長崎・平和公園・平和祈念像 1998年1月6日撮影
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 私の紹介 2002.12.4 

1957年12月長崎県佐世保市に生まれる

3歳までしかいなかったので想い出はほとんど残っていませんが、独身時代に長崎各

地の天主堂を旅したことがあります。その中で一番心に刻まれた天主堂が、佐世保か

ら船で渡ったところにある黒島教会でした。独身の僕はこの時、将来の伴侶と出会っ

たら必ず彼女を連れてもう一度来ようと固く心に誓いましたが、数年後、彼女(現在の

妻)と出会いこの島に降り立っていました。神が二人の結婚を祝福していると感じたの

はこの時で、「見果てぬ夢」という散文詩にこの時のことを綴っています。彼女と旅行

に行った、バチカン、アッシジについては「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」を見

ていただけたらと思います。


 
 


奄美大島で過ごした幼稚園時代の想い出

青い海と蘇鉄の赤い実そしてさとうきび畑。当時はおやつなんてない時代だったから

子どもたちは近くのさとうきび畑に行き、自分で刈って食べた。美味しかった。でも他

の人の畑だからといって、怒られたこともないし、悪いことをしているという自覚もな

 かった。奄美で怖かったのは毒蛇の「ハブ」で、一人で勝手に山に入ってはいけない

とよく言われた。森を大事にする文化やインディアンの社会では、脱皮を繰り返す蛇

は再生のシンボルとして神聖な生き物として扱われていたけど、奄美の人たちも蛇

が森を守っていると考えていたんだ。


当時の僕は古仁屋のカトリック幼稚園に通っていたけれど、よくお漏らしをして先生

だったシスター達に怒られたっけ。僕にとってシスターたちは少し怖い存在だったけ

ど、ロジャース神父(?)さんは楽しく英語を教えてくれた。その当時の僕は先生に絵

が上手とよく褒められたけど、いつも書く絵がゼロ戦だったような気がする。何でゼロ

戦なのか今では想いだすことは出来ないけれど、戦いに憧れていた時期だったのか

も知れない。・・・「悲しみのマリア」の島 ある昭和の受難 小坂井澄・著を参照され

たし。

このカトリック幼稚園の卒業記念に聖母マリアの像を頂いたが、子どもながらにそ

の暖かな眼差しと微笑みに見とれてしまった。この想いは今でもはっきりと僕の中

に生きている。ところで、それから十数年後、マルコス政権下のフィリピンを旅行し

た際に同行していた二人のシスターが奄美の教会にいたことがあり、あのロジャー

ス神父(?)さんは元気であることを教えてくれた。思いがけない知らせが嬉しかっ

た。この幼稚園の卒業でもらった聖母マリアの像はその後壊れてしまったけど、

今僕の部屋に置いてあるのは、フィリピンの刑務所にいる人が作った聖母マリア像

だ。文明的なものはあまり持たない土地だったけれど、奄美の自然が友達だったし、

幼稚園時代をこの奄美で過ごしたことは大きな幸せだった。ありがとう奄美、いつか

里帰りしたい。


 


鹿児島・宇宿で過ごした小学校時代

宇宿小学校のホームページより引用


宇宿小学校の校庭に大きな木があったけれど、まだあるのかな。木造校舎が壊さ

れるまえに僕は入学した。とにかくよく友達と遊んだ。当時の僕の親友は立園君で

楽しかったな。小・中・高校を通して一番楽しかったかもしれない。僕の家の近くに

は洞窟が沢山あってよく友達とか一人で探検に行ったものだ。また家の周りの畑

は収穫が終わると一面れんげ草が咲き乱れており、それは美しかった。僕がま

だ1年生だった頃かな、母が父に殴られ一人風呂場で泣いていた。その時僕は母

親の背中をさすることしか出来なかった。この時感じた悲しみはずっと僕の中で消

えることのないものとして残ってきたように思う。


学校でも楽しく遊ぶ仲間と別に奇妙な友達が出来た。名前はS君といったかはっ

きり覚えていない。小学生だというのに白髪が目立ち、身なりも汚い服ばかりで口数

も少なく一人ぼっちだった。ある雨の日傘を持たない彼を家まで送っていったが、彼の

家は4畳くらいの掘っ立て小屋だった。僕の家も貧しいものだったけれど、彼の家は

とても家と言えるものでなくて驚いてしまった。家から出てきたのはちょっと怖そうな

父親だった。父親と二人暮らしだったんだろう。何か可哀想になり僕は彼を家に呼ん

だり、家にあった綺麗な挿絵のついた本を一緒に読んで過ごした。今ごろどうしてい

るんだろうな。4年生の時僕は転校してしまったけれど、彼と一緒の友達だったこと

も僕にとって大切な思い出だ。ところで4年生の担任は南東先生といって、名前が

が変わっていた。「みなみあずま」と言うんだけど、いい先生だった。転校する時に、

吉野小学校に行っても恥ずかしくないようにラジオ体操を徹底的に叩き込まれた。


母親に関してだけど、最近自由な時間が持てて、国内外の高い山に登っている。

もう70台半ばというのに、その行動力は凄い。僕なんかとても母の足元にも及ば

ない。 母がもっと若い内に山に興味を持っていたら一流の登山家になっていたに

違いない。ところで僕には4歳離れた兄がいたけれど、この頃良く喧嘩をした。力

ではかなわない僕は兄の金玉を蹴り上げて逃げたっけ。しばらくくもがいていた兄

が隠れていたトイレの戸を叩き始めた。この時は本当に殺されると思った。そんな

兄貴も九州の小学校で教師をしている。金八先生みたいな教師だ。この宇宿の家

を二十数年ぶりに訪れたことがある。周りにあった畑は住宅地に変わり、レンゲ草

も見ることはないだろう。驚いたことに僕たちが住んでいた家はまだ残されてい

た。周りが新しい家ばかりだから廃屋に間違えられそうな感じだった。とても懐か

しかった。ここで僕は楽しい時代を生きたんだ。その時、知らないおばさんが話しか

けてきた。きっと僕がこの家の周りをうろちょろし、写真を撮っていたから尋ねたの

だろう。僕は子どもの頃にこの家に住んでいたことを話すと、このおばさんは僕のこ

とを覚えてくれていた。僕の方は全く覚えていなかったのに、おばさんは涙を流して

喜んでくれた。このおばさんの名前は平田さんと言った。平田のおばさん、今でも

元気ですか。いい想い出を作ってくださり本当にありがとうございます。


吉野小学校では奄美で一緒だった栄多敦君がいた。実は父親同士が海上保安

庁に勤めていたからこの再会も不思議なものではなかった。彼のお父さんは人間

魚雷として敵の艦船に突っ込む特攻だったが、出撃の数日前に終戦になったと

父から聞かされたことがある。そして当然のようにこの栄多敦君が僕の親友だっ

た。秀才でハンサムの君は皆から人気があった。でも僕は彼の飾らない性格

が好きだった。ある時彼と近くの沼地で遊んでいた時、栄太君が沼に足を取られ、

だんだん引きずり込まれていったんだ。僕はどうしていいのかわからなかった。そ

のうち大人の人が来て助けてくれた。次の朝、一緒に学校に行くために彼の家ま

で行ったけれど、お母さんの顔をまともに見ることが出来なかった。吉野小学校

を卒業して吉野中学校に入った。その頃かな、父親のスパルタ教育が始まった

のは。詳しいことは散文詩に書いたけれど勉強を間違うたびに殴られた。海軍

兵学校の試験を通り、最後の家族調査で落とされたんだから頭は優秀な父親

だった。当時の海軍兵学校は東大よりも難関だったと聞いている。そんな父親

から見て僕は相当甘く感じたんだろうね。父は農家育ちで学校から帰ると手伝

いをさせられ勉強するのは夜遅くからでしか出来なかった。そんな父親から見て

僕は歯がゆかったんだろうな。でも僕はどもりになってしまった。これから僕は同

じ鹿児島市内の紫原中学、そして宮崎の油津中学と転校を繰り返した。本当に

苦しかった中学時代。楽しい思い出はあまり想い出すことは出来ない時代だけ

ど、紫原中学の翁長君と過ごした時、そしていつも雄大な噴煙を上げていた桜

島に魅入っていた時など大切な想い出も僕の心に刻まれている。


 


宮崎・日南で過ごした高校時代

一人の女性に恋した時代。名前を海老原さんといった。とてもふっくらした女性

だった。男の子は母親と同じような女性を結婚相手に選ぶとよく言われるけれど、

確かに気丈で、それでいながら心やさしい女性だった。日南高校は丘の中腹に

あるんだけれど、毎日自転車で10キロの道を通った。でも雨の日はバスで通っ

たけれど、時々彼女も乗ってきた。彼女は2年の時同級生だったけれど、一度も

親しく話しかけたことはなかった。僕は奥手だったんだね。ラブレターを出そうと

思ってポストまで行ったんだけど、やめてしまった。確か2年生の時かな。同級生

の女の子が不純異性行為(今は悲しいことに多くの人がやっているみたいだけ

ど)が発覚したことがあった。Oさんというんだけど処分が決定するまでは学校に

来ていたんだ。僕はそんな間違いを犯したとしても特別な眼で見たくはなかった。

でもそれを自然に実行していたのが海老原さんだった。お昼の弁当の時間には

いつも仲間やOさんと一緒に食べ、それまで以上に親しく語りかけていた。そんな

彼女に僕は恋していたと思う。結局Oさんは退学処分になってしまったけれど、こ

の高校で立ち直って欲しかった。今ごろ海老原さんはどうしているだろう。きっと

素晴らしいお母さんになっていると思う。一方的な片想いだったけれど、本当に

心の澄んだ女性だった。


高校時代、今でも私の宝物になっている一冊の本と出会った。それは小林有方

神父さんが書いた「生きるに値するいのち」で、今でも私の大事な宝物になって

いる。またこの時、15歳の少女が骨肉腫になり死ぬまで書き綴った手記が新聞

一面に掲載され、その切り取った新聞は今でも僕の思い出箱に保存されている。


高校時代の親友は坂元君だった。お父さんは漁師だったかな。この時も僕はどもっ

ていたけれど、彼は自然に僕と付き合ってくれていた。きっと彼がいなければつまら

ない高校生活だったと思う。高校時代僕は物理のクラブに属していたんだけれど、

その時の顧問が碓井先生だった。口数は少なかったけれど、生徒の視点で見てく

れるいい先生だった。その先生からアマチュア無線を進められ、僕は電話・電信級

の免許をを取った。学校にある無線機を利用してハワイとかインド洋上の日本商船

と会話できたのは嬉しかった。そのうち坂元君が遊びに来て、一緒にやった。とは

言っても彼は免許をもっていなかったから、僕が違法行為に誘ったんだけれどね。

こんなことをばらしちゃ坂元君に迷惑だったかな。でも既に時効だからばらしても

いいかな。坂元君、いつか君に会いたいな。高校時代本当にありがとう。これで

僕の紹介を終わりますが、その後の人生に関しては散文詩を参考にしてくだされ

ばと思います。




遺書


 




好きな食べ物・・・・麺類かな。独身時代は節約のためいつもスパゲッティを作っていた。

尊敬する人・・・・母親、それからこのページに紹介している人たち

好きなこと・・・・いっぱいありすぎて困ってしまう。

嫌いなこと・・・・ゴルフかな。環境破壊の典型的なもの。ゴルフに夢中になっていながら

自然環境を大事にしたいと発言する人がいるけれど、こんな矛盾した発言をする人には体

が拒否感を示してしまう(例えば細木数子 さだまさしなど)。でも大なり小なり私自身も普通

に生活する上で何らかの環境破壊に加担してしまっているのもまた事実なんだけどね。


幸せに感じたこと・・・・恐らく死ぬ間際に本当に幸せだった時代のことを想い出すと思う。

好きな漫画など・・・・「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」この二つは僕の宝物。

特にダンディにひかれた。「アルプスの少女ハイジ」は高校時代見たけれど、何故

か周りの都合で転々とするハイジに自分の人生を重ね魅入ってしまった。手塚治虫

の作品が大好きです。


好きな映画はこちらで、愛用品(癒しの森)はこちらで紹介していきます。

Habbo(ハボ)では、「探検君」という名で出ていました。ここで出会った皆さん、

本当にいい思い出ありがとう。



mixi でも同じ「探検君」という名で登録していますが、書き込みなどしておりません。

プロフィール写真はヘレン・ケラーがチェスをしている写真を載せていますが、この

サイトのことは伏せてあります。何か mixi は閉鎖的な印象が強く自分には合わない

と思っているのかも知れません。非常時の連絡用に登録しているだけのことです。

Facebookでは本名「古賀一典」で出ています。このサイトは一方通行ですが、Face

bookは相互に情報を交流できる点が素晴らしいと思います。少しユーモアを交え

ながら、写真と共に投稿していますので、気楽に声をかけてください。

http://www.facebook.com/aritearu







2016年5月18日撮影 樹齢2000年超の大楠

來宮(きのみや)神社 大楠・第2楠


2018年2月26日 88歳




2012年10月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



もうすぐ83歳になる母と、江の島の夕日をじっと見つめていた。

母の背中から伝わるいろいろな想いの重みを私は忘れない。

☆☆☆☆


 

2013年10月14日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




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本日14日のお月様と17時頃の光景です。


一年前に九州から母が来たとき、双眼鏡で木星の衛星たち(ガリレオ衛星)を見てもらったが、これらの配列が

裸眼でも見えていると言った。



83歳になる母の視力がどれほどのものなのか詳しくは知らないが、双眼鏡で確認できる衛星の配列が、何も

使わない裸眼で見えるとは信じられず耳を疑った。



ただ、中国の斉の天文学者・占星術師の甘徳が、ガリレオが望遠鏡で木星の衛星を見つける遥か2000年も

前(紀元前364年)に木星の傍らにこれらの星があることを記録していることを考えると、人類の歴史上、名は

知られていない沢山の人の目に見えていたのかも知れない。



月のクレーター、これも双眼鏡でないと確認できないが、木星の衛星と同じで、月にはでこぼこしたものがある

と見ていた人もいたのだろう。



科学の進歩により今まで見えなかった実体が明確にわれわれ人類に映し出されつつある一方、心はどう変化

しているのだろう。



今日は双眼鏡で月を見ながら、その光に吸い込まれてしまっていた。



☆☆☆☆



 

2013年8月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


フィリピンでの出会い



もう34年位前になりますが、フィリピンを訪れたことがあります。



夜学の学生さんや神父さん、そしてシスターたちとの旅でしたが、この時の出会いはまだ私の

中で消化することができないでいます。



フィリピン奥地に生きる先住民が森を奪われていく姿、当時のマルコス政権に対して地下での

抵抗運動をしている方たち、ハンセン病の隔離施設の女性たち、そして日本兵に両親を殺さ

れた青年との出会い。彼はこう言いました。



「私はあなたたち日本人が来ると聞いて憎しみを押さえることが出来ませんでした。しかし、

神に祈ってようやくここへ来ることができました」、と語る彼の目に憎しみはありませんでした。



同行していた女性の方達は涙を流していたのですが、情けないことに当時の私はどう捉えて

いいのか戸惑うだけでした。



海上保安官になる前の父は、終戦後に商船の機関士としてフィリピンへ行ったのですが、

彼らの日本人を見る視線が怖かったと話したことを思い出します。



その後、フィリピンの子供たちへの経済的な支援を続けてきたのですが、それでも心にひっか

かっているこれらの出会いは、私の中で時が止まったままになっているのかも知れません。




 

2014年10月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。


私自身、これまでの人生の中で、他の人にいいことをしたと思えることはあまりない。



唯一の例外だと思えるものは、小学4年生の頃のこと。当時私は鹿児島の宇宿小学校にいたのだが、

同級生の彼がどのように生きているのか思い巡らすことがある。



昭和40年代前半は裕福な家も次第に増えていく時代だったが、彼は白髪があり、学校では一人ぼっち

で身なりもみすぼらしかった。



私は当時、クラスの人気者とは言えないものの、遊び好きな陽気な性格で友達もたくさんいたが、

何故か彼のことが気になっていた。



ある雨の日、彼を傘にいれて彼の家まで送っていったが、とても家とは呼べないような4畳半も

満たない掘っ立て小屋で、父親しか見なかった。



それ以降、彼を自分の家に呼んだり、れんげ草の広がる道端で家から持ってきた絵本を一緒に

読んだりしたが、絵本を見たときの彼の瞳は大きく見開いているように感じた。



その絵本はロシアの民話「石の花」だったような記憶がある。



それから直ぐに私は転校したため、その後の彼ら親子がどのような生活を送っていたのか知ら

ないし、名前も「白木君」とかすかに覚えているが、定かではない。



ただ、絵本を見たときの彼の驚きに満ちた瞳を忘れられない。



彼にとって私の行為は迷惑だったかも知れない。



でも、私にとっては彼と過ごした時間は今でも貴重だと感じられてならない。




 

2014年10月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。


皆様のすぐそばに、いつも笑いがありますように。



以前にも話したことだが、フィリピンに2週間ほど滞在したことがある。



そこでは独裁政治だったマルコス政権を打倒しようとする人々。



森に生きる先住民で、政府の政策によりその生存範囲を奪われる人々。



両親を日本兵に殺され、許すことへの祈りによって、会いにきてくれた男性。



スラム街での貧しくとも屈託のない子供たちの笑顔。



ハンセン病の隔離病棟での女性たちの笑顔。



これらの貴重な出会い、あれから30年近く経とうとしているのに消化しきれない自分がいる。



その中でも天使と出会ったと感じたのは、ハンセン病の隔離病棟での短い時間での触れ合いだった。



昔は「らい病」と恐れられた病気で、女性だけが収容されている病棟に入ったのだが、何を言えばわからなかった。



恐らく幼稚な仕草をしたためだと思うのだが、いつの間にか彼女たちに囲まれ笑われていた。



そして陽気な国民性にもよると思うのだが、彼女たちの笑顔に、心にあった壁は取り除かれていた。



無邪気な笑い、故郷や家族から引き離された人々が見せる笑顔。



どのような過酷な状況に置かれても、違った世界を垣間見させてくれる笑いに人は身をゆだねる。



天使がどのような目を持っているのか私は知らない。



しかし彼女たちの悪戯っぽい目の輝きは、乳児が生まれて初めて微笑むように、光に満ちていた。




 

2013年8月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



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フィリピンのスラム街の子供たち

34年位前の写真ですが、子供たちは貧しくても明るくたくましく生きていました。


 

2013年1月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



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本日1月9日、夜明け前の光景です。


冬の思い出、私が小学1年の頃だったか、火鉢の沸騰したヤカンを足に落としたことがあった。

足が真っ赤に腫れ、母は私をおんぶして遠くの病院まで連れて行ったが、当時は救急車など

なかったのだろう。



鹿児島市内に火傷に関しては名医がいるというので、その病院に行ったのだが、そのお陰で

大きな火傷の跡は残っていない。ただ、おんぶされて何度も病院に通ったとき感じた母の背中

の温もりや想いは、私の心に刻まれている。



児童虐待など、母や父の想いを感じられず育った子供は、その穴を、長い人生をかけて何ら

かの方法で埋めていかなければならない。昔の人が言った「三つ子の魂百まで」は、幼いころ

の性格は年をとっても変らないことを意味しているが、自我が確立しておらず、無意識の中に

いる3歳までの時期は、その後の長い人生を形作るといってもいいのかも知れない。



異論はあると思うが、少なくとも3歳までは周りの人たちの助けを借りながら、親の想いを浴び

つづける満たされた時期であってほしい。



ブッダ、日本各地に赴き12万体の仏像を彫った円空、そして私が尊敬する哲学者・梅原猛さん

は幼いときに母親を亡くした。この深い喪失感は体験した者だけしかわからないのだろう。ブッダ、

円空、多くの人々を救ってきた彼らの光は、私には垣間見ることさえ出来ない深みから発せられ

ているのかも知れない。



☆☆☆☆


 

2013年3月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。





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今年1月上旬に撮影された桜島の噴火(写真はNASAより引用)



私は小中学のころ、鹿児島市内(宇宿、紫原、吉野)を転々としたが、暗い青春時代の中にあって、

桜島やその噴火にどれだけ希望をもらったかわからない。



高く高く空に昇る噴煙は、溺れそうになっていた私の心をも押し上げ、違った世界があることを教え

てくれた数少ない存在だった。



 

2012年7月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



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写真はNASAより引用



東京で何をしていいか彷徨っていた時、駅で若い女性に声をかけられ行った先が統一教会の

信者が生活する施設だった。そこで僕は20代後半くらいの医療関係の雑誌をを編集している

女性と会い、一年間くらいここに通って彼女といろいろなことを話した。世間で問題になりつつ

ある時期だったが、彼女は僕の考えをじっくり聞いてくれたように思う。



独りぼっちで何かを求めていた僕は「あーあ、こんな女性がいつも近くにいてくれたらいいな」と

思ってばかりで、統一原理など聞いても全く頭に入ってこなかった。ただ、彼女が大勢を前にし

て統一原理を話す眼差しや口調は、僕と話すときの彼女とは別人だった。



就職したとき、ある友人が高橋桂子さんの講演を聴きにいかないかと誘われた。彼女は自身

のことを「キリストブッダを統合した上の次元にいるもの」という話を聞きながら、またしても

僕は「あーあ、こんな綺麗な女性と結婚できたらいいな」と思って聴いていた。



まあ男性だったら女性にこのような想いを抱くのは極自然なことなのだが、何が彼女たちから

自分を離したのかを思うと今でもはっきりしない。



ただ母の存在神秘体験(今思うと疑問だが)かも知れないと思うことがある。母親に関しては、

どんなに宗教家が美辞麗句を並べても、母の子への無償の愛という行為に勝るものはない。



それと奄美などの自然、美しいものでありながら怖い存在でもあった自然。それらの記憶が道を

外れそうになった自分をあるべき所に戻そうとしたのかも知れない。



様々な宗教、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは「さまざまとある正しい宗教の伝承は、すべて

同一の真理の種々ことなった反映にすぎず、おそらくその貴重さはひとしいのです」と言い、インド

の偉大な師であったラマナ・マハリシが様々な宗教について問われたとき沈黙で応えたように、多

くの人も宗教はどこかで結びついていると感じていても、その源泉ははっきりとはわからない。



恐らく何千年、何万年先でないとその姿は明らかにならないような気がするし、それだけの時間を

かけなければいけないものだと思う。



私が若い頃出会った女性、もう高齢だとは思うが「幸あれ」と願いたい。



☆☆☆☆



写真は、地球から約3000光年離れた位置にあるキャッツアイ星雲(NGC 6543)の姿です。



鋭い猫の目を思わせることからこの名前がつけられましたが、実際は死にゆく星から放出された

ガスとちりの造形です。



不思議なことにこの放出は1500年ごとに現れ、それが同心円状の構造やジェットに見ることができ

ますが、何故この質量放出が1500年ごとに繰り返されるのかまだわかっていません。



☆☆☆☆




(K.K)



 


2012年3月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

奄美にいたときの私。

長崎・佐世保で生まれ、3歳の時に私たち家族は奄美に移り住んだ。



佐世保の近くに黒島という隠れキリシタンが住んだ島がある。成人してからこの島と黒島天主堂

訪れたときの衝撃とそこで与えられた意味は私の大切な自己基盤の一部になっている。



そして奄美大島、そこはシャーマニズム・アニミズムの世界観が残る地であった。幼少の頃はそん

なことなどわかるはずもなく、青く澄んだ海、赤い蘇鉄の実、さとうきび、そして怖い毒蛇ハブが住む

森を身近に感じていた。



「一人で森に入ってはいけない」と何度も言われた。それ程ハブが棲む森は子供にとって恐ろしい

場であった。逆に言うとハブがいたからこそ、昔の奄美の森は人間によって荒らされずに生き残っ

てきたのかも知れない。



ホピ族の有名な踊りに「蛇踊り」がある。砂漠に住む猛毒をもつガラガラヘビなどを多く集め、儀式

するのだが、その儀式の前に長老達は一つの部屋にこれらの蛇を置いて数日間共に過ごすので

ある。そして儀式が済むと蛇たちは丁重に元の砂漠に帰される。



確かに日本でも蛇信仰はあったと思う。母の実家・久留米の家では白蛇がおり家の人たちは大切に

その蛇を扱っていた。私は白蛇を見たことはないのだが何度もその話を聞いて育った。



創世記で蛇がイブを誘惑したことから生じてきたずる賢い悪魔の存在としての意味、そして蛇信仰が

残る地や奄美、両者には決定的な自然観・世界観の違いが横たわっていると感じていた。



前者からは人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然に対しての畏敬を失い森を切り開い

た姿が、後者からは脱皮を繰り返す蛇に、森の再生のシンボルとしての意味を見い出せるかも知

れない。



良くキリスト教は一神教と言われるが、私はそうは思わない。父・子・聖霊の3つの姿が互いに与え

尽くしている姿、三位一体はそのことを指し示しているのではないかと思う。



言葉では偉そうに「与え尽くす」と簡単に言うことは出来るが、それを肌で知り、示すことは私には

出来ない。インディアンの「ポトラッチ」縄文時代での社会的緊張を緩和するために呪術的儀礼や

祭を通して平和で安定した平等主義、「与え尽くし」の社会。



ある意味でキリスト教の真実の姿を体現しているのが先住民族たちなのかも知れないと思うことが

ある。



まだまだ多くの疑問が私の中に横たわっているのだが、長崎・奄美から旅立った私の魂は、ブーメ

ランのように再びこれらの地に戻ろうとしているのかも知れない。



☆☆☆☆



「ガラガラ蛇からサイドワインダー、ヤマカガシまであらゆる種類の蛇がおった。

六〇匹はいたじゃろう。あちこちに動き回って、囲んでいる男たちの顔を見上げ

ていた。男たちは動かず、優しい顔つきで歌っているだけじゃ。すると、大きな

ガラガラ蛇が一人の老人の方に向かい、足をはい登り、そこで眠り始めた。

それから次々と蛇がこの老人に集まり、優しそうな顔をのぞき込んでは眠り始

めたのじゃ。蛇はこうやって心の清い人間を見分けるのじゃよ。」



コアウィマ(太陽を反射する毛皮)の言葉

「ホピ・宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2012年3月26日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



「絶対ロストするな!」奄美沖事故、救助動画を海保公開



☆☆☆☆



鹿児島県奄美大島沖で起きた漁船転覆事故で、第10管区海上保安本部は25日、船長の

北川勝人さん(46)と下池力さん(40)を24日早朝に暗い海から小型船艇までひっぱりあげ

る様子を動画で公開した。



 事故発生から約15時間後の午前6時10分ごろ。海は暗く荒れており、サーチライトを時折

隠すほど波が高い。「2人! 2人!」「分かりました! すぐ行きます!」「絶対ロストするな!

(見失うな)」



 波間に見え隠れする漁船の乗組員に、巡視船「くだか」搭載の小型船艇が近づく。



以上、朝日新聞より引用



☆☆☆☆



何かこのような映像を見ると、父のことを思い浮かべてしまう。父も巡視船に乗っていたが、夜

何度も救難信号が入るたびに海に出て行った。私は若い頃は父を憎んでいたが、今このような

映像を見るたびに、父の仕事を誇りにしている自分に気がつく。海の男、そう本当に海に生きる

男だった。そんな父が亡くなっ時、私は仕事場にいたのだが、身体が柔らかな神々しい空間に

包まれているのを感じた。不思議なことがあるものだなと思っていたが、丁度その時間は父が

亡くなった時だった。私は父が天国、安らぎの国に行ったことを確信した。父は私に最後の挨拶

をしにきてくれたんだと思う。ありがとう。



(K.K)



 

 

2013年5月30日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。





ダンテ「神曲」(挿画 ギュスターブ・ドレ 訳・構成 谷口江里也 JICC より写真引用)



多くの男性にとって、初恋の女性は永遠の恋人かも知れません。



ダンテとベアトリーチェは挨拶の言葉しか交わしたことがありませんでしたが、ダンテは彼女に恋焦がれます。



結局彼女は他の男性と結婚し24歳の若さで亡くなりますが、ダンテはその痛手を癒すため、彼女を「神曲」の中に

登場させ永遠の存在として描こうとしました。



私の本当の初恋は高校時代の同じクラスの女性でしたが、ダンテと同じように挨拶をするくらいで、それ以上の

言葉は出せませんでした。



初恋、それは切ない思い出と同時に、当時のみずみずしい感覚を呼び覚ましてくれるものかも知れません。



ところで、挿画を描いたギュスターブ・ドレですが、最初に出会った「ドン・キホーテ」と同様に「神曲」の挿画も

感銘を受けるものでした。



☆☆☆☆



それ浮世の名声は、今こなたに吹き、今かなたに吹き、そのところを変えるによりて名を変えうる風の

一息にほかならず。



ダンテ



☆☆☆☆




 


2013年9月1日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



ニホンオオカミ(埼玉県・猪狩神社の狛犬)・写真は他のサイト「こまちの通り道 -オオカミ像を求めて」より引用



若い頃、奥秩父の山々を縦走し、武甲山の山頂に着いた時には日が暮れてしまっていた。



慣れない夜道を歩くのは危険だと思い、山頂で一夜を明かそうと思ったが、このままでは死ぬと思うほど風が

強く、避難場所を求めて山頂付近を彷徨っていた。



すると3畳ほどの信仰遺物を発掘するための無人の小さな掘っ立て小屋があり、私はそこで眠れぬ一夜を

明かした。



最近、この山の登山口に狛犬(オオカミ)の像が置かれていたと知ったが、当時はその像があったことすら

記憶にない。



ニホンオオカミが最後に目撃されたのが1910年のこと、今から100年以上も前である。



しかし前の記事にも紹介した「オオカミの護符」によると、1933年(昭和8年)にはまだ奥秩父近くでオオカミ

の群れがいたとの言い伝えがある。



当時の私はニホンオオカミについて、またこの一帯がオオカミを崇めていた地域だとは知らなかったが、何故

か武甲山を初めとする奥秩父や奥武蔵の山々には惹かれていた。



遊牧民であるモンゴルの人にとっても、オオカミは神であり、自らを「蒼きオオカミの末裔」と名乗った。

勿論、家畜がオオカミに襲われることがあったが、それでもモンゴルの人々は彼らの生態に敬意を表していた

のである。



最後に「オオカミの護符」小倉美恵子著より引用しますが、いつかまた、この地を踏むことができればと願っている。



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千嶋章市さんは、「お札だけでなく神社のお犬さまもすげぇんだぃな」と、参道の狛犬にまつわる不思議な実話を

語り出した。それは、狛犬が猪狩神社にやってきた昭和8年のこと、狛犬は、隣の両神村(当時)をさらに越えた

小野鹿町(当時)から運ばれてきた。今のように舗装された道はなく、古池の人々が大八車に乗せ、山道を少し

ずつ進んだ。途中で日が暮れ、宿を借りた家で「不思議」は起こった。



狛犬を縁側に置いて休んでいると、狛犬を取り囲んでいる何かの気配がしたそうだ。人々は恐ろしくて見ることは

できなかったが、そのうちにオオカミが遠吠えを始めたという。山から本物のオオカミが下りてきていたのだ。朝に

なって恐るおそる狛犬を見に行くと、その周りにはオオカミの足跡がたくさん残されていたという。「あまりに石像の

出来栄えが素晴らしいので、オオカミが喜んで出てきたのだ」と、幼い千嶋さんは聞かされてきた。昭和5(1930)年

生まれの千嶋さんは、このときのことを鮮明に覚えており、近隣の人々も皆この話を信じたというが、今はもう知る

人が少なくなってきたことがとても寂しいようだ。



確かに猪狩神社の狛犬は、写実的でリアルな迫力に満ち、神社の雰囲気とあいまって、厳かな霊気すら感じられる。

千嶋さんは、何度も「ウソでないよ。本当の話だよ」と繰り返した。「それ、信じます」と言うと、あごけない表情を浮か

べ、嬉しそうに微笑んだ。「信じますとも」。なにせ、祖母が語る不思議な寝物語に背中を押されてこの旅に出た

私ですから・・・・。



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2013年9月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。




横浜・山下公園のイチョウ並木の銀杏と大桟橋(9月12日撮影)



昨日・本日と台風の影響で、夜明けは雨でした。



この日、朝早く起きて山下公園や大桟橋を散歩したのですが、平日にも関わらず多くの人が

散歩やジョギング、そして体操をしていました。



九州から横浜に来ていた母(83歳)・兄と共に、潮風を受けて海や船、そしてイチョウの緑に

囲まれての散歩は清清しかったです。



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2014年4月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。





(大きな画像)


横浜大桟橋にて(2013年7月2日撮影。遠くに見えるのは巡視船)



4月18日から21日までの夜明けは小雨でした。



父は海軍兵学校に入るだけの実力(最後の家族調査で落ちる)をもった人で、戦後に海上保安庁に入ったが、

家では「海の男」という匂いをあまり感じたことはない。



例外として、深夜に救難信号が入ると、飛び起きて船に向かう姿に憧れもしたし、子供心に自分もそうなりたい

と思ったものだ。



今回の韓国の客船沈没事故、「海の怖さ」を最も知っているはずの乗務員たちの言動を見ると、社会の風潮が

彼らから「海の男(女)」の感性を奪ってしまったのかも知れないと感じてしまう。



激しい競争と、その結果としての格差社会。



不謹慎な言い方かもしれないが、そのような社会の空気を吸い続けてきた人間にとって、乗客より先に脱出

(女性を含めて数名の乗務員は異なる選択をした)したことは、彼らにとって自然な反応だったのだろう。



単に個人や会社の責任だけに終始してしまう、それは愚かなことだと思う。



そして日本も、そうならないとは断言できないのかも知れない。



亡くなった方のご冥福を祈るとともに、生存者がまだいるという希望を捨てないで救助してくださればと願います。



 

2015年10月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


もう30年近く前の話。



勤めていた職場の部長はその分野では有名で、上層部に対しても顔がきく人だった。



部長は麻雀や野球が大好きで、若手や中堅の職員の何人かは率先して部長の趣味に付き合っており、

その多くが実力もあり本社に呼ばれた。



中堅の職員の一人は部長のイエスマンという人で、本社へと異動になった。



それから1年ぐらいしてから、この中堅の職員が電車内でスリをし逮捕されたのを知った。懲戒免職だった。



この逮捕された職員とは仲が悪かった私の上司。



自分の意見を正々堂々と言う、上からは嫌われているが部下の面倒見がいい人、その上司からその後

のことを聞いた。



職を失い、すがるように私の上司に電話をし、酒を飲みながら涙を流している相手に上司は「ガンバレ」と

強く言ったと話していた。



絶望に陥ったときに、頼る人。



逮捕された職員にとって表面上は邪魔な存在だったであろう上司、しかし自分と異なる世界に生きている

人に救いを求めたのかも知れない。



私が仕事のことで上司に嫌な思いをさせたこともあるが、その後も叱ったり裏表のない態度で接してくれた。



前に築地市場で働きながら学校へ通っていた時のこと、口が悪く仕事はきついが、裏表のない人が多かった場。



今でも、何故かそのような人間・場に憧れてしまう。



悪意なき単純さ。それは苦しい環境にいる時こそ、宝石のように光り輝くものかもと思う。



 

2015年11月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(写真はNASAより引用)

(大きな画像)



このような写真を見ると、海の近くのキャンプ場で過ごした一時を思い出す。



私自身、小さい頃からキャンプなど行ったことがなかったが、山歩きを通して自然とキャンプにも関心がいったんだと思う。



千葉県・大原、そこがいつものキャンプ場だった。



10年近く同じキャンプ場、海が近くにあり星も綺麗。お盆の時期を外して行ったので人もさほど多くない。



朝早く起きたときは、キャンプ場すぐ前の砂浜で朝陽を拝み、海では古式泳法で泳ぎ、夜は双眼鏡で星空を見る。



毎年行っていると、近くの魚屋さんにも覚えられ、風邪気味だと話したら薬をもらうなど人の繋がりも心地よいものだった。



大原オートキャンプ場は2003年に32年の歴史に幕をおろし、その後「大原オートキャンプインそとぼう」として生まれ変わったらしい。



キャンプ場から木のトンネルを通って海に行き、帰る日は海に向かって「また来るよ」と叫ぶ。



海はいいものだ。波打ち際で子供のように波と鬼ごっこをし、じっと波音に耳を立てることで、何かを流し去ってくれる。



アメリカ先住民(インディアン)の好きな言葉のひとつ。



☆☆☆



「子供の訓練は、じっと座っていなさい、そしてそれを楽しんでごらん、という教えから、はじめられるものである。



子供たちは、嗅覚を敏感にして、なにも見るものがないところになにかを見たり、



まったくの静寂のなかに、じっとなにかを聞き取ったりするように、と教えられた。



じっと座っていることのできない子供は、ちゃんと成長していない子供だ」・・・ルーサー・スタンディング・ベア



☆☆☆



まだまだ私もちゃんと成長していない子供だ、と実感させられる。



 

2015年11月19日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


アイルランド(写真は他のサイトより引用)



22歳の時に何気なく取ったアイルランドの写真集、思えばそれから写真や写真集に惹かれていったのかも知れない。



アイルランドと言えばIRA(アイルランド共和軍)によるテロしか思い浮かべなかったが、大地や人々の息づかいが

聞こえてくるような写真に、私自身の眠っていた遺伝子を呼び覚まされるような不思議な感覚を持った。



ケルト人の宗教は自然崇拝の多神教であり、エンヤやケルティック・ウーマンの音楽を通しても、澄みきった風の

ささやきが聴こえてくる。

















(大きな画像)


 

厚木市から見た「夜明け」の写真です。




2016年4月6日の夜明け(4時53分〜5時37分)の光景ですが、5日ぶりの朝陽です。

31年前の今日、カトリック山手教会で洗礼を受け、今では疎遠になってしまった教会。

いつか三位一体の互いを与え尽くさずにはいられない意味を感じられたらと思います。

☆☆☆

 

2016年5月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




2016年5月18日の夜明け(4時19分〜50分)の光景です。伊豆・伊東より撮影

◎音無の森「緑風園」の露天風呂 地元の方も入浴しに来られ、宿泊料も安いです。

◎伊東市 「音無神社」 源頼朝と八重姫の悲恋の場所だったことを初めてこの地で知りました。
「緑風園」の隣にこの神社があります。

◎伊東市 東郷記念館(東郷平八郎の別荘) 小・中学校を鹿児島で過ごしましたが、鹿児島の人にとって、
島津斉彬、西郷隆盛、東郷平八郎は地元の英雄でした。
私自身、彼らのことは詳しくは知らないのですが、この伊東に東郷平八郎の別荘があるとを、
伊東を散策して初めて知りました。
この記念館で解説してくださったボランティアの方の話を聞くと、武士道の精神を貫いた人だったのではと感じています。
写真は、内閣総理大臣だった犬養毅が東郷平八郎に贈った囲碁盤で、収納箱の裏に、犬養自身の字が書かれています。
この別荘で東郷は奥さん(お手伝いとして家に来ていた方)と、二人で良く囲碁をしていました。
東郷の囲碁の腕前はそれほど上手くはなかったのですが、奥さんと文句を言い合いながら対局だったそうです。
お互いに真剣だったんでしょうね。
この東郷記念館は、日曜日・祝日・第一・第三土曜日・第三火曜日のみ開いております。

◎伊東市 旧木造温泉旅館・東海館(伊東市指定文化財)、土・日・祝祭日は入浴することが出来ます。

◎熱海市 來宮(きのみや)神社の大楠 樹齢2000年(本州では一番の大きさです) この旅で最も感銘を受けました。


來宮(きのみや)神社 大楠・第2楠

☆☆☆



UK | FT Photo Diary


2011年5月30日撮影(七沢森林公園・ふじだな公園にて)







夜明けの詩(厚木市からの光景)

七沢森林公園 順礼峠のお地蔵さん

美に共鳴しあう生命

ホピの預言(予言)

神を待ちのぞむ

天空の果実