聖書の世界が見える 使徒たちの旅路 ナショナル ジオグラフィック 2012年3月号
聖書の世界が見える 使徒たちの旅路 ナショナル ジオグラフィック 2012年3月号
聖書の世界が見える 使徒たちの旅路 ナショナル ジオグラフィック 2012年3月号
聖書の世界が見える 使徒たちの旅路 ナショナル ジオグラフィック 2012年3月号 より抜粋引用 文=アンドリュー・トッドハンター(ジャーナリスト) 写真=リン・ジョンソン 聖トマスは、イエス・キリストの直弟子である「十二使徒」の一人で、「疑い深いトマス」とも呼ばれている。使徒は トマスのほか、ペトロ、アンデレ、大ヤコブ、小ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、タダイ、シモン、 そして裏切り者とされるイスカリオテのユダに代わって加わったマティアの12人。彼らはキリストが磔刑に処せられ た後、信仰を広めるため各地に散っていく。本来「使徒」とはこの十二使徒を指す言葉だったが、次第に「キリスト の言葉を伝える者」を意味するようになった。迫害者から一転、熱心な信者となったパウロ自らを使徒と称したの は、キリストから直接神聖な任務を与えられたと、彼自身が信じていたからだ。また、キリストの復活を十二使徒 に告げたマグダラのマリアも、彼らから使徒と呼ばれた。新約聖書の福音書記者のうち、十二使徒だったのは マタイとヨハネ。残る2人は、マルコとルカもその役割の重要さから、使徒に匹敵する扱いを受けている。 キリストが処刑された間もない頃は、この信仰には祈祷書や典礼はなかった。名前も、初期の信者たちが「道」と 呼んでいただけで、もろんユダヤ教が認めた宗派でもなかった。その新しい宗教運動のリーダーとなったのが ペトロだ。使徒言行録によると、彼は多くの人を改宗させ、足の不自由な人を治し、死者をよみがえらせるなどの 奇跡を行った。 キリスト教と呼ばれるようになってからも、初期の教団には迫害の対象になるほどの力はなく、ローマ帝国よりも、 身近なユダヤ教との摩擦が大きかった。紀元35年頃、キリスト教初の殉教者である聖ステファノは、キリストが 復活してエルサレム神殿を破壊すると示唆したかどで、ユダヤ人たちに石で撃ち殺された。その間も彼は、 ユダヤ人のために祈っていたという。 そして紀元44年、ユダヤの王ヘロデ・アグリッパ1世が大ヤコブを捕らえ、首をはねた。十二使徒最初の殉教者 である。さらに64年には、ローマ大火で市内14地区のうち10地区が壊滅。皇帝ネロは、当時勢いを増していた キリスト教の信徒に放火の罪をかぶせた。歴史家タキトゥスはこう書いている。「彼らは獣の皮をかぶせられ、 犬に噛み裂かれて絶命した。十字架に磔になる者、火あぶりになる者もいた」。こうした血なまぐさい出来事は、 その後も200年にわたって散発的に発生することになる。 言い伝えによると、十二使徒のうち11人は殉教している。ペトロ、アンデレ、フィリポは磔刑にかけられ、大ヤコブ とタダイは打ち首、小ヤコブとマティアは石で打たれて死んだ。バルトロマイは生きながら皮をはがれた後に磔刑。 トマスとマタイは槍で突き殺され、シモンは磔刑あるいは、のこぎりで切られたとされる。 ベネディクト会の修道士コランバ・スチュワートはこう語った。「初期キリスト教には確たる組織も、バチカンに象徴 される教会制度もありませんでした。脆弱で貧しく、たびたび迫害される小さな集団でしかなかったのです。ただ 彼らの胸には、信仰の炎が熱く燃えていました」 十二使徒は新しい宗教運動を先導し、古代世界の広大な交易網を経由して教えを広めて、行く先々にキリスト教 の小さな共同体を作っていった。「使徒なちの生涯を調べることは、遠い昔の銀河系に迫ろうと、ハッブル宇宙 望遠鏡で宇宙を見つめるのに似ています。あの時代はいわばキリスト教史におけるビッグバン、エルサレムから 世界のあちこちに使徒たちが散っていったのです」 東方に向かったトマスは、現在のシリアとイランを通り、インド南部に到達したと考えられている。つまり、地中海 沿岸を回ったパウロよりも遠くへ旅したことになる。トマスはキリスト教隆盛期の伝道熱を体現するかのように、 新しい教義を広めるため、世界の果てをめざしたのだ。 一方、福音書記者マルコはキリストの教えをエジプトに伝え、コプト教の基礎を築いた。また、都市国家ベネチア のアイデンティティーを形成した守護聖人であることから、信者の中には、マルコに政治を重ね合わせる向きも ある。 トマスが伝道の、マルコが政治の象徴であるとすれば、マグダラのマリアは神秘的な聖人の典型であり、神への とりなしと慈悲を連想させる存在だ。かつては悔悛した娼婦として蔑まれていたマグダラのマリアだが、今では キリストに最も近かった人物の一人として、世界中で篤い信仰の対象となっている。 マグダラのマリアはトルコ西部のエフェソスで没したと伝えられる一方で、中東からフランス南部まで旅したという話 も残っている。トマスがインドで死んだという伝承も含め、こうした聖人たちの逸話は、今となっては確かめようが ない。遺骨を調べたところで、せいざい性別と時代がわかる程度だ。分析技術や考古学研究の進歩によって新た な事実が判明したとしても、その多くは明快な結論を出すには至らないだろう。科学の力が及ばない以上、使徒 たちを理解するには初期キリスト教徒と同じく、謎めいた伝説と歴史的な記述に頼るほかなさそうだ。死後2000年 近くたった今日もなお、使徒たちの影響力はいささかも衰える気配がない。 マグダラのマリアを追って フランスはエクサン・プロバンスの東、広大な森林が広がる山麓にサント・ボームの洞窟がある。ローマ・カトリック の言い伝えでは、マグダラのマリアが死ぬまでの30年間を過ごしたのがこの洞窟らしい。駐車場から森に入る遊歩 道を上っていくと洞窟が出現し、その隣に小さな修道院がある。洞窟の中央には石の祭壇がろうそくの光に照らさ れている。金色の聖骨箱には、マグダラのマリアのものとされる遺物が納められている。ひと房の髪と、歳月を経て 黒ずんだ頚骨らしきものだ。 後日、ノートルダム大学で新約聖書とキリスト教の起源を研究するカンダイダ・モス教授がこんな話をしてくれた。 「遺物は悲嘆のプロセスの一環です。愛する者を失った経験がある人ならば、その人を連想させる物に執着する 気持ちがわかるでしょう。その人が死んでも、遺物を通じて直接結びつくことができるのです」 洞窟ミサが行われる間、私は信徒席の後方に座っていた。参列者はほかに、幾人かの巡礼者、そして、寒さに 腕組みしながらも陽気にはしゃぐ中学生の集団がいた。その後、トマス・ミシェル神父とフランソワ・ル・エガレ神父 による晩課も執り行われた。このとき近くに座っていたアンジェラ・リナルディは、2001年からサント・ボームに住んで いるという。当時交流のあったシャーマンやニューエイジの指導者の間で評判だったことから訪れたのが最初だ。 地元の伝承によると、この洞窟はかつて異教の聖地でもあり、豊穣の儀式が行われ、女神信仰の巡礼者を集めて いた場所でもある。「マグダラのマリアがどうという以前に、この森には人を立ち上がらせるような、強いエネルギー があるのです」と、リナルディは言った。彼女は結局子供の頃から信仰していたカトリックに回帰し、ここで小さな 書店の手伝いをしている。「それまで私は、いつも何かを探し求めていました。私が欲しかったのは偉大な愛。霊的 な次元でしか生まれない愛だったのです」 この洞窟は1295年以来、ドミニコ修道会が管理している。私はミサの前に、ミシェル、ル・エガレ両神父と修道院で 昼食をともにした。食堂は古びた味わいのある、簡素で美しい部屋だった。修道院は高い断崖にへばりつくように 建ち、霧の晴れ間には、開け放たれた窓から眼下の森林と高原が何キロ先まで見渡せる。 ミシェル神父が話し始めた。「聖母マリアの後、新約聖書に登場する最も重要な女性なのですが、マグダラのマリア について語られることは残念ながらほとんどありません。罪深い者でありながら、復活の最初の目撃者としてキリスト に選ばれた彼女に心を打たれる人はたくさんいるはずです。キリストが選んだのが十二使徒でも聖母マリアでもなく、 マグダラのマリアだったのは、彼女が許しを乞うた最初の人物だったからでしょう。その頃はまだ、ペトロの時では ありません。マグダラのマリアの時だったのです」。神父は奇跡を起こし、カトリック教会を創設したペトロの台頭を 引き合いに出して言った。 新約聖書でマグダラのマリアがキリストの復活を最初に目撃した場面は、長い間論議の的になっていた。ヨハネに よる福音書によると、キリストの埋葬から三日後、「まだ暗いうちに」誰よりも早くその墓を訪れたのがマグダラのマリア だった。墓石が動かされていることに気づいた彼女は急いで使徒たちに知らせ、もう一度みんなで墓を見ると、中は 空っぽだった。「弟子たちは家に帰って行った」が、マリアだけは墓のそばにたたずんで泣いていた。十字架で処刑 されるその場に最後までとどまったように、このときも墓から離れようとはしなかった。もう一度墓の中をのぞくと、 キリストの遺体が横たわっていた場所に2人の天使がいr。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問われてマリアは答えた。 「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私にはわかりません」。そのとき復活したキリストが彼女の 前に現れた、と福音書には書かれている。 比類なき愛の象徴 この粘り強い性格をもってすれば、彼女がプロバンス地方の寒いじめじめした洞窟で30年間過ごしたという言い伝え も納得できる。ル・エガレ神父はこう語った。「ここは悔悛の場所です。冬の厳しさは格別で、洞窟まで登ってくる人は ほとんどいません」。私は森林監督官であるクリスチャン・バキエの案内で、同じ山麓にあるもっと小さい洞窟を訪ねて みた。15万年前のネアンデルタール人の骨が出土した場所だ。 国の保護区域に指定され、多様な生物が息づいているこの森は、マグダラのマリアより何万年も前の先史時代から 神聖な土地とされてきた。洞窟は女性器を思わせる形状で、古来女性たちが子宝祈願に訪れていたらしい。今も マグダラのマリア像にお腹をこすりつけながら祈る女性の姿が見られる。洞窟の壁は、さまざまな言語で書かれた感謝 の銘板やメモでいっぱいだ。「マグダラのマリアさま、娘を治してくださってありがとう」とフランス語で書かれたものは、 日付が1860年10月だった。 ドミニコ修道会は山麓の麓で宿泊所を経営していて、巡礼者や学生、研究者、観光客を受け入れている。2年前にここ サント・ボームに異動してきた修練者はこう語る。「私にとってマグダラのマリアは愛の聖人です。彼女はとても勇敢な 女性でした。キリストが磔刑になったとき、誰もが命惜しさに逃げ出したのに、マリアはその場にとどまった。十字架の 足元で、自らもキリストのために命を投げ出す覚悟を決めていたのです。彼女は信仰者の鑑です」 サント・ボームを出発する前に、私はもう一度洞窟を訪れた。そこにはマグダラのマリアが寝台代わりにしたと伝えられ ている大きな石がある。鉄格子の隙間から手を差し入れて、その石に触れてみた。洞窟は静寂で満たされ、湧水が 時折したたるかすかな音が聞こえる。はるか昔、彼女もこの水で渇きを癒したのだろう。 マグダラのマリアはプロバンスに来なかったのではないのか。トマス・ミシェル神父にそんな問いを投げかけると、彼は 顔色ひとつ変えずに答えた。「何十年もこの洞窟に暮らした修道士が言っていました。1世紀にマグダラのマリアが 本当にここに来たのか、それを確かめるすべはない。だがそんなことは重要ではない。彼女は間違いなく、今ここに いるのだから、と」 |
聖書の世界が見える 使徒たちの旅路 ナショナル ジオグラフィック 2012年3月号
長年の念願がかなって、マグダラのマリアの頭蓋骨を見にプロバンスを訪れた女性。イラン生まれの
イスラム教徒だったが、スウェーデンに移住した後、キリスト教について学んだ。女性使徒として軽く
扱われることが多いマリアとは、特別深いつながりを感じるという。「私の祖国では、女性は権力の
影に隠れて見えない存在なのです」
キリストは姦淫の女をゆるされた。罰するというようなふるまいは、地上の生活が十字架上で シモーヌ・ヴェイユ「神を待ちのぞむ」 より |
2016年3月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 マグダラのマリア 「ナショナル ジオグラフィック」2012年3月号 より写真引用 長年の念願がかなって、マグダラのマリアの遺骨を見にプロバンスを訪れた女性の写真です。 ☆☆☆ FB友達の安井さんから教えていただいたカラヴァッジョ(1573〜1610年)展が国立西洋美術館で開催され、 400年近く行方不明だった「マグダラのマリア」が世界初公開されております。 |
2012年4月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年6月3日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 聖母マリア(写真は私の家にあるマリア像です) これまで世界各地に聖母マリアが出現した。その中でカトリックの聖地となったものではルルド、ファティマが 有名かも知れない。 アッシジの聖フランシスコも「小さき花」で描かれているように、イエス・キリストやモーセの臨在を数多く受け ていた。 私自身の場合、過去に一度だけ神秘体験をしたことがある。苦しみを通り越して自分が息をしているかどう かわからなかった時のことであるが、ただそれは強いストレスにさらされた脳に快感物質が出たからだと今 は思っている。 ルルドやファティマに出現した聖母は真に神からの伝言だったが、私の場合は脳の防御反応でしかなかった と感じている。 本当に真偽を見極めるのは難しいと思うし、私には出来ない。 たとえ私の前に過去の偉大な聖人が出現しても私はそれを吟味し続けるだろう。 その現象を自己の心の奥深くに落としながら、それは真なのかと問い続けるだろう。 それは私のような疑い深い人間には長い時間を要するものかも知れないし、時間をかけなければならない ものだと思う。 ルルドやファティマで聖母を見た少女たち、彼女たちは純真無垢だけでは言い現すことができない何か、神か らの特別な恩寵を受けていたと感じられてならない。 (K.K) |
2014年10月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 皆様のすぐそばに、いつも笑いがありますように。 以前にも話したことだが、フィリピンに2週間ほど滞在したことがある。 そこでは独裁政治だったマルコス政権を打倒しようとする人々。 森に生きる先住民で、政府の政策によりその生存範囲を奪われる人々。 両親を日本兵に殺され、許すことへの祈りによって、会いにきてくれた男性。 スラム街での貧しくとも屈託のない子供たちの笑顔。 ハンセン病の隔離病棟での女性たちの笑顔。 これらの貴重な出会い、あれから30年近く経とうとしているのに消化しきれない自分がいる。 その中でも天使と出会ったと感じたのは、ハンセン病の隔離病棟での短い時間での触れ合いだった。 昔は「らい病」と恐れられた病気で、女性だけが収容されている病棟に入ったのだが、何を言えばわからなかった。 恐らく幼稚な仕草をしたためだと思うのだが、いつの間にか彼女たちに囲まれ笑われていた。 そして陽気な国民性にもよると思うのだが、彼女たちの笑顔に、心にあった壁は取り除かれていた。 無邪気な笑い、故郷や家族から引き離された人々が見せる笑顔。 どのような過酷な状況に置かれても、違った世界を垣間見させてくれる笑いに人は身をゆだねる。 天使がどのような目を持っているのか私は知らない。 しかし彼女たちの悪戯っぽい目の輝きは、乳児が生まれて初めて微笑むように、光に満ちていた。 |
2015年7月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
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