マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp)
(1887年7月28日〜1968年10月2日)
今月の1冊】デュシャンとチェスの関係に一石を投じる作品論『マルセル・デュシャンとチェス』 より以下引用。 『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート&カルチャー本の中から毎月、注目の図録や エッセイ、写真集など、様々な書籍を紹介。2017年10月号では、「チェス」というトピックでデュシャン の思考に切り込んだ、中尾拓哉の初著書『マルセル・デュシャンとチェス』を取り上げた。 文=中島水緒 マルセル・デュシャンが1923年に《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」) の制作を未完のまま中止し、チェス・プレイヤーに転向したことはよく知られている。創作活動からの撤退 は、「芸術の放棄」「沈黙」と評され、デュシャン特有のシニカルな態度か、もしくは芸術/生活の境界を 融合させる企てと見なされてきた。美術評論家・中尾拓哉の初単著となる本書は、その通説に一石を投じ る意欲作である。しかも、著者は一冊丸ごとをデュシャンとチェスのいまだ踏み込んで語られてこなかった 関係に捧げている。「チェス」というトピックでデュシャンを語るにしても限界があるのでは?――読み進め ていくうちに、そんな横槍は無意味であることがよくわかった。どうやら「チェス」は、デュシャンの初期か ら晩年までを貫く思考の原理であり、芸術/非芸術の区分すらもすり抜ける「造形的問題」であったよう なのだ。 造形的問題とは言っても従来の絵画や造形のそれとは異なり、脳内で展開される無数のチェスの手の パターンを含み込むような、純粋で高次元の運動のことを指す。刷新された「造形」の概念は従来の美術 史の枠組みを超える手で迎え撃たなければならない。そこで著者は、「頭脳戦」には「頭脳戦」で応えると 言わんばかりに、数学や幾何学も駆使した作品分析に挑む。チェスに興じる人々を描いた初期タブローの 画面分析、レディメイドにおける「選択」「配置」の操作とチェス駒がつくり出す運動の比較検証、20世紀初頭 の美術家たちを魅惑した「4次元」の概念をチェス・ゲームに接続させる数学・幾何学的読解。デュシャン 作品の最大の謎とも言うべき《遺作》(1946〜1966)が、チェスにおける「エンドゲーム」になぞらえて読み解か れる終盤に至っては、デュシャンの芸術/人生が美しい棋譜として完成するのを目撃するような感慨を引き 起こす。デュシャンが実際に行った対局の棋譜分析など、チェスのルールに明るくない人間には難渋な箇所 もあるが、すべてはデュシャンの思考の運びに手を抜かず付き合った結果なのだろう。 デュシャンは芸術家の「創造行為」が観賞者――とりわけその芸術家の死後に現れる後世の――によって、 創造過程に参与するかたちで読み解かれることを望んだが、デュシャンと著者の「対局」といった趣を持つ 本書は、その望みを完遂させたと言えるかもしれない。半世紀も前に没した芸術家の頭脳と生者の頭脳が 繰り広げる接戦。クールでアツい作品論だ。 (『美術手帖』2017年10月号「BOOK」より) |
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「完全チェス読本1 はまってまった人々」より抜粋引用 デュシャンはダダイズム、シュールレアリスム、キュービズムの創始者のひとりだが、 チェスにとりつかれすぎて芸術をあきらめたほどだった。彼はパリ(1932年、ズノスコ =ボロヴスキーを凌ぐ)およびニューヨークのトーナメントで優勝し、チェス・オリンピック にフランス代表として4回出場し、エンドゲームに関する著作の中で難解な研究書を共 著として出した(「そこで論じている局面は、一生に1度しか出現しないようなものだ」と 彼は自慢げに語っている)。デュシャンはまた、郵便チェスの第1回国際オリンピック戦 でも優勝しているし、ズノスコ=ボロヴスキーの有名なオープニング定跡書をフランス語 に翻訳した。デュシャンの棋歴で頂点となるのはおそらく1930年ハンブルクでのこと で、フランス対アメリカの対抗戦において、アリョーヒン休場のあおりをくらって、彼は史上 最強のひとりフランク・マーシャルと対戦するはめになった。ところがフランスにとって嬉し い誤算で、デュシャンはグランドマスターからドローをもぎ取ったのだ。マルセルのチェス に注ぐ情熱はすごいものだった。1927年、新婚旅行の最中に、彼は何日もチェス・プロ ブレムを解くのに没頭し、たいていの晩はそのチェス熱をさますために寝るというありさま だった。失望の1週間が過ぎたのち、頭にきた花嫁のリディは、ある晩こっそりと階下に おりていって駒を盤に全部糊付けてしまった。驚いたことに、この結婚生活は3ヶ月続い たという。「チェスを指すのは、何かを設計したり、何か機械を組み立てたりするようなもの で、それによって勝つか負けるかが決まる。チェスの競技という面はたいしたことではな い。チェスそのものはきわめて造形的であり、たぶんそれで私はチェスに惹かれたのだろ う」。1963年に回顧展を催したとき、デュシャンは若い裸の女性とチェスを指した。デュシャ ンの言うところでは、彼女は「なかなかのびのびしていた」とか。これが体のことを言ってい るのか、それとも駒組みのことを言っているのかは定かではない。1991年に行なわれた 挑戦者決定準々決勝の開会式には、デュシャンの未亡人ティーニーと、作曲家にして奇人 のジョン・ケージが出席した。そのときの先後の決め方がシュールで、白と黒の便器のどち らかを取るかで決めたという。
「私はすっかりチェスにのめりこんでいる。昼も夜もチェスだ。だんだん絵を描くのが好きで なくなってきた」・・・・デュシャンの書簡より 1919年
「赤ん坊には哺乳瓶が必要なように、彼にはチェスを思う存分指すことがどうしても必要なんだ」 ・・・・ローシュ(デュシャンの友人)
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Man Ray (American, 1890-1976)
[Marcel Duchamp and Raoul de Roussy de Sales Playing Chess]
1925
2013年2月5日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 ヴェラ・メンチク(1906-1944)・写真は他のサイトより引用 現在でも光り輝く星・ヴェラ・メンチク、彼女はチェスの世界チャンピオンを倒したこともある実力を持ちながら、 第二次世界大戦のドイツの空爆により、38歳で亡くなる。 上の写真はメンチク(前の女性)がクラブの23人のメンバーと同時対局(18勝1敗4分け)した時の写真である が、彼女の偉業を称えて、チェス・オリンピックでは優勝した女性チームに「ヴェラ・メンチク・カップ」が現在に 至るまで贈られている。 彼女のような輝く女性の星が再び現われるには、ユディット・ポルガー(1976年生まれ)まで70年もの年月が 必要だった。チェスの歴史上、数多くの神童や天才が出現したが、その中でもひときわ輝いていた(人によっ て評価は異なるが・・・)のがモーフィー(1837年生まれ)、カパブランカ(1893年生まれ)、フィッシャー(1943年 生まれ)である。 他の分野ではわからないが、このように見ると輝く星が誕生するのは50年から70年に1回でしかない。 20世紀の美術に最も影響を与えた芸術家、マルセル・デュシャン(1887年〜1968年)もピカソと同じく芸術家 では天才の一人かも知れない。1929年、メンチクとデュシャンは対局(引き分け)しているが、デュシャンは チェス・オリンピックのフランス代表の一員として4回出場したほどの実力を持っていた。 「芸術作品は作る者と見る者という二本の電極からなっていて、ちょうどこの両極間の作用によって火花が 起こるように、何ものかを生み出す」・デュシャン、この言葉はやはり前衛芸術の天才、岡本太郎をも思い出 さずにはいられない。世界的にも稀有な縄文土器の「美」を発見したのは岡本太郎その人だった。 「チェスは芸術だ」、これは多くの世界チャンピオンや名人達が口にしてきた言葉だ。この言葉の真意は、私 のような棋力の低い人間には到底わからないが、それでもそこに「美」を感じる心は許されている。 メンチクの光、芸術の光、それは多様性という空間があって初めて輝きをもち、天才もその空間がなければ 光り輝くことはない。 多様性、それは虹を見て心が震えるように、「美」そのものの姿かも知れない。 |
John Cage & Marcel Duchamp 1968年
左の女性はデュシャン夫人のTeeny
20th Century at Christie's | New York | May 2016
3-D Printing Brings Marcel Duchamp's Long-Lost Chess Set To Life