「奄美 二十世紀の記録 シマの暮らし、忘れえぬ日々」越間誠 著 南方新社 より写真引用。


奄美大島で過ごした幼稚園時代の想い出

青い海と蘇鉄の赤い実そしてさとうきび畑。当時はおやつなんてない時代だったから

子どもたちは近くのさとうきび畑に行き、自分で刈って食べた。美味しかった。でも他

の人の畑だからといって、怒られたこともないし、悪いことをしているという自覚もな

 かった。奄美で怖かったのは毒蛇の「ハブ」で、一人で勝手に山に入ってはいけない

とよく言われた。森を大事にする文化やインディアンの社会では、脱皮を繰り返す蛇

は再生のシンボルとして神聖な生き物として扱われていたけど、奄美の人たちも蛇

が森を守っていると考えていたんだ。


当時の僕は古仁屋のカトリック幼稚園に通っていたけれど、よくお漏らしをして先生

だったシスター達に怒られたっけ。僕にとってシスターたちは少し怖い存在だったけ

ど、ロジャース神父(?)さんは楽しく英語を教えてくれた。その当時の僕は先生に絵

が上手とよく褒められたけど、いつも書く絵がゼロ戦だったような気がする。何でゼロ

戦なのか今では想いだすことは出来ないけれど、戦いに憧れていた時期だったのか

も知れない。・・・「悲しみのマリア」の島 ある昭和の受難 小坂井澄・著を参照され

たし。

このカトリック幼稚園の卒業記念に聖母マリアの像を頂いたが、子どもながらにそ

の暖かな眼差しと微笑みに見とれてしまった。この想いは今でもはっきりと僕の中

に生きている。ところで、それから十数年後、マルコス政権下のフィリピンを旅行し

た際に同行していた二人のシスターが奄美の教会にいたことがあり、あのロジャー

ス神父(?)さんは元気であることを教えてくれた。思いがけない知らせが嬉しかっ

た。この幼稚園の卒業でもらった聖母マリアの像はその後壊れてしまったけど、

今僕の部屋に置いてあるのは、フィリピンの刑務所にいる人が作った聖母マリア像

だ。文明的なものはあまり持たない土地だったけれど、奄美の自然が友達だったし、

幼稚園時代をこの奄美で過ごしたことは大きな幸せだった。ありがとう奄美、いつか

里帰りしたい。



この画像は沖縄の素晴らしい写真を撮り続けている大塚勝久さんの写真集

「南の風」CD-ROMから引用させていただきました。この写真集の背景に流

れる音楽も沖縄独特の心暖まるもので、沖縄独特の風に吹かれてしまいそ

うです。発売元 I・S・L・E



「さとうきび畑」

作詞/作曲:寺島尚彦


ちあきなおみ が唄う 「さとうきび畑」


     






さとうきび畑

(作詞/作曲:寺島尚彦)


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる

夏の ひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

むかし 海の向こうから いくさが やってきた

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

あの日 鉄の雨にうたれ 父は 死んでいった

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

そして 私の生れた日に いくさの 終わりがきた

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

風の音に とぎれて消える 母の 子守の歌

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

知らないはずの 父の手に だかれた夢を 見た

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

父の声を 探しながら たどる 畑の道

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

お父さんて 呼んでみたい お父さん どこにいるの

このまま 緑の波に おぼれてしまいそう

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ けれど さとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ

今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 忘れられない 悲しみが

ざわわ ざわわ ざわわ 波のように 押し寄せる

風よ 悲しみの歌を 海に返してほしい

夏の ひざしの中で


ざわわ ざわわ ざわわ 風に 涙はかわいても

ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない


 


2001年9月、アメリカで大量・無差別テロが起りましたが、このテロへの過剰な報復が

更なる憎しみを産まないように願っています。随分前にNHKの「みんなの歌」で紹介された

「さとうきび畑」という反戦歌があります。最初にこの歌を聴いたとき涙を流していました。

幼少の頃、私は奄美大島に住んでいました。青い海と蘇鉄、ハブ、そしてさとうきび畑。

子どもたちは私も含めて畑に行って良くさとうきびを食べたものですが、このさとうきび畑

を舞台とした鎮魂歌、それが「さとうきび畑」です。幸いなことにこの曲はインターネット上

でダウンロード(music.co.jp)することが出来ます。ちあきなおみの歌を通してこの曲を知

りましたが、やはり今でも「ちあきなおみ」の情感あふれる歌声が心に響きます。ちあき

なおみの大全集のCDに、この「さとうきび畑」が収められておりましたが、今でも売られ

ているのか不明です。

(K.K)


 
 


2012年3月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



奄美にいたときの私。

長崎・佐世保で生まれ、3歳の時に私たち家族は奄美に移り住んだ。



佐世保の近くに黒島という隠れキリシタンが住んだ島がある。成人してからこの島と黒島天主堂

訪れたときの衝撃とそこで与えられた意味は私の大切な自己基盤の一部になっている。



そして奄美大島、そこはシャーマニズム・アニミズムの世界観が残る地であった。幼少の頃はそん

なことなどわかるはずもなく、青く澄んだ海、赤い蘇鉄の実、さとうきび、そして怖い毒蛇ハブが住む

森を身近に感じていた。



「一人で森に入ってはいけない」と何度も言われた。それ程ハブが棲む森は子供にとって恐ろしい

場であった。逆に言うとハブがいたからこそ、昔の奄美の森は人間によって荒らされずに生き残っ

てきたのかも知れない。



ホピ族の有名な踊りに「蛇踊り」がある。砂漠に住む猛毒をもつガラガラヘビなどを多く集め、儀式

するのだが、その儀式の前に長老達は一つの部屋にこれらの蛇を置いて数日間共に過ごすので

ある。そして儀式が済むと蛇たちは丁重に元の砂漠に帰される。



確かに日本でも蛇信仰はあったと思う。母の実家・久留米の家では白蛇がおり家の人たちは大切に

その蛇を扱っていた。私は白蛇を見たことはないのだが何度もその話を聞いて育った。



創世記で蛇がイブを誘惑したことから生じてきたずる賢い悪魔の存在としての意味、そして蛇信仰が

残る地や奄美、両者には決定的な自然観・世界観の違いが横たわっていると感じていた。



前者からは人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然に対しての畏敬を失い森を切り開い

た姿が、後者からは脱皮を繰り返す蛇に、森の再生のシンボルとしての意味を見い出せるかも知

れない。



良くキリスト教は一神教と言われるが、私はそうは思わない。父・子・聖霊の3つの姿が互いに与え

尽くしている姿、三位一体はそのことを指し示しているのではないかと思う。



言葉では偉そうに「与え尽くす」と簡単に言うことは出来るが、それを肌で知り、示すことは私には

出来ない。インディアンの「ポトラッチ」縄文時代での社会的緊張を緩和するために呪術的儀礼や

祭を通して平和で安定した平等主義、「与え尽くし」の社会。



ある意味でキリスト教の真実の姿を体現しているのが先住民族たちなのかも知れないと思うことが

ある。



まだまだ多くの疑問が私の中に横たわっているのだが、長崎・奄美から旅立った私の魂は、ブーメ

ランのように再びこれらの地に戻ろうとしているのかも知れない。



☆☆☆☆



「ガラガラ蛇からサイドワインダー、ヤマカガシまであらゆる種類の蛇がおった。

六〇匹はいたじゃろう。あちこちに動き回って、囲んでいる男たちの顔を見上げ

ていた。男たちは動かず、優しい顔つきで歌っているだけじゃ。すると、大きな

ガラガラ蛇が一人の老人の方に向かい、足をはい登り、そこで眠り始めた。

それから次々と蛇がこの老人に集まり、優しそうな顔をのぞき込んでは眠り始

めたのじゃ。蛇はこうやって心の清い人間を見分けるのじゃよ。」



コアウィマ(太陽を反射する毛皮)の言葉

「ホピ・宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 







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