「ラマナ・マハリシの教え」

ラマナ・マハリシ著

山尾三省訳 めるくまーる社 より





ラマナ・マハリシの言葉


言葉がどうやって起こってくるのか考えてみよう。抽象的な知識がある。だが、そこか

らエゴが生じる。そのエゴはつづいて想いを生じさせ、想いは語られる言葉になる。言

葉はだから、原初の源の曾孫にあたる。そのような言葉が、ある効果を生み出しうるな

らば、考えてもみよ、沈黙をとおして語ることは何層倍も強力なものではなかろうか!

けれども人々は、この単純な裸の真理、彼らの日々の真理、つねにそこにあり永遠の経

験であるものを理解しない。この真理とは、自己の真理のことである。自己を知らない

人がどこにいよう。それなのに人々は、この真理を耳にすることさえ好まない。彼ら

は、彼方にあるものや天国、地獄や再生については熱心に知りたがる。・・・・・・

彼らは不思議を愛しており、真理を愛してはいないので、宗教は、結局は彼らを自己

の周辺に連れてゆく程度のものしか提供することができない。どのような方法を採るに

せよ、あなたは結局は自己に帰ってゆかねばならない。そうであるなら、なぜここで

今、自己の内に住まないのか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





どんな重荷がかかろうとも、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを

動かしてゆくのに、われわれはなぜその力に身をまかせないのだろうか。なぜわれわれ

は、何をどうすべきかと思い悩み、何をどうすべきではないかを思い悩むのだろうか。

われわれは、汽車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。汽車に乗ってまで

も、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心

しなさい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





人は、深い帰依の感覚なしに、ただ機械的に表面的に神の御名を使ってはならない。

神の御名を使うためには、人は熱望と率直な自己放棄をもって求めねばならない。

その放棄の後にのみ、神の御名がその人とともにある。・・・・・・・・・・・・





あなたの務めはは、在ることであり、これであったりあれであったりすることではない。

「私は私であるものである」ということが、すべての真理の要諦である。その方法は

「静かであること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか。それは「あなた

自身を打ち壊す」ことを意味する。なぜなら、すべての名前と形が困難の原因だからで

ある。「私-私」が自己である。「私はこれこれである」というのがエゴである。「私」が

「私」のみを保ちつづけるとき、それは自己である。それが突然に脇道にそれて「私

はこれであり、あれであり、これこれである」と言うとき、それはエゴである。・・





沈黙は最も力強い仕事の形である。聖典がどんなに広大で、どんなに力をこめて説い

ているとしても、結果においてはその力は衰える。静寂であり恵みであるグル(師)は、

すべてに浸透する。この沈黙は、すべての聖典を集めたものより広大で、力強いもの

である。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





自己実現した霊の力は、すべてのオカルトの力より遥かに強力なものである。聖者

の内にエゴがなければないほど、彼にとって「他者」というものはない。あなたに与え

られうる最高の利益とは何だろうか。それは幸福である。幸福は平和から生まれる。

平和は障害物のないところにだけ行きわたることができる。障害は、心の内に起こる

想いによって生じる。心そのものが空になるとき、完全な平和があるだろう。人は、そ

の心を絶滅しないかぎり、平和を得ることも幸福を与えることは出来ない。心を持たな

い聖者にとって「他者」というものはないにもかかわらず、彼の自己実現という事実そ

のものが「他者」をじゅうぶんに幸福にするのは、そういう理由からである。・・・





これはまた、あなたのことでもある。本当は、あなたがみじめで不幸であるべき理由は

何もない。あなたは自分で、本来無限定の存在であるあなたの性質に制限を課して

しまっている。そして自分が限定された生きものにすぎないことを泣いている。あなた

は、そのありもしない束縛を越えるために、どんな方法でもいいからサーダナ(修行)

をしなさい。けれども、あなたのサーダナそのものが束縛性を帯びているのなら、束縛

を越えることなどできるものではない。私がこう言うのだから、あなたは本当は無限定

の純粋な存在であり、絶対の自己であると知りなさい。あなたはつねにその自己であ

り、自己以外の何ものでもない。それゆえに、あなたは、本当はけっして自己につい

て無知ではありえないのである。あなたの無知は、単なる形式上の無知であり、いな

くなった十人目の男についての十人の愚かな者と同じような無知である。嘆きをもた

らしたものは、この無知である。真実の知識とは、あなたに新しい存在を作り出すの

ではなくて、ただあなたの「無知な無知」をぬぐい去ることであると知りなさい。至福は、

あなたの本性につけ加えられるものではない。それはただあなたの真実で自然の状態

として、永遠で不滅の状態として現われる。あなたの嘆きを乗り越える唯一の道は、

自己を知り自己であることである。どうしてこれが到達不可能なことだろうか。





マウナ(沈黙)はイシュワラ・スヴァルーパ(神の自己)である。それゆえ聖典は

「至高のブラフマンの真理は、沈黙の言葉によって現される」と言っている。





放棄そのものが、力強い祈りである。

あなたが、神はあなたがしてほしいことのすべてを為してくださると信じるなら、

あなた自身を彼に放棄せよ。さもなくば、神のことはさておき、あなた自身を知るがよい。





熟していない心が彼の恵みを感じないとしても、それは神の恵みがないことを

意味してはいない。なぜなら、神がときどき慈しみがなくなるということは、神で

あることを中止することだからである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 





本書 あとがき 山尾三省 より引用


ティルチュジーの村からマドゥライのハイスクールに進み、レスリングやボクシング

や水泳が大好きな少年だったラマナに、あるとき、不意打ちのように突然死の恐怖

が襲ってきた。死の恐怖は彼を大変に苦しめた。しかし彼はその恐怖を正面から

見つめ、床に体を伸ばし、自ら想像上の死に入り、呼吸すら止めて死を体験した。

その体験の中で彼は、死ぬものは自分の肉体であり、自分の自己は死ぬはずの

ものではないことを知った。17歳のラマナは引きつづき仮死状態にありつつ、サマ

ーディに入り、その中で自分の真の源泉である自己、ヒンドゥー教がアートマンと

呼ぶものに融合したもののようである。これがただ一日で起こったことなのか、数

日あるいは数週間の内に起こったことなのか定かではないが、この体験を通して

ラマナは以前とはすっかり違った少年になってしまった。まもなく彼は、「私は、私

の父を尋ねて、彼の命令に従ってここから出発しました。これはただ、高潔な仕事

への船出にすぎません。ですから、誰もこのことを悲しむ必要はありません。この

計画にお金は要りません」という書き置きを残して、学校の寄宿舎を出、そのまま

ティルヴァンナマライの寺院に向かった。(中略)ラマナ・マハリシの教えの中で、

最も特徴的なものは「沈黙」である。本書の中にも「沈黙」はひとつの本質的なテー

マとして提出されている。実際にラマナ・マハリシを訪ね、その最初の西洋人の弟子

となったポール・ブランドンの記述によれば、マハリシの瞑想場では終日、針一本落

落ちる音でも聞こえるほどの静寂が支配していたそうである。マハリシの本質は「沈

黙」にあり、言葉にない。訪れる人が問うやむにやまれぬ質問に対して、わずかな

ガイダンスとして出てきた言葉が、記録されてこのように残されたにすぎない。本書

を読まれる方は、ここに記されている言葉はまことに氷山の一角であり、真理は「沈

黙」の奥にあることに心していただきたいと思う。ラマナ・マハリシにあってもうひとつ

の特徴は、彼が「知」の人であったことである。思弁ではない、血潮の流れる「知」

を、ヒンドゥーではジュニャーナと呼ぶが、マハリシこそそのジュニャーナの人であ

り、「知」の人を呼ぶもうひとつの呼称リシ(賢者)の名にふさわしい人であった。

最初に紹介したもう一人の神人ラーマクリシュナが、愛(バクティ)の人であったこ

とと対比すると、興味は深く尽きない。一人の人は「愛」によって神と合一し、一人

の人は「知」によって神と合一したのである。「知」は知性ではない。まして知識で

はない。知性と知識と知恵の奥にひそむ根本的なあるものをジュニャーナ、すなわ

ち「知」と呼ぶ。    


訳者の山尾三省氏は現在屋久島に住んでおりましたが、2001年8月28日、

屋久島にて亡くなりました。著作として「アニミズムという希望」、訳書として

「コヨーテ老人とともに アメリカインディアンの旅物語」などがあります。



目次

 シュリ・ラマナと現代人へのメッセージ C.G.ユング

私は誰か

私は誰か

霊的な教え

教え(ウパデーシャ)

実践(アビャーサ)

経験(アヌバーヴァ)

達成(アールダー)

マハリシの福音

仕事と放棄

沈黙と孤独

心の抑制

バクティ(帰依)とジュニャーナ(知識)

自己と個我

自己実現

グルとその恵み

平和と幸福

自己探求

サーダナ(修行)と恵み

ジュニャーニ(知識者)と世界

ハートは自己である

アーハン(私)とアハン・ヴリッティ(私であること)


あとがき





2012年7月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)

写真はNASAより引用



東京で何をしていいか彷徨っていた時、駅で若い女性に声をかけられ行った先が統一教会の

信者が生活する施設だった。そこで僕は20代後半くらいの医療関係の雑誌をを編集している

女性と会い、一年間くらいここに通って彼女といろいろなことを話した。世間で問題になりつつ

ある時期だったが、彼女は僕の考えをじっくり聞いてくれたように思う。



独りぼっちで何かを求めていた僕は「あーあ、こんな女性がいつも近くにいてくれたらいいな」と

思ってばかりで、統一原理など聞いても全く頭に入ってこなかった。ただ、彼女が大勢を前にし

て統一原理を話す眼差しや口調は、僕と話すときの彼女とは別人だった。



就職したとき、ある友人が高橋桂子さんの講演を聴きにいかないかと誘われた。彼女は自身

のことを「キリストブッダを統合した上の次元にいるもの」という話を聞きながら、またしても

僕は「あーあ、こんな綺麗な女性と結婚できたらいいな」と思って聴いていた。



まあ男性だったら女性にこのような想いを抱くのは極自然なことなのだが、何が彼女たちから

自分を離したのかを思うと今でもはっきりしない。



ただ母の存在神秘体験(今思うと疑問だが)かも知れないと思うことがある。母親に関しては、

どんなに宗教家が美辞麗句を並べても、母の子への無償の愛という行為に勝るものはない。



それと奄美などの自然、美しいものでありながら怖い存在でもあった自然。それらの記憶が道を

外れそうになった自分をあるべき所に戻そうとしたのかも知れない。



様々な宗教、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは「さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて

同一の真理の種々ことなった反映にすぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです」と言い、インド

の偉大な師であったラマナ・マハリシが様々な宗教について問われたとき沈黙で応えたように、多

くの人も宗教はどこかで結びついていると感じていても、その源泉ははっきりとはわからない。



恐らく何千年、何万年先でないとその姿は明らかにならないような気がするし、それだけの時間を

かけなければいけないものだと思う。



私が若い頃出会った女性、もう高齢だとは思うが「幸あれ」と願いたい。



☆☆☆☆



写真は、地球から約3000光年離れた位置にあるキャッツアイ星雲(NGC 6543)の姿です。



鋭い猫の目を思わせることからこの名前がつけられましたが、実際は死にゆく星から放出された

ガスとちりの造形です。



不思議なことにこの放出は1500年ごとに現れ、それが同心円状の構造やジェットに見ることができ

ますが、何故この質量放出が1500年ごとに繰り返されるのかまだわかっていません。



☆☆☆☆




(K.K)









沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

天空の果実

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