「キリシタンの里 沈黙とオランショとサンタマリアと」 木下陽一写真集
創思社出版 より
隠れ切支丹の顔から 遠藤周作 もう15年ちかく前になるが、私は長崎から雨の降りこめる山道を越えて、黒崎 (現在の長崎県西彼杵群外海町黒崎)と呼ぶ漁村をたずねたことがあった。頂から 見おろすと、暗い白い牙のような波頭を見せ、小さな村はその海と背後の山とに はさまれて、寒く、わびしく孤独に見えた。この漁村をたずねたのは、ある学者の おかげで、村人の半分がカトリックであり、あとの半分が隠れ切支丹だということ を知ったからである。今では、隠れ切支丹は五島や生月にはいるが、長崎のちか くにはほとんど存在しないと勝手に思っていた私は、その著書を読んで早々、この 村を訪れようと思ったのである。村には煉瓦づくりのかなり立派なカトリック教会が あり(その教会はここのカトリック信者が奉仕でつくったのだという)、そこに村出 身の神父さんが住んでいた。たくましい体をしたその神父さんから、私はさまざま な話を聞いたが、ここではカトリック信者と隠れ切支丹とがあまり仲が良くないこ とや、太陽暦を使うカトリックと陰暦をつかうかくれとでは、復活祭もクリスマスも 別別の日にやるという話が印象的だった。「だからあなたも、カトリックといえば、 かくれは会うてくれんとですよ。私の紹介といえばなおだめでしょう。東京から来 たもんというて一升瓶ば持って行きなさい」 神父の忠告にしたがって私は村の雑 貨屋から一升瓶を買い、それを土産にして畑の中を歩き、教えられた隠れ切支丹 の家をたずねた。軒先から滝のように雨が落ち、暗い土間に農具と自転車がおい てあった。私はそこの爺さまと一時間ほど話し合った。なにか怯えたような、他国者 を警戒しているようなその眼の色を何とか変えようと試みたが、結局は無駄だった。 私は納戸神も見せてもらえず、ただ彼らの祈りをノートに幾つかとっただけだった。 「あんまり、話してはくれんかったとでしょ」 教会にもどると、神父ははじめからこの 結果がわかっていたというように笑った。しかし小説家の私には、あの怯えたような 暗い眼をみただけで十分だった。雨の中をふたたび山越えして長崎にもどりながら、 私は荒れた海をもう一度ふりかえり、寒い孤独なこの村が、長い歳月の間、どのよう に生きてきたかをあの老人の表情から思い浮かべたのだった。私はその表情の裏 にあるものを幾度もたぐろうと試みた。あの表情には、ただ他人を警戒するだけでな く、怯えたような哀しげな何かがある。どうしてあんな表情をかくれの老人はするの だろう。あれは単に長い間、他人にかくさねばならぬ宗教を信じてきたための顔だ ろうか、それとも別の何かがあるのだろうか。もつれた糸の芯をさぐるように、それ を噛みしめていたとき、私は一つのことに思いあたった。それは隠れ切支丹とは、 背教者たちの子孫であるという事実である。多くの人は「隠れ切支丹とは、迫害や 弾圧や禁制にもめげず、自分たちだけの信仰を守りつづけた強い人たち」と思いが ちである。しかし、見方を変えてみれば、彼らが子々孫々生きながらえてきたのも、 その祖先が“転んだ”ためではないのか。そして彼ら自身も、かつてその殉教者の ように、自分の信念と信仰を人々に告白する勇気もなく、毎年一回、踏絵を踏み、 表は仏教徒を装ってきたためではないのか。そしてそれゆえに、彼らは心の中でた えず殉教者たちと自分たちとを比べあわせ、うしろめたさと後悔と自己嫌悪を味わっ てきたのではないのか。それらの複雑な感情が長い歳月の間、かくれのあの怯えた ような哀しい表情をつくりあげたのではないのか。それに気づいたとき、私は隠れ切 支丹たちが、なぜマリア観音を拝んでいるかの心の秘密を知ることができるような気 がした。隠れ切支丹の研究によれば、統計的に彼らが役人や外部の目をかすめて 匿している聖物のなかで、聖母の肖像やマリア観音が、イエスそのものの絵や像よ りも多い。しかもその聖母の肖像のなかには日本の絵師に描かせたものがあり、 それを見ると、それはマリアというよりは彼ら自身の母親を思わせるものがあるので ある。エリック・フロムによれば、宗教は二つに分けることができる。一つは「父の宗 教」であり、もう一つは「母の宗教」である。「父の宗教」は、神は厳しい父親のように 人間の悪や罪に怒り、それを罰し、それを裁くことで成立している。しかし「母の宗教」 では、神はやさしい母のように、人間の犯した過ちに共に苦しみ、それを許そうとする ことで成り立っている。隠れ切支丹たちに、とくに聖母への愛着があったのは、彼ら がきびしい「父の宗教」より「母の宗教」にすがろうとしたからではないか。生きのび るために、彼らはおのれの本当の信仰を世間にかくさねばならなかった。生きのびる ために一年に一度、基督の顔に足をかけねばならなかった。生きのびるために、自 分たちがあたかも仏教徒であるかのように装わねばならなかった。そのたびごとに 彼らは自らの弱さ、意気地なさを噛みしめねばならなかった。“転び者”でありながら 信仰を棄てきれなかった者---それが隠れ切支丹の本質なのである。殉教するだけ の意志と勇気もなく、そのうしろめたさを味わいつづけたのが隠れ切支丹の心理なの である。そのような彼らにとって、怒り、裁き、罰する神は、あまりに怖ろしかったにち がいない。しだいに彼らは父なる神の代わりに、自分たちの切ない哀しみを一緒に 悲しんでくれ、その許しをとりつごうとする母なるマリアへの愛着が生まれたのは当然 である。そしてその母なるマリアのイメージが彼ら自身の「おっ母さん」に重なったと き、あのマリア観音や農夫の母のような聖母肖像が信仰の対象になったのである。 私は切支丹の歴史に二つの点で興味をおぼえる。一つは、それが日本が最初に西 洋と対決したした時代だからだ。しかもそれは、後の明治政府とは根本的に違う。 明治時代は外見、西洋の文明文化をあまねく受容したかのごとく見えるが、実は 日本人にとって距離感のあるものには眼をつぶり、受容しやすいものだけを摂取し た時代である。それに対して切支丹時代は、西洋文化の地下水ともいうべき基督 教---それは日本人の発想に異質的なものであり、対立的なものだった---にまと もにぶつかった時代だった。そのために明治時代に比べて、おびただしい血を流さ ねばならなかったのである。切支丹時代の第二の興味は、いま述べたように父なる 宗教である切支丹時代のヨーロッパ基督教が、ひとたび日本に布教されると、それ がいつか母なる宗教に変容されていったという点である。この変容にはもちろん、 迫害によって宣教師が追放され、殺され、教会は破壊され、残存信者は孤立せね ばならなかったという外部的事情にもよるだろう。しかし、一度西洋からの養分が 途絶えると、基督教も日本の風土と日本人的宗教心理のなかで、きびしい絶対者 の裁きの宗教から、やさしい母親の許しの宗教に変わらざるをえなかったのであ る。隠れ切支丹たちの宗教生活は、その日本人の風土と宗教心理を、あざやかに 教えてくれるもののような気が私にはするのだ。 (本書 より引用) 「長崎の天主堂 五島列島の教会堂」T・U・V DVD
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2012年7月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」 マキシミリアノ・コルベ神父(1894〜1941)を紹介するサイト アウシュヴィッツで餓死刑の身代わりを申し出、亡くなったコルベ神父(1982年、同じポーランド 出身のヨハネ・パウロ2世によって列聖を宣言される)、その姿を沢山の写真と共に紹介した このサイトに心ひきつけられました。 聖フランシスコ修道会に入られたコルベ神父は、長崎に来られた数年間に「聖母の騎士修道院」 を設立し、現在でも月刊誌「聖母の騎士」が発行されています。 布教とは直接関係ないのですが、コルベ神父が大学時代、惑星間の旅行が物理的・生物学的 に可能であることを説明する論文を書いたり、修道院長時代、若い神学生とチェスをすることが 唯一の趣味だったりと、同じ領域に関心をもっていたことに驚きました。 しかし、それよりもこのサイトを通して、コルベ神父の言葉と行いに改めて感銘を受けています。 アウシュヴィッツでの話ですが、このサイトから印象に残った言葉を転載します。 ☆☆☆☆ 担ぎ出される死者には、永遠の安息を祈り見送ることが自分の務めなのだからと祈り続けられ、 他の人の身代わりになって殴打されたこともしばしばでした。 そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、「他の方々はいただいて いませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられ る食事でさえ大部分をいつも他の人に分け与え、痩せきっても優しい微笑みでこうおっしゃった のだそうです。 「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことを反省して います。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるで しょう。その人たちに…」 ☆☆☆☆ (K.K) |
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