黒島天主堂 至聖なるイエズスの聖心 (上の写真はパンフレットより引用)

フランス人マルマン神父の設計と指導、黒島カトリック信徒の献金と労働奉仕で

明治35年に完成しました。煉瓦一部木造の教会堂。この当時として大規模で、

完成された三層構造をもち、長崎県では大浦天主堂(国宝)に次ぐ指定です。

黒島の文化財として「根谷の大サザンカ」があります。樹齢250年と推定され、

幹周り1m80cm、樹高10m以上の巨木で、長崎県北最大級です。毎年白い

花を咲かせ、実から採れる油は1800年頃に移り住んだ潜伏キリシタンの生活

を支えました。「信仰復活の地 出口家」、黒島の人口約1000人の7割はカト

リック信徒であり、主に西彼杵半島の外海地方から移住した潜伏キリシタンの

子孫です。元治元年(1864)、長崎に外国人のための大浦天主堂ができると、

黒島の出口親子は長崎に出向いて信徒であることを打ち明け、その後、黒島の

潜伏キリシタンは続々とカトリックに復活しました。禁教令が続くなか外国人神父

も来島し、出口親子の家でミサも行われたのです。黒島のキリシタンの歴史上

重要な場所となっております。

「黒島 高島 文化財ガイド」佐世保市教育委員会のパンフレットより抜粋引用。


 
 


黒島(名切)天主堂・国の重要文化財に指定される

朝日新聞より引用


国の文化財保護審議会が20日、新たに指定すべき重要文化財を文部大臣に答申し、

県内では、カトリック長崎大司教区所有の「黒島天主堂」・佐世保市黒島町・が指定され

ることになった。県内42件目、教会としては、国宝の大浦天主堂=長崎市=に次いで2

件目の国指定となる。黒島町は佐世保市西方の五島灘に浮かぶ同市の離島の一つ。

江戸時代にはキリシタン弾圧を逃れた多数の信者が生活する島だった。「黒島天主堂」

は島のほぼ中央に位置する名切地区に立っている。市教委などによると1878年、フラ

ンス人宣教師のマルマン神父が設計して建設を指導、信徒たちの献金と勤労奉仕で19

02年に完成した。施工は、長崎市の大工前山佐吉氏が担当したという。教会堂はれん

がと木造造り。重層屋根を持つ身廊と二つの側廊からなる三廊式で、正面中央には鐘

塔を有する。外観はロマネスク様式を基調にした簡素なつくりだが、内部は充実してい

る。円形アーチを基調にしたリブ・ボールト天井(コウモリ天井)があり、立体的に見ると、

下部からアーケード、トリフォリウム、クリアストリーの三層構成になっている。塗料が塗

られた木材には、凝った装飾が施されている。ステンドグラスや締はフランス製で、基礎

や柱の支柱は黒島特産の御影石、祭壇の床には有田の磁器タイルが使われている。

県内をはじめ、近隣の他県で後世に建てられた教会堂に与えた影響は大きく、国を代

表する明治期の三層構成の教会堂の一つ。市教委は「大正以降に三層構成は一般化

するが、黒島天主堂がほかに先んじており先駆的存在だ」と説明する。


「沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの」参照されたし

散文詩「見果てぬ夢」を参照されたし






1980年9月私が22歳の時、初めて長崎の西海の天主堂を巡った一人旅を思い出す。

浦上、大浦、中町という長崎市内の天主堂を出発点として、平戸、紐差、そして五島列島

の堂崎。天草の大江、崎津などを回った。泊まるところなどその場しのぎというもので、宿

がない時は教会の前で野宿した懐かしい旅の想い出は、今となっても色褪せないで心に

刻まれている。この旅を通して、さまざまな天主堂を見たが最も心に強くひかれてしまった

のが黒島の名切天主堂である。私の産まれた佐世保(3歳までしかおらず佐世保の記憶

は全くない、その後奄美大島に移る)から電車に乗り、そして小さな船で一時間ぐらいか

かる。当時ガイドブックにも載っていないところであったが、何故かこの離れ小島にどの

ような天主堂が建っているのかということに関心があった。そしてこの黒島の港からの道

を歩いてしばらくすると、目の前に堂々とした黒島天主堂が眼に入ってきた。この時の感

動の深さは口で言い表すことがとても難しい。そして何故そのように思ったのか自分自身

でもわからないが、将来結婚する人と必ずここを訪れようと強く思ったほどであった。この

夢は4年後に実現するのだが、その時の奇跡的な旅に、私たちは創造主の導きを肌で

感じ取っていた。カトリック教会から離れてしまった今でも、この黒島やさまざまな天主堂

の想い出は私に懐かしい安らぎ与えてくれている。紹介するこの写真集は西海の多くの

天主堂の神々しい姿を伝えてくれる素晴らしいものであるが、そこに秘められた迫害の

歴史と250年も絶えぬいた人々の熱い素朴な信仰をも感じてならない。

2008年5月7日 (K.K)


「長崎の天主堂 五島列島の教会堂」T・U・V DVD

「大いなる遺産 長崎の教会」三沢博昭・写真集

「天主堂物語」

「切支丹の里 沈黙とオラショとサンタマリアと」


「祈りの海 キリシタンの里」

「海郷の五島」


 

 


2012年3月22日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



奄美にいたときの私。

長崎・佐世保で生まれ、3歳の時に私たち家族は奄美に移り住んだ。



佐世保の近くに黒島という隠れキリシタンが住んだ島がある。成人してからこの島と黒島天主堂

訪れたときの衝撃とそこで与えられた意味は私の大切な自己基盤の一部になっている。



そして奄美大島、そこはシャーマニズム・アニミズムの世界観が残る地であった。幼少の頃はそん

なことなどわかるはずもなく、青く澄んだ海、赤い蘇鉄の実、さとうきび、そして怖い毒蛇ハブが住む

森を身近に感じていた。



「一人で森に入ってはいけない」と何度も言われた。それ程ハブが棲む森は子供にとって恐ろしい

場であった。逆に言うとハブがいたからこそ、昔の奄美の森は人間によって荒らされずに生き残っ

てきたのかも知れない。



ホピ族の有名な踊りに「蛇踊り」がある。砂漠に住む猛毒をもつガラガラヘビなどを多く集め、儀式

するのだが、その儀式の前に長老達は一つの部屋にこれらの蛇を置いて数日間共に過ごすので

ある。そして儀式が済むと蛇たちは丁重に元の砂漠に帰される。



確かに日本でも蛇信仰はあったと思う。母の実家・久留米の家では白蛇がおり家の人たちは大切に

その蛇を扱っていた。私は白蛇を見たことはないのだが何度もその話を聞いて育った。



創世記で蛇がイブを誘惑したことから生じてきたずる賢い悪魔の存在としての意味、そして蛇信仰が

残る地や奄美、両者には決定的な自然観・世界観の違いが横たわっていると感じていた。



前者からは人間だけによる地球支配の夜明けが始まり、自然に対しての畏敬を失い森を切り開い

た姿が、後者からは脱皮を繰り返す蛇に、森の再生のシンボルとしての意味を見い出せるかも知

れない。



良くキリスト教は一神教と言われるが、私はそうは思わない。父・子・聖霊の3つの姿が互いに与え

尽くしている姿、三位一体はそのことを指し示しているのではないかと思う。



言葉では偉そうに「与え尽くす」と簡単に言うことは出来るが、それを肌で知り、示すことは私には

出来ない。インディアンの「ポトラッチ」縄文時代での社会的緊張を緩和するために呪術的儀礼や

祭を通して平和で安定した平等主義、「与え尽くし」の社会。



ある意味でキリスト教の真実の姿を体現しているのが先住民族たちなのかも知れないと思うことが

ある。



まだまだ多くの疑問が私の中に横たわっているのだが、長崎・奄美から旅立った私の魂は、ブーメ

ランのように再びこれらの地に戻ろうとしているのかも知れない。



☆☆☆☆



「ガラガラ蛇からサイドワインダー、ヤマカガシまであらゆる種類の蛇がおった。

六〇匹はいたじゃろう。あちこちに動き回って、囲んでいる男たちの顔を見上げ

ていた。男たちは動かず、優しい顔つきで歌っているだけじゃ。すると、大きな

ガラガラ蛇が一人の老人の方に向かい、足をはい登り、そこで眠り始めた。

それから次々と蛇がこの老人に集まり、優しそうな顔をのぞき込んでは眠り始

めたのじゃ。蛇はこうやって心の清い人間を見分けるのじゃよ。」



コアウィマ(太陽を反射する毛皮)の言葉

「ホピ・宇宙からの聖書」フランク・ウォーターズ著より引用



☆☆☆☆



(K.K)



 

 


2013年7月5日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)


本日の夜明けは雨でしたが、ユーミン(松任谷由実)が結婚式を挙げたことでも有名な、開港後日本

最初の聖堂であるカトリック山手教会の写真を投稿します。



外観では長崎県を中心にレンガや石造りの素晴らしい教会があるのですが、山手教会の美しさも

日本有数と言われています。



この教会の中庭に立つ聖母像(白い像)は、今から145年前(1868年・明治元年)にフランスから贈ら

れたものです。



父の赴任先・佐世保で生まれた私にとって長崎は縁もゆかりもない土地でしたが、隠れキリシタンが

多く住んでいた黒島の教会(佐世保から船で50分)を大人になって訪れたときから、記憶に刻まれた

土地になりました。






「西海の天主堂」

木下陽一写真集 日本カメラ社








「ロマンと祈り、西海の天主堂 地上に現出したパライゾの寺」

谷口治達 本書より引用


「参ろうやナ

パライゾの寺に参ろうやナ

パライゾの寺とは申するやナ

広い寺とは申するやナ

広い狭いはわが胸にあるぞやナ・・・・・・・」

これは生月島に伝わる「サン・ジュアンさまの歌」の一節である。17世紀初めの殉教者を

記念する歌で、潜伏キリシタンの重要な会合の時、悲しみをこめて歌われたという。パラ

イゾは楽園であり、パライゾの寺とは教会、つまり天主堂のことであろう。潜伏キリシタン

にとって教会はただ胸の中にあるのみだった。長崎から九州西海岸を北へ、西海橋や

佐世保を経て田平まで、そして平戸島、生月島からはるか五島列島一帯を西海と呼んで

いる。黒潮洗うこの地域はパライゾと呼ぶにふさわしいロマンと祈りに満ちている。紺碧

の空と海、緑に輝く島々、その入江の奥の浦々の小高い丘に建つさまざまの教会が、美

しい風景をいっそう清らかに見せてくれる。ザビエルが平戸に立ち寄って神の福音を伝え

た15世紀以来、この地方の信仰の歴史は長いが、その間、江戸時代の250年は、信者

たちにとって殉難の歳月だった。耳をおおいたくなるような残酷な迫害の物語が各地に

語り継がれている。五島列島の信者の多くは、江戸中後期、長崎県西彼杵半島外海地

方の黒崎、出津などからの移住者といわれる。外海での厳しい信者追求や貧困を逃れ

ての移住だった。「五島へ五島へみな行きたがる。五島は優しや土地までも」と外海地方

で歌われた。五島は楽園のように思われたが、「五島は極楽、行ってみりゃ地獄」ともい

われ、島の生活適地は先住者が占め、信者たちが入植できたのはやせ地ばかり。悪条

件を信仰の情熱と仲間の協力で克服し、生き抜いてきたのである。幕末、黒船の圧力で

開国した時、潜伏キリシタンたちが許されたつもりで世に出ようとすると、またもひときわ

厳しい迫害の嵐が吹き荒れた。信仰の自由を得るまでに、なお悲しい血のいけにえが

必要だった。明治6年、ようやく禁教令が完廃され信仰が許されると、浦や村に次々と

祈りの場・天主堂が建ち始めた。胸の中にあったパライゾの寺が地上に現出し、それは

信者たちが潜伏から抜け出て、公然と力強く生きていこうとする意志の証のようでもあっ

た。・・・ 極東の島国日本の、そのまた最果ての地に福音を守り250年も迫害に耐え

抜いた選ばれた民がいるという報は、当時のローマ、フランス、スペイン等のカトリック

関係者たちに強い衝撃と感動を与えた。多くの神父たちがやってきた。彼らは宗教的

情熱だけでなく建築、土木、医学など広範な知識を持つ優れた人々であった。西海の

キリシタンたちが長い潜伏期、口伝えのため聖書の内容などを正さねばならなかった

し、厳しい条件下の生活の改善に力を貸す必要もあった。伝来当時、日本キリシタン

は神をデウスと呼び、教会は普通天門寺、南蛮寺などといっていたが、明治に来日し

た神父たちは中国布教で使っていた“天主”の言葉を使い、それが広がって建つ教会

は天主堂となった。明治前半は屋根に誇らかに十字架こそ掲げたが、建物は貧しい

一般民家と変わらなかった。外来の偉い神父の説教を聞くためにも、たくさんの信者

が一堂に会するためにも「もっと大きく広く、もっと厳そかな」天主堂が夢見られるよう

になった。やがて西欧から資金資材が届き、神父が建築指導もしたが、各地天主堂

は結局、地元信者が力を合わせ、なけなしの浄財を寄せ集め、地元の材料を生か

して造ったので、欧風教会建築といいながらも、土地の風土に対立せぬ、むしろ柔

和に融け合った建築が次々に生まれた。明治初期はむろん木造が主だったが、明

治末から大正、昭和と、より堅牢な構造に建て替えられていった。信者たちの愛と

奉仕と祈りが満ちて、レンガや石と固い材料が使われても、すべて眺めて心安まる

建物となった。


 




「天主堂巡礼」

織田寧人 写真集

BeeBooks 1993年

この写真集の幾枚かは「写真紀行 風に吹かれて」というホームページの中の

「天主堂巡礼」で見ることが出来ますので、是非ご覧になってくださればと思います。



御心の聖堂 黒島・黒島天主堂

(「天主堂巡礼」 織田寧人写真集 BeeBooks 1993年 より引用)


九十九島最大の島「黒島」は、佐世保市郊外の相浦港から55分のところにある。黒島は、

水島とも言われるほど豊富な湧水に恵まれた緑豊かな島であるが、人口は、昭和25年の

2400人をピークに今は半減している。島民の70%がカトリック教徒で、大半が漁業によっ

て生計を維持している。船が着く白馬港付近は島の中心であり、日本古来からの仏教徒の

村というところから本村といわれている。これに対してカトリック教徒が住む丘陵地を新村と

いい、佐賀県の馬渡島でも同様の例が見られる。その本村から急坂を上って行くと、商店

や学校のある新村の名切十字路にさしかかる。十字路から東西へはさらに上り坂が続い

ているが、南は海に向かって下っていて、坂の途中に煉瓦の天主堂が見える。最初の聖堂

は、パリ外国宣教会のペル神父によって明治12年に木造天主堂が建てられた。現在のロ

マネスク様式の聖堂は、ペル神父の後任のマルマン神父によって明治35年に設計・建造

され、クザン司教によって祝別された。途中、資金難に見舞われ、マルマン神父は募金の

ために一時帰国したという。このような交通不便な島で、建築費のかかるリブ・ヴォールト

天井の煉瓦天主堂を建造できたことが不思議なくらいである。それは、マルマン神父の情

熱と島民の血の滲む努力の賜物であろう。シスターへ挨拶をして、堂内に入る。高窓のス

テンドグラスの光が畳に映る光景を思い描いていたが、残念ながら長椅子に変わってい

た。生活様式の変化にともない、畳敷きの聖堂は次第に減少し、天草の崎津、島根県の

津和野、京都府の宮津を残すのみとなっている。主祭壇の床には有田焼のタイルが張ら

れ、ステンドグラスの光が影を落としている。天主堂の裏にまわると、司祭館へ上る石段

からは、祭壇上部の背面がよく見える。黒い瓦屋根と赤い煉瓦の円筒形アプス(後陣)

が、青空を背景に見事な空間構成を見せてくれる。マルマン神父は、この天主堂を「御心

の聖堂」と名付け、生涯、黒島を去ることなく島民と共に生きた。


 




2012年7月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。






「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」


マキシミリアノ・コルベ神父(1894〜1941)を紹介するサイト



アウシュヴィッツで餓死刑の身代わりを申し出、亡くなったコルベ神父(1982年、同じポーランド

出身のヨハネ・パウロ2世によって列聖を宣言される)、その姿を沢山の写真と共に紹介した

このサイトに心ひきつけられました。



聖フランシスコ修道会に入られたコルベ神父は、長崎に来られた数年間に「聖母の騎士修道院」

を設立し、現在でも月刊誌「聖母の騎士」が発行されています。



布教とは直接関係ないのですが、コルベ神父が大学時代、惑星間の旅行が物理的・生物学的

に可能であることを説明する論文を書いたり、修道院長時代、若い神学生とチェスをすることが

唯一の趣味だったりと、同じ領域に関心をもっていたことに驚きました。



しかし、それよりもこのサイトを通して、コルベ神父の言葉と行いに改めて感銘を受けています。



アウシュヴィッツでの話ですが、このサイトから印象に残った言葉を転載します。



☆☆☆☆



担ぎ出される死者には、永遠の安息を祈り見送ることが自分の務めなのだからと祈り続けられ、

他の人の身代わりになって殴打されたこともしばしばでした。



そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、「他の方々はいただいて

いませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられ

る食事でさえ大部分をいつも他の人に分け与え、痩せきっても優しい微笑みでこうおっしゃった

のだそうです。



「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことを反省して

います。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるで

しょう。その人たちに…」



☆☆☆☆




(K.K)



 


2013年6月10日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


「死者のための祈り」(長崎・平和祈念像 写真は1998年1月6日に撮ったものです。)



もう10数年前のNHKの番組で、病院に入院している一人のおばあさんが紹介されていた。



おばあさんの一人娘(小学生)は原爆で亡くなり、それ以降おばあさんは一人で生きてきたが、

当時のことを語ろうとせず、1枚残った女の子の写真を大切にされていた。



時が止っている、そう感じてならなかった。



平和祈念像は神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に

伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めて

作られた。



祈りの想いや手が、自分の外へと向くことができたらと思う。



「主よ、みもとに召された人々に、永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。」

詩篇130



 





(大きな画像)



「見果てぬ夢」




君は感じたことがあるかい

永遠と思われるほどの時空を超えて

君の黒い瞳を突き射す星々の瞬きを

僕たちが婚姻の祝杯をあげた丁度その時

ウォルフ359の星から船出したダイアモンドの輝きが

七年という孤独な暗い旅を経て

今まさに僕たちの目に飛び込むその瞬間

光の塊は弾け二人を過去に引きもどす



君は覚えているかい

長崎の黒島という小さな島に向かう船の中で

水しぶきがキラキラと舞い

僕と君の間に横たわっていた乾いた心を潤し

希望という種をまいたことを

もしこの小船に足を踏み入れることがなかったら

君は今頃違う屋根の下で暮らしていたかも知れない

それ程

この黒島への旅は奇跡としか思えないものだった



二人は確信した

この結婚を神は祝福してくれていると



その昔 迫害に追われた人たちは

どのような想いでこの海を見つめたのだろう

船はゆっくりと海と戯れる光と共に

海面を滑っていった



底知れぬ海の深さに似て

僕の嘆きはどれ程心の奥底に沈んでいったか

渡り鳥よ

何故僕を引き上げ天空へと導いてくれなかったのか  

お前たちは月明かりのない暗黒の洋上でも

ただ星を指標として飛び続けることができるではないか

若かりし僕は

その満天の輝きが我が身を突き射しても

心は震えず

水沫のように消え去った

あれから幾度緑なる星は

日輪への軌跡を刻み続けたことだろう

いつしか僕は君と巡り合い夢を見るようになった



君はまだ耳に残っているかい

街灯の白い炎が僕たちの足許を照らし

冷気ある静寂が二人を包容した時

僕は湧き出る想いを歌った

それは騎士遍歴の唄だった



夢は稔り難く

敵は数多なりとも

胸に悲しみを秘めて

我は勇みて行かん

道は極め難く

腕は疲れ果つとも

遠き星をめざして

我は歩み続けん

これこそは我が宿命

汚れ果てし この世から

正しきを救うために

如何に望み薄く 遥かなりとも

やがて いつの日か光満ちて

永遠の眠りに就く時来らん

たとえ傷つくとも

力ふり絞りて

我は歩み続けん

あの星の許へ

(福井峻訳「見果てぬ夢」騎士遍歴の唄)

(1985刊 「ラ・マンチャの男」パンフより)



そんな僕に君は真実の鏡を見せてくれた

そこに映し出されたのは醜いアヒル

騎士は騎士であることを捨てた

虚空と無念の翼を拡げて

アヒルは現実の世界へと旅立った

しかし

何を目指して飛べばいいのだろう

僕は感じた

このままでは永遠に牢獄に閉じ込められてしまうと



君は打ち拉がれた騎士に向かい

訴えた

あなたはドン・キホーテでいい

そして私はこれからサンチョ・パンサになる



冷気ある静寂の中でいつしか僕たちは

天空にきらめく星たちの懐に抱かれていた


祈りの散文詩集








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