「あくまとのインタビュー」

ドミニコ・モンドローネ神父

世のひかり社



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決してなかったといってもいいほどです。わたしの体のなかに入ってきたあいつが、

みんな自分でやっていたんです。たしかに、そうです、わたしに無理にそのことをさせ

ていたんです。その間、わたしはひじょうに苦しんでいました。誰かが、わたしの骨を

砕こうとでもするみたいでしたし、そうかと思うと、わたしを窒息させようとし、あるとき

は、わたしの中から火がもえ出すような感じでした。こんなふうに、あいつはわたしの

中であばれまわったのです。あの神父さまが祈りつかれて、止めるか、あるいは、聖

水を使わないで出かけていくときだけ、わたしはおちつきました。わたしとしては、わ

たしの中にいるあいつが、わたしの大敵だと分かっているのに、“あくまばらい”のあ

の神父さまが家に来るのを望んでいなかったのです。それでわたしは、大声をあげ

て、“そいつを入れるな、入れるな、決して入れてはならない”とくりかえしていたので

す。あいつはまた、わたしの中で、かれのことを豚といい、“あの豚が帰った最後、わ

たしはおまえを殺して、連れて行くぞ”とおどしていました。大学の同級生のひとり

が、この“あくまばらい”に何回も立ちあっていました。かの女は、あとで、そのときの

ことをこう話してくれたのです。“あのときのあなたの顔の恐ろしかったこと! まる

で野獣みたいでした。あなたは、もうれつに体をくぬらせ、暗い目をしていましたよ、

そして何をみているのか分からないほど空をさまよい、白い目をむいて、とても恐

かったわ”と。あのときに、わたしがはいた言葉ほど、ひどい言葉はなかったといい

ます。それに、わたしは、釘や鉄の破片、かみの毛のからんだ塊のようなもの、

割れたガラスの破片まで、吐き出し、不思議にも口は傷つかず血を流すことがな

かったといいます。ある日、あの神父さんが、この野獣に命令をくだしました。

“なぜわたしをみただけで、それに祈りをとなえるのを聞いただけで、そんなにあば

れるのか、さあ答えろ” そのときの返答を、わたしもよく聞くことができました。

“わたしは、この人のなかに、自分の家にいるかのようにしていたいからだ。わた

しは、ここに、かくれていたいんだよ、それなのに、あなたは、わたしをあかるみ

に出そうとするではないか。まさにわたしのしたくないことだ。わたしは、知られた

くないんだ、あなたの命令なんか従いたくないよ、もう、いいかげん出てうせろ、

豚め! いつか復讐をするぞ、かならずするからな”と。ほんとうに、あの神父様

は、あれからまもなく、もう少しで奇妙な自動車事故にあるところでしたが、やっと

のことで九死に一生を得たそうです。ああ、なんと苦しみにみちた三年間だった

ことでしょう。あの神父様は、ついにわたしを救うのに成功しました。あのときの

ことを、わたしは何一つおぼえてはいませんでした。ただ感じていたのは、たい

へんな疲れだけでした」。


目次

あくまの頭をふみくだく聖母

1.序にかえて(人の疑いは、神の教えをくつがえし得ない)


2.教皇パウロ6世の演説(1972年11月15日)

“わたしたちの父よ”悪からお救いください

聖書の教え

誤謬をまきちらす、かくれた存在

あくまはじっさいに働いている

どのようにして守られるか?

大へんな論議


教皇ヨハネ・パウロ2世のことば(1986年)

A.神にそむいた天使たちの亡び

B.悪魔に対するキリストの勝利


4.あくまとのインタビュー

第1の出会い

第2の出会い

第3の出会い

第4の出会い

第5の出会い

第6の出会い

第7の出会い

第8の出会い

第9の出会い

第10の出会い

この事件の結末

結論としての注

聖ミカエルの役目

聖ミカエルに対する祈り




エクソシスト(悪魔祓いを行なうカトリック司祭)の文献・映像

夜明けの詩(厚木市からの光景)

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

美に共鳴しあう生命

神を待ちのぞむ(トップページ)

天空の果実