りまいていた。これまで船からイルカを見たことはあるが、こんな

に多くのイルカを見たのは初めてであった。船に寄ってきたり離れたりして、正確な数はわからなかっ

たが百頭は超えていただろう。福沢氏もこんなに多くのイルカが出るのは珍しいと驚いていた。円空の

霊がイルカとなって私の来訪を喜んで送ってくれるように思われた。







鉈薬師の円空仏 (本書より引用)



この二体の仏像の左右に並ぶ日光・月光菩薩像は、仏像としてはかなり派手な衣装をまとっている。

日光・月光菩薩を比べると、日光菩薩は顔が大きく、ふっくらとしてにこやかで男性的な風貌をしていて、

左胸に太陽を抱えているが、それに対して月光菩薩は細面で鼻や口も小さく、伏し目がちな眼の女性的

な風貌をしていて、右肩に三日月形のを抱えている。そして日光・月光菩薩とも体一面に雲形文が施

されている。雲形文は鉈薬師の十二神将像のいくつかにも、聖徳太子と称される像にも、また同時代に

作られた他寺の像にも施されている。その後、雲形文はしばらく円空仏から姿を消すが、後期の埼玉県

における仏像や最晩期の高賀神社の狛犬像などにまた現れる。



この雲形文はいったい何を表すのであろうか。雲形文は鉈薬師の仏像において顕著に現れているので、

それは中国風の文様ではないかという説がある。張家の紋章は五つの雲をあしらったデザインであり、

雲形文は張家と関係があると考えられなくもない。しかし鉈薬寺の仏像の雲形文のデザイン感覚は、たと

えば黄檗(おうばく)山万福寺において感じられるような中国的なものではない。



私はこの雲形文を見て、アイヌの人たちの衣服や器物に施された雲形の文様を思い出した。それは

縄文土器の文様にも通じるような水の流れや風の流れに象徴される、宇宙にみなぎる霊の運動を表す

文様ではないか。円空は、このような文様を施すことによってその仏像に異常な霊力を与えようとしたの

であろう。



たしかにこの雲形は縄文の文様、アイヌの文様を想起させるものであるが、この像を何度も見ているうち

に、もう一つの想念が私の頭に浮かんだ。それは、張振甫が故国を離れてはるばる日本へ渡る船の中

で見た日や月をイメージしたものではなかろうか。この船旅における張振甫の不安は大変なものであった

と思われる。彼は海や雲の上に浮かぶ日や月を、祈るような気持ちで眺めたことであろう。円空も、東北、

北海道の旅では不安な気持ちで海や雲の上に浮かぶ日や月を見たであろう。そして円空は、張振甫の

日本亡命の旅を、彼の東北・北海道への旅と重ね合わせて、このような大胆なデザインの日光・月光菩薩

像を作ったのではなかろうか。







「仏法を護る」 (本書より引用)



円空は、彼が生きた当時を仏法の衰える時と考えていたことは間違いない。彼の時代は、江戸幕府が

キリスト教を弾圧するために檀家制をもうけ、すべての日本人を寺に従属せしめた時代である。仏教の

創設はもちろん、新たな寺院の建立すら禁止された。この仏教の保護および統制を、円空は仏教の

衰亡と考えたのであろう。とすれば、この仏教の衰亡の時代にどうして仏教を護れるのか。



鎌倉仏教の祖師のいずれもこの末法における仏教の衰亡を実感し、そこにおいていかなる仏教が残る

かを思索した。法然によれば、末法にあって残るのは「浄土三部経」のみで、「南無阿弥陀仏」という口称

念仏は、末法の仏教者が救われる唯一の仏の道であった。一方、日蓮は末法の世に残るのは「法華経」

のみであり、「南無妙法蓮華経」という法華経の題目を唱えることこそ末法の仏教者が仏になる唯一の

道であると考えた。そして禅は、寺院も経典も滅びる末法の世では自己そのものが仏になる道こそ唯一

の成仏の道であると主張したのである。



このような鎌倉時代の祖師たちと同じ問いを円空は問うているのであり、円空は祖師たちと違って、末法

の仏教を護るものは龍女と護法神であると考えた。人間の力では無理であり、人間以外の何か宇宙的

力、龍の力を借りずには仏法は護りきれない。そして日本の神はすべて護法神となって仏法を護らねば

ならない。それが円空の答えなのであろう。







入定 (本書より引用)



円空は元禄八年(一六九五)七月十三日、弟子・円長に「授決集最秘師資相承血脈」を与え弥勒寺を

譲った。そしてその二日後、予言通り、孟蘭盆の七月十五日に入定した。まさしく六十四歳であった。



円空の入定塚は弥勒寺のある関市池尻の長良川畔にあり、円空が生前愛した藤が植えられている。

戦後、ここに記念碑が建てられた。果たして円空がここでミイラとなったかどうかは分らない。土地の

人々は長良川に大水が出ると円空の霊が蛇となって現われ、避難を勧めるという。長良川畔を入定

の地として選んだのは、洪水の害を防ごうとする円空の強い意志を示している。それは彼の生母が

洪水で死んだという仮説を裏づける。



この入定地とは別に、弥勒寺には円空の弟子によって建てられた墓がある。代々住職の墓が普通の

墓石であるのに比べ、自然石に「ユ(弥勒菩薩の種字) 當寺中興圓空上人 元禄八乙亥天七月十五

日(花押)」と彫られている。弟子がなぜここに墓を建てたのか。一体、円空の亡骸は、入定塚の下に

あるのか、それともこの墓の下にあるのかは分らない。円空はまだまだ分らないことが多い。円空は、

富士山ですら晴天に仰ぐ姿を好まず、雲に隠れている姿をよしとした。彼は自らの姿をも雲に隠そうと

しているのであろうか。



円空は護法神を多く作って、日本の神々がすべて護法神となって仏法を護ることを願ったが、以後、

仏法を排斥する神の学、国学というものが起こり、明治維新を迎える思想の原動力の一つとなり、

明治新政府をして神仏分離・廃仏毀釈の政策を採らしめた。まさに円空の期待に反して神が仏を

滅ぼしたのである。しかしその神は円空の言う、縄文時代の昔から日本にいる神々ではなく、新しく

作られた国家という神であった。実はその新しい神は、仏とともに日本のいたるところにいた古き神

をも滅ぼしたのである。そしてその新しき国家という神もまた、戦後を境にして死んでしまったので

ある。こうして日本は世界の国々の中でほとんどただ一つの、少なくとも公的には神も仏も失った国

となったのである。



神仏を殺した罪は大きい。いろいろな祟りが今、たとえば国の指導者である政治家や官僚の腐敗や

青少年の恐るべき犯罪となって現れつつある。円空はこのような問題の根源がどこにあるかを像や

歌で秘かに語っているように思うのである。



私はこの「円空論」を書きながら、心が清々しくなるのを覚えた。この清々しい童心を失ってはなら

ない。円空がひそかに語る言葉を、耳をそばたてて聞くべきであると思う。


 


目次

はじめに



一 泰澄・行基の伝統のもとに

二 円空はこれまでいかに語られてきたか

三 母を失った「まつばり子」

四 旅の始まり

五 鎮魂の薬師曼荼羅

六 円空の芸術の大変革

七 歓喜の爆発

八 円空、仏となる

九 和歌に表れた哲学

十 旅の終わり 九十六億末の世まで



年譜・円空の生涯

掲載写真一覧





2012年6月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略



4月16日に投稿した円空の像、もっと知りたいと思い「歓喜する円空」梅原猛著を読みました。



江戸初期1632年、岐阜県に生まれた円空は、兵庫から北海道まで足を伸ばして、大地の異変を鎮め、

人間ばかりかすべての衆生を救うために12万体の仏像を彫ります。



円空は縄文時代からの神と仏教を習合させた修験者でしたが、その生涯は常に衆生救済を目的とし、

64歳のときに長良川畔にて入定しました。



入定とは土中の石室などに入り、掘り出されずに埋まったままの即身仏のことを言います。



長良川畔を入定の地として選んだのは、洪水の害を防ごうとする円空の強い意志を示しており、それ

は彼の生母が洪水で死んだという梅原氏の仮説を裏づけるものだそうです。



また土地の人々は長良川に大水が出ると円空の霊が蛇となって現われ、避難を勧めるという言い伝

えがあります。



現代の前衛芸術を凌駕する円空仏像に見られる感性、そして和歌に見られる神々と遊ぶ子どもの

ような円空の魂、私は円空に魅せられてしまいました。



この文献で心に残った箇所を下に紹介しようと思います。



☆☆☆☆



◎円空は私にとってもはや一人の芸術家にすぎない存在ではない。むしろ彼は私に神仏習合思想の

深い秘密を教える哲学者なのである。



◎『円空歌集』の和歌には「楽」「喜」「歓」という言葉がしばしば登場する。私は円空の思想の中心は

生きている喜び、楽しみを礼賛することであると思う。それはまさに神々の清らかな遊びである。



◎私はあえて言いたい。今回、円空の歌集を西行の『山家集』とともに読んだが、西行の歌より円空

の歌の方により強い感銘を覚えた。円空の歌を西行の歌と比較するなど、とんでもないことであると

多くの人は言うかもしれない。たしかに歌としては西行の歌の方がはるかに巧みである。また、円空

の歌には誤字や脱字があり、「てにをば」も誤っている。にもかかわらず、円空の歌には今までどの

ような日本人の歌にも見られない雄大な世界観が脈打っている。まるで超古代人の声が聞こえてく

るようである。



◎「祭るらん 産の御神も 年越へて 今日こそ笑へ 小児子(ちごのね)ノ春」(一一七三)

春になり年が明けた。今日こそ産土(うぶすな)の神を祀って、大いに笑おう、子どもたちよ。

良寛のように子どもたちと無心に遊んでいる円空の姿が目に浮かぶようである。この笑いの精神は

空海の精神に結びつく。私は若い時、人生を不安・絶望の相に見る実存哲学から自己を解放する

ために「笑いの哲学」なるものを構想し、笑いを価値低下という概念で考えたが、笑いはそのような

概念で解釈されるべきものではない。その時はまだ私は空海の言う「大笑」というものをよく理解し

ていなかった。今ようやく円空を通じて空海の「大笑」の意味が少しは理解できるようになったので

はないかと思う。



◎「老ぬれは 残れる春の 花なるか 世に荘厳(けだかけ)き 遊ふ文章(たまづさ)」(一四二一)

これは今の私の心境をぴたりと表したものである。円空がこの歌を作ったのは六十歳頃であると思

われるが、私はそれよりさらに二十年の歳をとり、八十歳を超えた。そのような老人にも春があるの

である。私はまだ花を咲かせたい。学問の花、芸術の花を咲かせたい。学問や芸術はしょせん遊び

なのである。遊びのない学問や芸術はつまらない。作者が無心になって遊んでいるような学問や芸

術なくして、どうして人を喜ばせることができようか。円空の仏像制作は地球の異変を鎮め、人間ば

かりかすべての衆生を救うためであった。菩薩は人を救うことを遊びとしている。私もこの歳になって

ようやく菩薩の遊び、円空の遊びが分ってきた。その遊びは荘厳なる遊びでもある。遊びと荘厳、そ

れはふつうは結びつかない概念であるが、それが結びついたところに円空の芸術の秘密があろう。



☆☆☆☆




(K.K)



 


2012年4月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



Obrazky Liberec.cz より引用

(大きな画像)

円空(1632〜1695)が創った像(庚申像)

この像は自分が苦しいとき、その時に本当に会いたい顔の一つかも知れません。円空の像は

この表情だけではなく、様々な顔を見せてくれます。



生涯12万体を作ったとされる円空。時の権力者にすり寄らず庶民のために、人を救うために

像を作り続けた円空。梅原猛さんによると、円空は私生児として生まれ幼くして母を洪水で失い、

お寺のお坊さんになったと言われています。



遠くは北海道のアイヌの人と生活し、多くの地で仏像を作り続け庶民に愛された円空。その円空

の仏像も、明治初めの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などで失われ、12万体のうちの数千体しか

残されていません。しかし、人を救うために円空が仏像に込めた願いや祈りは、時を超えて人び

との心に刻み続けていくのかも知れません。



☆☆☆☆



円空は、仏像を芸術品としてつくったのではありません。売るためでもないし、芸術家として有名

になりたいためでもありません。



円空は人を救うために仏像をつくりました。



池の怪物を鎮めるために、千体の仏を池に沈めたという話もあります。



また、ぼろぼろの朽ちた木を仏にするために仏像をつくったといわれます。



芸術というものは、本当はそういうものなんです。



芸術は人を救うためにあるものです。



「梅原猛の授業 仏になろう」より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年4月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



フィリピンの刑務所に服役している方が作った聖母マリア像で大切にしているものです。



随分前のテレビでブッダの足跡を追ったNHKの番組があり、梅原猛さんと瀬戸内寂聴さんが解説して

おられた。晩年のブッダが母親の故郷だったか亡くなった場所を目指していたのではないかとの問い

に、瀬戸内寂聴さんは「それはありません。ブッダはそれを超えた目的のために向かった」と話してお

られましたが、梅原猛さんは瀬戸内寂聴さんに対して「いや、仏陀の心の奥深くにはそれがあった」と

言っておられたのが強く印象に残っています。



ブッダ、そして梅原猛さんも生まれて1週間後に母を亡くしています。宗教学者の山折哲雄さんは梅原

猛さんのことを次ぎのように記しています。



「仏教にたいする梅原さんの心情の奥底には、母恋いの気持が隠されている。それは微かに沈殿して

いるときもあるが、激流となってほとばしることもある。梅原さんがしばしば語っているように、それは養

父母に育てられた体験からきているのかもしれない。とりわけ、母上に早く死なれてしまった辛い体験

が、その後の梅原さんの思想の形成に大きな影を落としているためなのであろう。その深い喪失感が、

梅原さんの文章に切迫した気合いをみなぎらせ、その言葉に美しいリズムを生みだす源になっている

のだと思う。」



ブッダ、そして梅原猛さんは同じ喪失感を味わったものだけしか理解しあえない次元で繋がっているの

かも知れません。



勿論、瀬戸内寂聴さんの「仏教塾」は万人に理解できる言葉で仏教を紹介している素晴らしい文献です

が、それと同様に梅原猛さんの「梅原猛の授業 仏になろう」はユーモアを交えながらも奥の深さを感じ

ます。また手塚治虫が書いた漫画「ブッダ」と共に、今読み始めている「超訳 ブッダの言葉」小池龍之介

・翻訳もそのような優れたものなのかも知れません。



私は読んだことはありませんが、当時の日本の哲学界の重鎮であった西田幾太郎や田辺元を梅原猛

さんは評価しながらも批判をしています。



「西田・田辺の精神はよろしい。西洋哲学と東洋哲学を総合して、今後の人類に生きる道を示すような

独創的な哲学を立てるという精神には大賛成です。だけど、もっとやさしく語れ、もっと事実に即して語れ

というのが、私の学生時代からの西田先生、田辺先生に対する批判です。」



専門家向けに書かれた本なら専門用語を駆使して書くことは当然かも知れません。しかし万人を対象と

するとき、敢えて難しい言い回しや専門用語を使うことは、自らの学問の使命を忘れているのではと感じ

てなりません。勿論私の読解力のなさがそう思わせている面もあるのですが、学問は人類に限らず地球

や地球に生きるもののためのものであるはずです。学問を自分自身の名声・名誉や金銭、社会的地位

を得るための手段としてしか捉えられない者は、哲学であれ科学であれ道を踏み外しているように思い

ます。



「母の愛を象徴化したような観音やマリア崇拝が、宗教の根源ではないか」と梅原猛さんは言っています

が、梅原猛さんが母の慈愛を観音様に重ね合わせるように、私は聖母マリアに重ね合わせているので

しょう。



ただ児童虐待などで母の慈愛を感じらずに育った子供たちは、物心がつくまえに母を亡くした方と同じよ

うな喪失感が横たわっているのかもしれません。



(K.K)



 

 

2013年1月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



(大きな画像)


本日1月9日、夜明け前の光景です。


冬の思い出、私が小学1年の頃だったか、火鉢の沸騰したヤカンを足に落としたことがあった。

足が真っ赤に腫れ、母は私をおんぶして遠くの病院まで連れて行ったが、当時は救急車など

なかったのだろう。



鹿児島市内に火傷に関しては名医がいるというので、その病院に行ったのだが、そのお陰で

大きな火傷の跡は残っていない。ただ、おんぶされて何度も病院に通ったとき感じた母の背中

の温もりや想いは、私の心に刻まれている。



児童虐待など、母や父の想いを感じられず育った子供は、その穴を、長い人生をかけて何ら

かの方法で埋めていかなければならない。昔の人が言った「三つ子の魂百まで」は、幼いころ

の性格は年をとっても変らないことを意味しているが、自我が確立しておらず、無意識の中に

いる3歳までの時期は、その後の長い人生を形作るといってもいいのかも知れない。



異論はあると思うが、少なくとも3歳までは周りの人たちの助けを借りながら、親の想いを浴び

つづける満たされた時期であってほしい。



ブッダ、日本各地に赴き12万体の仏像を彫った円空、そして私が尊敬する哲学者・梅原猛さん

は幼いときに母親を亡くした。この深い喪失感は体験した者だけしかわからないのだろう。ブッダ、

円空、多くの人々を救ってきた彼らの光は、私には垣間見ることさえ出来ない深みから発せられ

ているのかも知れない。



☆☆☆☆


 

2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。






円空仏 地図 (本書より画像引用)










夜明けの詩(厚木市からの光景)

美に共鳴しあう生命

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