「エクソシストとの対話」
島村菜津著 小学館
21世紀国際ノンフィクション大賞優秀作 より引用
はたしてエクソシストとは何者なのか? エクソシズムは、日本人の私が密かに思い 描いてきたような、悲愴で病的な印象を与えるものではなかった。それはむしろ、驚く ほど厳格な形式を持った宗教儀式だった。もし、誰かに、"悪魔憑き”というのは、やっ ぱり今でいう精神病なんでしょうねと聞かれたならば、いまの私は即座にちがうと答え るだろう。彼らの多くは、エクソシズムという儀式のもとでだけ別人のように変貌し、後 は何とか日常生活をこなしているからだ。ヴァティカンが公式エクソシストの活動を認知 するのは、そこに、天からの聖なる力が、司祭を媒介として、地上の悪に苛まれる人間 の身体と魂を癒すという信仰に基づいている。一方、イタリアの心理学者は、長い年月 をかけて練り上げられてきたエクソシズムの形式には、科学ではまだよく解明されてい ない、病と心が癒されるプロセスの謎が隠されているのだと目を輝かせた。エクソシズム の儀式の核になっているのは、一つには、司祭による"憑依した者”の尋問である。この やりとりは、悪魔という名の人生に襲いかかる不条理な悪と個人とのドラマを紡ぎ出して ゆく作業だともいえる。そして二つめの特徴は、エクソシズム中にトランス状態に入った 相談者たちが吠え、唸り、身を捩じって、獣めくことだ。中には、"憑いた者”が語り出さ ないケースも、対話など成立しないケースもある。だが、そんな場合でも大なり小なり 共通しているのは、この相談者の変化である。その動きは、見ようによっては、だだを こねる乳児のようでもある。言語を超えた身体表現とでもいおうか、その奇妙な動き自 体がカタルシスをもたらし、精神活動に何らかの影響を及ぼす。それは理性の目には 異様に映るが、現代社会の中でぎこちない反復的な動きを強いられている人間という 動物には、案外、本質的な変容なのかもしれないと、いまの私にはそう思える。イタリア の心理学者たちは、このエクソシズム中の"悪魔憑き”たちのトランス状態を、世界中の シャーマンのそれに喩えた。エクソシストは、ラテン語で唱えられる祈りの反復する単調 なリズム、額への按手というスキンシップ、聖水や十字架というアニミステックな装置を 使って、彼らをトランス状態へと導いてゆく。すると、"悪魔憑き”たちは、トランス状態に 入り、別世界を旅するシャーマンのごとく、地獄行きを決行する。口を広げた恐怖の淵、 混沌の底に身を浸し、そこから這い上がってくる。90年代に脚光を浴びているのは、こ のいわば「癒しとしてのエクソシズム」である。通ってくる人々の中にも、精神科や心理 カウンセラーや内科を訪れても、思わしくない結果が得られない、原因も名称も曖昧な、 現代病を抱える人が増えている。ならば、エクソシストたちが世に問い続ける悪魔や悪霊 と呼ばれる「目に見えない存在」に、私はどれだけ近づくことができたのか。残念ながら 数年の取材では、何らかの答えを出せるには至らなかった。カンディド神父は、それを どう考えていたのだろう。アモルス神父の本に寄せた前書きで、神父はこう訴えている。 「なぜ知性を有する目に見えない外的存在が、我々に影響を及ぼしうるかもしれないとい うことを研究する人は少ないのだろう」 一人のエクソシストがこつこつと40年間の歳月を かけて行き着いた地平は、私にはまだまだ遠かった。私は、一人のエクソシストの秘めら れた生涯のほんの断片を垣間見たに過ぎない。だが、その断片の輝きは、数々の癒しや ミステリアスな現象にもまして、厳しい信仰と清貧を貫き、他者のために自らを消耗し尽く したひとりの宗教者の精神力に支えられていた。 (本書 エピローグ より引用)
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バルバラ・・・・仮に彼女をそう呼ぶとしよう・・・・は、ローマ郊外に本部を持つその女子 修道院に入った頃から賞賛の的だった。周囲を魅了したのは、その禁欲的な態度ばかり ではなく、浮世ばなれした透明な美しさでもあった。
数年後のある朝、いっそう特別な存在にするできごとが起きる。バルバラは、いつものよう に礼拝堂で聖体拝領を受けた後、突如、修道女たちの見守る中で恍惚の境に入った。彼女 は、何やら宙の一点をうっとり見つめていた。口元は、見えない相手と会話でもするように、 小刻みに動き、その顔はつややかな喜びに輝いていた。その状態が数分間ほど続いた後、 居合わせた修道女たちは、さらに予期せぬ光景を目にして騒然となる。
バルバラの肢体が、床からゆっくりと数センチだけ浮き上がったのだ。その日、現場にいな かった修道院長は、興奮を隠し切れない彼女たちをなだめると、このできごとを決して口外 しないように言い渡した。ところが、数日後、修道女たちがまた同じ現象を見るに及んで、 教区内は次第に、その噂で持ち切りとなっていく。そのうち、ある修道女は、彼女が恍惚状 態に入ると夢のような芳香が漂ったと言い出し、別の修道女は彼女に触れたことで重い病が 癒されたと主張し始めた。
この噂に関心を抱いた教区内のある司祭が、バルバラに、恍惚状態の中でいったい何を 見ているのかと訊ねた。すると彼女は、自分はキリストや聖母マリア、時には、その修道会 の創立者と会話するのだと打ち明けた。そこで、司祭は、修道院長に、彼女の会話をすべ て記録しておくように勧めた。
そんなある時バルバラは、外部からやってきた司祭たちと修道女が見ている場面で、いつも のように恍惚状態に陥り、十字架にかけられたキリストを幻視していた。彼女が苦痛の表情 に眉をしかめた瞬間、ちょうど十字架のように広げた手のひらに赤黒い一点のしみが浮き上 がり、みるみる広がったかと思うと、そのまま、ぽたぽたと滴り始めた。これを目撃した司祭 の一人は、すぐに彼女に近づくと、両手に三〜四センチの細い傷があるのを確認した。「これ は、神との最も深い交わりを示す聖痕かもしれない」 司祭は居合わせた修道女たちの前で そう呟いた。
一夜明ければ、バルバラはすっかり生ける聖女だった。やがて著名な聖職者までが、現場 に立ち会おうとはるばる修道院までやってくるようになった。ところが、数ヵ月後、若く美しい 現代の聖女を囲む修道院の清らかな雰囲気は、ある明るい午餐の場面で、一転して陰惨 なものと変貌する。
他愛もないことを囁き合っていたなごやかな昼食は、突然、バルバラの凍りつくような悲鳴に 中断された。他の修道女たちが何事かと近づいてみると、彼女のパスタ皿に蛆虫が蠢いてい た。最初に異変に気づき皿を凝視していたのは、隣に座っていた同世代の修道女だった。 何人かの司祭は、修道女たちが、瞬間的にパスタが蛆虫に変容するという幻視を共有したに 過ぎないと指摘し、また別の司祭は、パスタは蛆虫に変わってしまったのだと言った。この一件 に関しては、それまで一連の聖女運動への嫉妬などいろいろな推理ができそうである。とにか く確かなことは、この一件を機に、バルバラは身体の不調を訴えるようになったということだ。
彼女は、毎晩のように金縛りに合うようになった。明け方、誰かがのしかかるような感覚にも苛 まれた。これについて、一人の修道女が、俗っぽい好奇心を掻き立てられるような体験をして いた。当時、この女子修道院は、広い大部屋に寝台が並び、天井から垂れた白いカーテンだ けがかろうじて私的空間を確保してくれるといったつくりだった。その部屋で、この修道女は、 明け方、バルバラの寝台の前に、見知らぬ男が立っているのを目撃した。男子禁制の尼僧院 に侵入していることを咎めると、男は黙って詫びた。彼女が出口まで案内すると、そこで忽然と 消えた。バルバラはまた、夜中の妙な物音にも悩まされた。誰かが壁を金属で叩いてでもいる ような轟音が聞こえてきて、幾度となく眠れない夜を過ごす。不眠症は、すぐに彼女だけの問題 ではなくなった。ある晩、一人の修道女が、廊下で変な物音がしているのが気になり、ふと扉を 開いた。すると、バルバラがすっとその前を通り過ぎた。ところが、その足が床に着いていなかっ たというのだ。そのうち、今度は複数の人間が奇妙な体験をする。夜更けに、乾いた金属音が、 電気がショートするような閃光とともにバルバラの寝台の後ろから廊下へ移動するのを聞いた 修道女たちが、わらわらと起き出してきた。しかし、音はすれど、そこには誰の姿も見当たらな かった。恐怖に駆られた彼女たちは、そのまま修道院長のもとに避難した。
(中略)
そんなある日の真夜中、修道院長は、今度は当番の修道女の叫び声に目を覚まささなければ ならなかった。すぐに駆けつけてみると、そこで想像を絶する光景が展開していた。バルバラの 身体が、ベッドの上で狂ったようにのたうちまわっていた。見たこともないような異様な動きだっ た。それでも気丈な彼女は、もう一人の修道女に声をかけると、二人で上から押さえこもうとし た。ところが、次の瞬間、二人とももの凄い力に突き返され、後ろの壁に跳ね飛ばされ、腰や 頭をしたたか打ちつけた。
修道院長は、いよいよこの事態をどう受け止めていいのかわからなくなった。そこで心に一抹 のわだかまりを残しながらも、初めてカトリックに伝わる儀式を試してみることにした。信頼して いる司教が、彼女には霊媒のような特殊な力があって、これが奇妙な現象を引き起こすので はないかと真顔で呟いたことも気になっていた。こうして、ついに地元の司教を介して一人の エクソシストが呼ばれた。神父が聖水を振りかけて祈り始めると、バルバラはすぐに豹変した。 教会での恍惚状態とはまるで異質のグロテスクな変貌ぶりだった。彼女はベッドの上で身体を 痙攣させ、手足をばたつかせて暴れまくった。数ヵ月後、聖なる階段にいるというカンディド神父 の評判を聞きつけた修道院長が、司教を通じて、エクソシズムを受けたいと申し出た。こうして、 カンディド神父もまた、彼女のエクソシズムに半年ほど通うことになった。
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目次 プロローグ 聖なる階段 第一章 任命 映画「エクソシスト」 戸惑い 「ローマ典礼儀式書」
第二章 特殊な能力 増える公式エクソシスト 幻視 偽カリスマ 山の僧院
第三章 内なる他者 ある修道女 呪い
第四章 うごめく闇 その死 魔都トリノ
第五章 そして儀式へ 人里離れて 始まり 二日目 三日目 理由
第六章 深層の魔術世界 心理学者
第七章 癒し 黒人司祭 変容 エピローグ 予告された死
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