長崎・平和公園・平和祈念像 1998年1月6日撮影
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私の紹介 2002.12.4 1957年12月長崎県佐世保市に生まれる 3歳までしかいなかったので想い出はほとんど残っていませんが、独身時代に長崎各
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奄美大島で過ごした幼稚園時代の想い出 青い海と蘇鉄の赤い実そしてさとうきび畑。当時はおやつなんてない時代だったから
当時の僕は古仁屋のカトリック幼稚園に通っていたけれど、よくお漏らしをして先生 このカトリック幼稚園の卒業記念に聖母マリアの像を頂いたが、子どもながらにそ
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鹿児島・宇宿で過ごした小学校時代 宇宿小学校のホームページより引用
宇宿小学校の校庭に大きな木があったけれど、まだあるのかな。木造校舎が壊さ
学校でも楽しく遊ぶ仲間と別に奇妙な友達が出来た。名前はS君といったかはっ
母親に関してだけど、最近自由な時間が持てて、国内外の高い山に登っている。
吉野小学校では奄美で一緒だった栄多敦君がいた。実は父親同士が海上保安
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宮崎・日南で過ごした高校時代 一人の女性に恋した時代。名前を海老原さんといった。とてもふっくらした女性
高校時代、今でも私の宝物になっている一冊の本と出会った。それは小林有方
高校時代の親友は坂元君だった。お父さんは漁師だったかな。この時も僕はどもっ
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尊敬する人・・・・母親、それからこのページに紹介している人たち 好きなこと・・・・いっぱいありすぎて困ってしまう。 嫌いなこと・・・・ゴルフかな。環境破壊の典型的なもの。ゴルフに夢中になっていながら 幸せに感じたこと・・・・恐らく死ぬ間際に本当に幸せだった時代のことを想い出すと思う。 好きな漫画など・・・・「鉄腕アトム」、「ひょっこりひょうたん島」この二つは僕の宝物。 好きな映画はこちらで、愛用品(癒しの森)はこちらで紹介していきます。 Habbo(ハボ)では、「探検君」という名で出ていました。ここで出会った皆さん、
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2016年5月18日撮影 樹齢2000年超の大楠
2018年2月26日 88歳
2012年10月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 もうすぐ83歳になる母と、江の島の夕日をじっと見つめていた。 母の背中から伝わるいろいろな想いの重みを私は忘れない。 ☆☆☆☆ |
2013年10月14日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 本日14日のお月様と17時頃の光景です。 一年前に九州から母が来たとき、双眼鏡で木星の衛星たち(ガリレオ衛星)を見てもらったが、これらの配列が 裸眼でも見えていると言った。 83歳になる母の視力がどれほどのものなのか詳しくは知らないが、双眼鏡で確認できる衛星の配列が、何も 使わない裸眼で見えるとは信じられず耳を疑った。 ただ、中国の斉の天文学者・占星術師の甘徳が、ガリレオが望遠鏡で木星の衛星を見つける遥か2000年も 前(紀元前364年)に木星の傍らにこれらの星があることを記録していることを考えると、人類の歴史上、名は 知られていない沢山の人の目に見えていたのかも知れない。 月のクレーター、これも双眼鏡でないと確認できないが、木星の衛星と同じで、月にはでこぼこしたものがある と見ていた人もいたのだろう。 科学の進歩により今まで見えなかった実体が明確にわれわれ人類に映し出されつつある一方、心はどう変化 しているのだろう。 今日は双眼鏡で月を見ながら、その光に吸い込まれてしまっていた。 ☆☆☆☆ |
2013年8月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 フィリピンでの出会い もう34年位前になりますが、フィリピンを訪れたことがあります。 夜学の学生さんや神父さん、そしてシスターたちとの旅でしたが、この時の出会いはまだ私の 中で消化することができないでいます。 フィリピン奥地に生きる先住民が森を奪われていく姿、当時のマルコス政権に対して地下での 抵抗運動をしている方たち、ハンセン病の隔離施設の女性たち、そして日本兵に両親を殺さ れた青年との出会い。彼はこう言いました。 「私はあなたたち日本人が来ると聞いて憎しみを押さえることが出来ませんでした。しかし、 神に祈ってようやくここへ来ることができました」、と語る彼の目に憎しみはありませんでした。 同行していた女性の方達は涙を流していたのですが、情けないことに当時の私はどう捉えて いいのか戸惑うだけでした。 海上保安官になる前の父は、終戦後に商船の機関士としてフィリピンへ行ったのですが、 彼らの日本人を見る視線が怖かったと話したことを思い出します。 その後、フィリピンの子供たちへの経済的な支援を続けてきたのですが、それでも心にひっか かっているこれらの出会いは、私の中で時が止まったままになっているのかも知れません。 |
2014年10月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 私自身、これまでの人生の中で、他の人にいいことをしたと思えることはあまりない。 唯一の例外だと思えるものは、小学4年生の頃のこと。当時私は鹿児島の宇宿小学校にいたのだが、 同級生の彼がどのように生きているのか思い巡らすことがある。 昭和40年代前半は裕福な家も次第に増えていく時代だったが、彼は白髪があり、学校では一人ぼっち で身なりもみすぼらしかった。 私は当時、クラスの人気者とは言えないものの、遊び好きな陽気な性格で友達もたくさんいたが、 何故か彼のことが気になっていた。 ある雨の日、彼を傘にいれて彼の家まで送っていったが、とても家とは呼べないような4畳半も 満たない掘っ立て小屋で、父親しか見なかった。 それ以降、彼を自分の家に呼んだり、れんげ草の広がる道端で家から持ってきた絵本を一緒に 読んだりしたが、絵本を見たときの彼の瞳は大きく見開いているように感じた。 その絵本はロシアの民話「石の花」だったような記憶がある。 それから直ぐに私は転校したため、その後の彼ら親子がどのような生活を送っていたのか知ら ないし、名前も「白木君」とかすかに覚えているが、定かではない。 ただ、絵本を見たときの彼の驚きに満ちた瞳を忘れられない。 彼にとって私の行為は迷惑だったかも知れない。 でも、私にとっては彼と過ごした時間は今でも貴重だと感じられてならない。 |
2014年10月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 皆様のすぐそばに、いつも笑いがありますように。 以前にも話したことだが、フィリピンに2週間ほど滞在したことがある。 そこでは独裁政治だったマルコス政権を打倒しようとする人々。 森に生きる先住民で、政府の政策によりその生存範囲を奪われる人々。 両親を日本兵に殺され、許すことへの祈りによって、会いにきてくれた男性。 スラム街での貧しくとも屈託のない子供たちの笑顔。 ハンセン病の隔離病棟での女性たちの笑顔。 これらの貴重な出会い、あれから30年近く経とうとしているのに消化しきれない自分がいる。 その中でも天使と出会ったと感じたのは、ハンセン病の隔離病棟での短い時間での触れ合いだった。 昔は「らい病」と恐れられた病気で、女性だけが収容されている病棟に入ったのだが、何を言えばわからなかった。 恐らく幼稚な仕草をしたためだと思うのだが、いつの間にか彼女たちに囲まれ笑われていた。 そして陽気な国民性にもよると思うのだが、彼女たちの笑顔に、心にあった壁は取り除かれていた。 無邪気な笑い、故郷や家族から引き離された人々が見せる笑顔。 どのような過酷な状況に置かれても、違った世界を垣間見させてくれる笑いに人は身をゆだねる。 天使がどのような目を持っているのか私は知らない。 しかし彼女たちの悪戯っぽい目の輝きは、乳児が生まれて初めて微笑むように、光に満ちていた。 |
2013年8月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) フィリピンのスラム街の子供たち 34年位前の写真ですが、子供たちは貧しくても明るくたくましく生きていました。 |
2013年1月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 本日1月9日、夜明け前の光景です。 冬の思い出、私が小学1年の頃だったか、火鉢の沸騰したヤカンを足に落としたことがあった。 足が真っ赤に腫れ、母は私をおんぶして遠くの病院まで連れて行ったが、当時は救急車など なかったのだろう。 鹿児島市内に火傷に関しては名医がいるというので、その病院に行ったのだが、そのお陰で 大きな火傷の跡は残っていない。ただ、おんぶされて何度も病院に通ったとき感じた母の背中 の温もりや想いは、私の心に刻まれている。 児童虐待など、母や父の想いを感じられず育った子供は、その穴を、長い人生をかけて何ら かの方法で埋めていかなければならない。昔の人が言った「三つ子の魂百まで」は、幼いころ の性格は年をとっても変らないことを意味しているが、自我が確立しておらず、無意識の中に いる3歳までの時期は、その後の長い人生を形作るといってもいいのかも知れない。 異論はあると思うが、少なくとも3歳までは周りの人たちの助けを借りながら、親の想いを浴び つづける満たされた時期であってほしい。 ブッダ、日本各地に赴き12万体の仏像を彫った円空、そして私が尊敬する哲学者・梅原猛さん は幼いときに母親を亡くした。この深い喪失感は体験した者だけしかわからないのだろう。ブッダ、 円空、多くの人々を救ってきた彼らの光は、私には垣間見ることさえ出来ない深みから発せられ ているのかも知れない。 ☆☆☆☆ |
2013年3月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) 今年1月上旬に撮影された桜島の噴火(写真はNASAより引用) 私は小中学のころ、鹿児島市内(宇宿、紫原、吉野)を転々としたが、暗い青春時代の中にあって、 桜島やその噴火にどれだけ希望をもらったかわからない。 高く高く空に昇る噴煙は、溺れそうになっていた私の心をも押し上げ、違った世界があることを教え てくれた数少ない存在だった。 |
2012年7月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 写真はNASAより引用 東京で何をしていいか彷徨っていた時、駅で若い女性に声をかけられ行った先が統一教会の 信者が生活する施設だった。そこで僕は20代後半くらいの医療関係の雑誌をを編集している 女性と会い、一年間くらいここに通って彼女といろいろなことを話した。世間で問題になりつつ ある時期だったが、彼女は僕の考えをじっくり聞いてくれたように思う。 独りぼっちで何かを求めていた僕は「あーあ、こんな女性がいつも近くにいてくれたらいいな」と 思ってばかりで、統一原理など聞いても全く頭に入ってこなかった。ただ、彼女が大勢を前にし て統一原理を話す眼差しや口調は、僕と話すときの彼女とは別人だった。 就職したとき、ある友人が高橋桂子さんの講演を聴きにいかないかと誘われた。彼女は自身 のことを「キリストとブッダを統合した上の次元にいるもの」という話を聞きながら、またしても 僕は「あーあ、こんな綺麗な女性と結婚できたらいいな」と思って聴いていた。 まあ男性だったら女性にこのような想いを抱くのは極自然なことなのだが、何が彼女たちから 自分を離したのかを思うと今でもはっきりしない。 ただ母の存在と神秘体験(今思うと疑問だが)かも知れないと思うことがある。母親に関しては、 どんなに宗教家が美辞麗句を並べても、母の子への無償の愛という行為に勝るものはない。 それと奄美などの自然、美しいものでありながら怖い存在でもあった自然。それらの記憶が道を 外れそうになった自分をあるべき所に戻そうとしたのかも知れない。 様々な宗教、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは「さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて 同一の真理の種々ことなった反映にすぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです」と言い、インド の偉大な師であったラマナ・マハリシが様々な宗教について問われたとき沈黙で応えたように、多 くの人も宗教はどこかで結びついていると感じていても、その源泉ははっきりとはわからない。 恐らく何千年、何万年先でないとその姿は明らかにならないような気がするし、それだけの時間を かけなければいけないものだと思う。 私が若い頃出会った女性、もう高齢だとは思うが「幸あれ」と願いたい。 ☆☆☆☆ 写真は、地球から約3000光年離れた位置にあるキャッツアイ星雲(NGC 6543)の姿です。 鋭い猫の目を思わせることからこの名前がつけられましたが、実際は死にゆく星から放出された ガスとちりの造形です。 不思議なことにこの放出は1500年ごとに現れ、それが同心円状の構造やジェットに見ることができ ますが、何故この質量放出が1500年ごとに繰り返されるのかまだわかっていません。 ☆☆☆☆ (K.K) |
2012年3月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年3月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2013年5月30日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 ダンテ「神曲」(挿画 ギュスターブ・ドレ 訳・構成 谷口江里也 JICC より写真引用) 多くの男性にとって、初恋の女性は永遠の恋人かも知れません。 ダンテとベアトリーチェは挨拶の言葉しか交わしたことがありませんでしたが、ダンテは彼女に恋焦がれます。 結局彼女は他の男性と結婚し24歳の若さで亡くなりますが、ダンテはその痛手を癒すため、彼女を「神曲」の中に 登場させ永遠の存在として描こうとしました。 私の本当の初恋は高校時代の同じクラスの女性でしたが、ダンテと同じように挨拶をするくらいで、それ以上の 言葉は出せませんでした。 初恋、それは切ない思い出と同時に、当時のみずみずしい感覚を呼び覚ましてくれるものかも知れません。 ところで、挿画を描いたギュスターブ・ドレですが、最初に出会った「ドン・キホーテ」と同様に「神曲」の挿画も 感銘を受けるものでした。 ☆☆☆☆ それ浮世の名声は、今こなたに吹き、今かなたに吹き、そのところを変えるによりて名を変えうる風の 一息にほかならず。 ダンテ ☆☆☆☆ |
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2013年9月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 横浜・山下公園のイチョウ並木の銀杏と大桟橋(9月12日撮影) 昨日・本日と台風の影響で、夜明けは雨でした。 この日、朝早く起きて山下公園や大桟橋を散歩したのですが、平日にも関わらず多くの人が 散歩やジョギング、そして体操をしていました。 九州から横浜に来ていた母(83歳)・兄と共に、潮風を受けて海や船、そしてイチョウの緑に 囲まれての散歩は清清しかったです。 ☆☆☆☆ |
2014年4月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 (大きな画像) 横浜大桟橋にて(2013年7月2日撮影。遠くに見えるのは巡視船) 4月18日から21日までの夜明けは小雨でした。 父は海軍兵学校に入るだけの実力(最後の家族調査で落ちる)をもった人で、戦後に海上保安庁に入ったが、 家では「海の男」という匂いをあまり感じたことはない。 例外として、深夜に救難信号が入ると、飛び起きて船に向かう姿に憧れもしたし、子供心に自分もそうなりたい と思ったものだ。 今回の韓国の客船沈没事故、「海の怖さ」を最も知っているはずの乗務員たちの言動を見ると、社会の風潮が 彼らから「海の男(女)」の感性を奪ってしまったのかも知れないと感じてしまう。 激しい競争と、その結果としての格差社会。 不謹慎な言い方かもしれないが、そのような社会の空気を吸い続けてきた人間にとって、乗客より先に脱出 (女性を含めて数名の乗務員は異なる選択をした)したことは、彼らにとって自然な反応だったのだろう。 単に個人や会社の責任だけに終始してしまう、それは愚かなことだと思う。 そして日本も、そうならないとは断言できないのかも知れない。 亡くなった方のご冥福を祈るとともに、生存者がまだいるという希望を捨てないで救助してくださればと願います。 |
2015年10月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 もう30年近く前の話。 勤めていた職場の部長はその分野では有名で、上層部に対しても顔がきく人だった。 部長は麻雀や野球が大好きで、若手や中堅の職員の何人かは率先して部長の趣味に付き合っており、 その多くが実力もあり本社に呼ばれた。 中堅の職員の一人は部長のイエスマンという人で、本社へと異動になった。 それから1年ぐらいしてから、この中堅の職員が電車内でスリをし逮捕されたのを知った。懲戒免職だった。 この逮捕された職員とは仲が悪かった私の上司。 自分の意見を正々堂々と言う、上からは嫌われているが部下の面倒見がいい人、その上司からその後 のことを聞いた。 職を失い、すがるように私の上司に電話をし、酒を飲みながら涙を流している相手に上司は「ガンバレ」と 強く言ったと話していた。 絶望に陥ったときに、頼る人。 逮捕された職員にとって表面上は邪魔な存在だったであろう上司、しかし自分と異なる世界に生きている 人に救いを求めたのかも知れない。 私が仕事のことで上司に嫌な思いをさせたこともあるが、その後も叱ったり裏表のない態度で接してくれた。 前に築地市場で働きながら学校へ通っていた時のこと、口が悪く仕事はきついが、裏表のない人が多かった場。 今でも、何故かそのような人間・場に憧れてしまう。 悪意なき単純さ。それは苦しい環境にいる時こそ、宝石のように光り輝くものかもと思う。 |
2015年11月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (写真はNASAより引用) (大きな画像) このような写真を見ると、海の近くのキャンプ場で過ごした一時を思い出す。 私自身、小さい頃からキャンプなど行ったことがなかったが、山歩きを通して自然とキャンプにも関心がいったんだと思う。 千葉県・大原、そこがいつものキャンプ場だった。 10年近く同じキャンプ場、海が近くにあり星も綺麗。お盆の時期を外して行ったので人もさほど多くない。 朝早く起きたときは、キャンプ場すぐ前の砂浜で朝陽を拝み、海では古式泳法で泳ぎ、夜は双眼鏡で星空を見る。 毎年行っていると、近くの魚屋さんにも覚えられ、風邪気味だと話したら薬をもらうなど人の繋がりも心地よいものだった。 大原オートキャンプ場は2003年に32年の歴史に幕をおろし、その後「大原オートキャンプインそとぼう」として生まれ変わったらしい。 キャンプ場から木のトンネルを通って海に行き、帰る日は海に向かって「また来るよ」と叫ぶ。 海はいいものだ。波打ち際で子供のように波と鬼ごっこをし、じっと波音に耳を立てることで、何かを流し去ってくれる。 アメリカ先住民(インディアン)の好きな言葉のひとつ。 ☆☆☆ 「子供の訓練は、じっと座っていなさい、そしてそれを楽しんでごらん、という教えから、はじめられるものである。 子供たちは、嗅覚を敏感にして、なにも見るものがないところになにかを見たり、 まったくの静寂のなかに、じっとなにかを聞き取ったりするように、と教えられた。 じっと座っていることのできない子供は、ちゃんと成長していない子供だ」・・・ルーサー・スタンディング・ベア ☆☆☆ まだまだ私もちゃんと成長していない子供だ、と実感させられる。 |
2015年11月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 アイルランド(写真は他のサイトより引用) 22歳の時に何気なく取ったアイルランドの写真集、思えばそれから写真や写真集に惹かれていったのかも知れない。 アイルランドと言えばIRA(アイルランド共和軍)によるテロしか思い浮かべなかったが、大地や人々の息づかいが 聞こえてくるような写真に、私自身の眠っていた遺伝子を呼び覚まされるような不思議な感覚を持った。 ケルト人の宗教は自然崇拝の多神教であり、エンヤやケルティック・ウーマンの音楽を通しても、澄みきった風の ささやきが聴こえてくる。 (大きな画像) |
厚木市から見た「夜明け」の写真です。 2016年4月6日の夜明け(4時53分〜5時37分)の光景ですが、5日ぶりの朝陽です。 31年前の今日、カトリック山手教会で洗礼を受け、今では疎遠になってしまった教会。 いつか三位一体の互いを与え尽くさずにはいられない意味を感じられたらと思います。 ☆☆☆ |
2016年5月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 2016年5月18日の夜明け(4時19分〜50分)の光景です。伊豆・伊東より撮影 ◎音無の森「緑風園」の露天風呂 地元の方も入浴しに来られ、宿泊料も安いです。 ◎伊東市 「音無神社」 源頼朝と八重姫の悲恋の場所だったことを初めてこの地で知りました。 「緑風園」の隣にこの神社があります。 ◎伊東市 東郷記念館(東郷平八郎の別荘) 小・中学校を鹿児島で過ごしましたが、鹿児島の人にとって、 島津斉彬、西郷隆盛、東郷平八郎は地元の英雄でした。 私自身、彼らのことは詳しくは知らないのですが、この伊東に東郷平八郎の別荘があるとを、 伊東を散策して初めて知りました。 この記念館で解説してくださったボランティアの方の話を聞くと、武士道の精神を貫いた人だったのではと感じています。 写真は、内閣総理大臣だった犬養毅が東郷平八郎に贈った囲碁盤で、収納箱の裏に、犬養自身の字が書かれています。 この別荘で東郷は奥さん(お手伝いとして家に来ていた方)と、二人で良く囲碁をしていました。 東郷の囲碁の腕前はそれほど上手くはなかったのですが、奥さんと文句を言い合いながら対局だったそうです。 お互いに真剣だったんでしょうね。 この東郷記念館は、日曜日・祝日・第一・第三土曜日・第三火曜日のみ開いております。 ◎伊東市 旧木造温泉旅館・東海館(伊東市指定文化財)、土・日・祝祭日は入浴することが出来ます。 ◎熱海市 來宮(きのみや)神社の大楠 樹齢2000年(本州では一番の大きさです) この旅で最も感銘を受けました。 來宮(きのみや)神社 大楠・第2楠 ☆☆☆ |
2011年5月30日撮影(七沢森林公園・ふじだな公園にて)