「大いなる遺産 長崎の教会」 三沢博昭・写真集

解説・川上秀人 智書房


 










長崎の教会

元日本二十六聖人記念館館長 結城了悟 (本書より引用)



本書は、長崎の教会についてのある洞察力によってまとめられることになった。その洞察力を起こさせた

のは、天主堂と呼ばれ、ほとんどが明治、大正時代に建てられた聖堂である。それらの天主堂の写真と建

築物の研究が本書の主要な部分を占め、この数ページが長崎の歴史上、その命の秘儀を見抜き、天主堂

が伝えるメッセージを理解するのに役立つ目的を持つ。



教会の命は、栄誉ある過去よりも将来に向かって開かれる現在にあるが、教会が深く根を張っている過去

にも大切な教訓がある。長崎の場合には、400年にわたる歴史の三つの時代、すなわち「宣教」、「殉教」、

「潜伏」は、消えない影響を及ぼしているし、経済、政治、あるいは文化的な先入観によって書かれた本より

も、450年ものあいだ、巡礼してきた神の民が真の歴史を物語る。



長崎の教会とは、現代、長崎県の全域に広がるカトリック長崎教区を意味する。400年前、この肥前国の一

部は幾つかの領地に分かれていたが、長崎を中心にして育てられたキリシタン文化や長崎文化の影響に

よって、明治初期、6藩、すなわち、大村、有馬、諫早、平戸、五島と対馬が一つの県に統合されるに至っ

て、そのことは大いに役立ったであろう。



西海の港の賛歌



天文19(1550)年8月に聖フランシスコ・ザビエルは初めて平戸に入った。したがって長崎の教会は、ちょうど

2000年に自分の誕生の450年を祝うことになる。



鹿児島から平戸までの海路を、ザビエルは三度通った。長崎県の西の海岸線沿いは祈りによって望まれる

収穫を準備する神秘家、種まく人の通る道であった。



平戸の教会は日本で最初ではなかったが、ザビエルの日々から現代まで消えることなくずっと続いた唯一の

教会である。ザビエルの平戸滞在は9月と10月だけであったが、その間、宿泊していた家の宿主・大村氏と

その家族の他100名ほどに洗礼を授けた。



ザビエルの伴侶コスメ・デ・トーレス神父は、その後1年間、司牧を続け、信者の数を増やして徹底的に育て

上げた。引き続いてガスパル・ビレラ神父、イルマン(修道士)・ルイス・デ・アルメイダとバルタサール・ガゴ

神父が教会を受け持った。ガゴ神父は松浦氏の有力な家臣であった籠手田(こてだ)一門に洗礼を授ける

と彼らはその教会の保護者となった。しかし、平戸で最初に教会を建てたのは、イルマン・ジョアン・フェルナ

ンデスであった。永禄7(1564年)、宮の町に「天門寺」と呼ばれた教会を建て、無原罪の聖母に捧げた。1567

年そこで亡くなるまで、フェルナンデスは平戸教会の愛される指導者であった。



長崎県内でキリストの教えの前に開かれる二番目の門は、横瀬浦であった。そこで1562年の夏にイルマン・

ルイス・デ・アルメイダは御助けの聖母に捧げた教会を建て、その教会で、1563年、トーレス神父の手から

大名・大村純忠は洗礼を受けた。祭壇の上からドン・バルトロメオ純忠を見つめる幼いイエズスの目が大名

の心に深い印象を与えた。同年、横瀬浦から二つの宣教の流れが進展していった。一つは横瀬浦の教会を

中心にして西彼杵(にしそのぎ)半島の殿や重臣たちが教えを受けに行き、もう一つはアルメイダ自身が、

純忠の兄であった有馬義直に呼ばれて島原を訪れ、宣教の許可を受け、口之浦での場所を提供された。



平戸、横瀬浦、口之浦・・・、1563年は福音宣教が急速に広がる年のようであったが、大村純忠の回心が反感

を招き、11月には横瀬浦は、反純忠派によって破壊され、宣教師たちは散っていった。この危機は厳しいもの

であったが、長くは続かなかった。1564年の春、アルメイダはトーレス神父と共に口之浦に戻った。福田がポ

ルトガル貿易の港として開かれると、そこも宣教の拠点になった。福田から西彼杵半島の海岸沿いの村々に

福音が述べ伝えられ、また、宣教師たちは長崎半島に渡って戸町でも宣教した。



また、1566年、アルメイダとイルマン・ロレンソは五島淡路守純定に招かれ五島に渡り、福江と奥浦に小聖堂

を建てた。病身で口之浦に戻ったアルメイダは、1567年の終わりごろ、トーレス神父と大村純忠との会合の

結果、ベルナルド長崎甚左衛門の城下町に派遣された。甚左衛門はアルメイダに居館近くの小さな寺を与え、

そこでアルメイダは宣教活動を始めた。1568年、トーレス神父も口之浦を去り、長崎を経て福田に立ち寄り、

そして秋ごろ、大村の城下町に入った。そこで三城城の近くに無原罪の聖母に捧げられた教会を建てた。次第

に宣教のテンポが速くなり、1569年長崎に派遣されたビレラ神父は甚左衛門の居館のそばにトードス・オス・

サントス(諸聖人)教会を建てた。ついに元亀1(1570)年の夏、志枝(苓北町)で開かれた宣教師会議で、新し

い布教長フランシスコ・カブラル神父は長崎についてのトーレス神父の計画の実現を命じた。秋には長崎湾内

にポルトガルの貿易港としての位置が決定し、1571年春、その港のそばの純忠が準備した土地では、新しい

港町長崎の最初の6町(文知町、外浦町、横瀬浦町、嶋原町、大村町、平戸町)が産声をあげた。トーレス神父

は自分の夢の実現を見ることなく、前年10月2日、志枝の教会で掃天していた。このようにザビエルの平戸到着

の20年後、諫早を除いて長崎の主な町に教会が建てられていた。



続く30年間(元亀1〈1570〉〜慶長5〈1600〉年)には戦いと迫害にもかかわらず、長崎では教会は広がり根を下ろ

し、1600年、すなわちザビエルの平戸到着の50年目には長崎はすでに「東洋のローマ」として知られ、最初の6町

の先端部に建てられた小さな教会は、のちに日本の建築様式の壮大な被昇天の聖母教会で司教・ドン・ルイス・

セルケイラの大聖堂となっていた。遠い対馬の大名・宗義智(そうよしとも)さえも受洗していた。長崎市では、1597

年最初の殉教者が出て、その26の証の光は全教会を照らし、信者の歩むべき道を示してた。



関が原合戦(1600)から徳川家康による宣教師の追放(慶長19〈1614〉年)まで長崎の教会に二つの流れが見ら

れる。長崎の町は再び発展をみて、キリシタン文化または長崎文化が栄え、サン・パウロ学院の活動を中心にし

て町づくり、祭、社会福祉、美術、音楽、国際交流などが行なわれた。



一方、最初に平戸(1598)のち大村(1605)と有馬(1612)で迫害が始まり、平戸と有馬では流血にまで発展した。

上五島では大島と崎戸から江の島と平島を通って有川へ行く海路を使用して、宣教師たちが活動の場を広げた。

しかし、1614年11月の初めには、長崎の教会の外見的な栄光が消えてしまった。数日間で教会の建物が破壊さ

れ、宣教師たちは追放され、あるいは潜伏したが、信者の心には信仰が残った。幕府と住民の戦いが始まる。

それまでの深信の組は殉教の組に改められ、もっともよく育てられた有馬領の教会は、激しい迫害を受けて殉教

者を多く出し、寛永15(1638)年の春、原城で消えてしまった。ところが浦上、外海(そとめ)、平戸、五島では信仰

が住民の中に生き続けていた。



潜伏教会



250年にも及ぶ弾圧にもかかわらず生き残った信者たちは祈りと苦難と希望の教会であった。その希望を支える

要因の一つは、1660年ごろ殉教した外海の伝道師バスチャン様の最期の言葉であった。バスチャンは群崩れと

かかわって捕えられ、2年間投獄されたのちに殺されたが、死を前にして信者を励まして「7世代後にはバテレン様

が戻り、信仰が自由になる」という意味の言葉を遺した。潜伏信者の間では子孫にその予言が伝承され、皆、忍耐

強くその日を待ちわびていた。冬には、秋にまかれた種が死んだように見えるが、実際には根を下ろしながら春を

待っている。同じようにキリシタンたちの信仰は苦しみによって清められ、深められていた。キリストの教えとかか

わりのない儀式的な信仰ではなく、イエスを中心にした信仰であった。信者たちは祈る教会であった。奥座敷で静

かに祈り、海を見下ろす山の岩陰で祈り、小さな漁船で漁をしながら祈る。時には神社に見せかけた殉教者の墓

の前でも祈った。



そして慶応元(1865)年3月のある日、春のそよ風が木々の枝を揺らすように、浦上村の農家から農家へささやき

声で、ある噂が広がった。「大浦のフランス寺にはサンタ・マリアの御像があるそうな」。数人の農民が確かめに行

き、「御子イエスを抱いている」とささやき合い、それがサンタ・マリアの御像であると確信した。サンタ・マリアの腕

から彼らに微笑むイエスが彼らを日本に戻ってきたバテレンに導いていく。遠いローマにいるパパ様から遣わされ

たバテレン様。その光景には抑えられていた司祭職の望みがよみがえる。あの歴史的な出会いの噂が揺れ動く

幕府の役人の耳に達する前に数人の信者は自分たちの息子を神学生にするためにプチジャン神父に託していた。



天主堂



天主堂とは「神の家」という意味であるが、そのような建築物を研究するにあたって忘れてはならない点が一つある。

そのような聖堂は、ある程度まで「人間の家」から生まれている。「浦上四番崩れ」と呼ばれた最期の迫害は、明治

元(1868)年から明治5(1827)年まで続き、長崎の新しい教会に対して春一番の強い風のようであった。嵐が去ると

信者に自由が戻ったが、この変化は正義に基づいて決定されたことではなく、諸外国の圧力と経済的理由で許され

たのであった。牢屋の門が開かれ高札が撤去されると、浦上の信者は着のみ着のままで長崎への道に乗ったが、

各牢屋の近くに粗末に埋葬された600名以上の犠牲者を残していた。しかし帰郷する人々は知らず知らずに大きな

宝物を携えていた。それは自分たちのためだけではなく、日本全国のために与えられる信仰の自由の始まりであっ

た。



しばらくたつと外国に亡命していて助かった神学生たちも日本に戻ってきた。皆の前途は険しかったが、心に湧き

出る復活の喜びに励まされて静かに仕事に就いた。その仕事の喜びの一つのしるしとして、長崎県の地図のうえに、

1軒、また1軒と天主堂の愛らしい姿が見えてきた。



あの時代には長崎の自然はまだ損なわれていなかった。空、山、島々と海は美しい彩りに調和し、小さな村々と離れ

島の信者の胸中は神を賛美してその自然を満喫していた。その賛美歌はそれぞれの天主堂に浸透していく。

「聖所にいます神をたたえよ、

そのゆるぎなき大空にいます神をたたえよ。

偉大なわざゆえに神をたたえよ」 詩篇第150

そのすべての最初の「神の家」には代表的な一つの特徴がある。礼拝の場所であると同時に「人間の家」と故郷の

温もりがある。民衆の心から生まれた教会であり、純粋な土着とその結果であった。自然が備える光彩と調和する

建築物。解放の喜びを味わう民の心と調和する信仰。



西海の天主堂、五島、平戸、外海、天草、長崎湾に残るその建築物を眺める時、唯一の完全な、そして最初の土着

の枝を物語るヨハネの福音書の言葉が浮かんでくる。

「御ことばは人間となり、われらのうちにその天幕をはった」

このような天主堂は、当時のフランスからの宣教師の誉れとなる。彼らは天主堂を設計し、最初の地元の建築家を

育て、建築施工を監督し、時には信者のために信者と共に働いた。そしてキリシタン時代の信仰の宝物を尊敬して、

その伝統に新しい生命を注いだ。プチジャン、ド・ロ・マルマン、ガルニエおよび他の明治時代の宣教師たちは、復活

した教会に対して果たしたと同じ役割を担った。



大浦天主堂は、のちに活躍するものに対して息吹きを与えたが、天主堂の建設の動きはもっと単純なところからも

発展した。もっとも古い天主堂、平戸の古江、伊王島の大明寺などは外観は普通の農家のようであって、その内部

は天上が高く、窓には簡単なオジーブがついているだけであった。使われた材料も地元産で特に柱や梁の材木は

民家に使われるものと同じ長さであった。その点から天主堂は一つの親しみやすい、すなわち空間が住まいの雰囲

気を感じさせる。



森の木が柱や梁となり、丘の粘土が炎の中で赤レンガに生まれ変わり、島の石材は基礎となり幅木を強力に支え

る。窓の色ガラスは自然の光彩が交錯する。田平天主堂の近くには、赤レンガが造られた場所が現在でも残って

いるし、黒島の石材はいまだに重宝され、また外海の出津ではド・ロ神父の多方面にわたる活躍を物語る話を聞い

たことがある。文化財として指定された出津の教会の建設の時に、ド・ロ神父は村の男たちと一緒に山に出掛けて

木を選び、材木を切る人々と森の中で夜を過ごしたのであった。



このすべての天主堂にはそれを建てた信者たちの汗と犠牲が染み込んでいる。唯一の石造りの天主堂で文化財と

して指定された頭ヶ島の天主堂を建てるために、ただ一つの自分の財産であった田畑を金に替えて建築にあてた

無名の信者もいた。



天主堂、その優美さ、その歴史は私たちに一つの大切な事実を語りかけている。神の家を建てる人が、心の中で

神との出会いを求めながらその家を使う人々にも心を留めなければならないということである。



20世紀における長崎の教会



長崎の教会に対する20世紀は静かな戦いと深い苦しみの過渡期の時代である。明治時代、信者は牢屋の門が開か

れたとき、自由と公に信仰を表すことの喜びを味わった。250年以上の間、悪政の犠牲者であった人々にとって、そ

のような状態は自分たちの立場の正しさの証明のようであった。寛永13(1636)年に殉教した小笠原玄也の言葉が

すでに現実化していると見えた。



「私たちが歩いている道は理解されず、皆、私たちの死が愚かなものだと思っています。しかし私たちが理解される

日がいつか来ると確信しています」



しかし、再び徐々に弾圧が始まり、信仰の自由という人権はまた制限された。この新しい試練は最期の迫害の経験

につながり、信者には、信仰を深め、聖人または福者として全世界に向かって列せられた日本の殉教者の証をもっ

と大切にするために役立った。ゆっくりした発展の時であった。



第2次世界大戦が長崎にとって原爆の悲劇そのものであった。信者のうちに犠牲者も多かったが、精神的な打撃を

乗り越えて傷跡を癒しながら新しい社会情勢に適応しなければならなかった。今まで拠点となっていた島々や小さな

村から信者が出てきて大きな町に住みつく。そのことで仕事と高い教育を受けられる可能性があるが、現代社会の

影響も受けることになる。



続く40年間にはさまざまな大きな行事や出来事が勇気と導きを与えた。永井隆氏の著書のメッセージにザビエル来

日の400周年記念行事(1949)、二十六聖人列聖100年祭(1962)と信徒発見の100年祭(1965)、そして特に教皇

ヨハネ・パウロ2世の来崎(1981)があった。



長崎の教会がたどるその道に過去と未来を結ぶ一つのシンボルが見られる。原爆によって瓦礫の山となった浦上

天主堂は、長崎教会の心に開いた傷のようであった。市民のある人々は人間の愚かさのしるしと平和への呼びかけ

としてそのまま残されるべきであるという意見を述べた。しかし、当時、山口大司教はもっと良い選択をした。浦上は

戦争に始まったものでもなく、戦争で死んだものでもなかった。天主堂の再建はキリシタン史の300年の記憶を留め、

もっと良い社会をつくるために信者に思想と心魂を与える。平和の宣言をするためには、瓦礫の山よりも生きている

教会が役に立つ。イエスの教えでは平和は恐怖によってではなく、愛の力によって築かれるのである。天主堂の再建

は、ちょぅど教皇ヨハネ・パウロ2世の司牧の訪問にあたって完成され、広島の平和記念公園の石碑に刻まれたメッ

セージに象徴される。



「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」



現代の社会情勢の中で、長崎の教会が自らの道を模索している時に、第2バチカン公会議は、全世界の教会に指針

を示した。



「教会は旅する神の民である」。その教会は開かれた教会であって善意のすべての人々と協力してキリストの教えを

述べ伝える使命を持つ。神の家は人間の家でもあって、その家に住む人は他の人々への奉仕のために努めなけれ

ばならない。



社会情勢の大きな変化とともに、美術、建築にも常にその変化が見られる。例えば典礼においては、新しい指導に

したがって教会の内部も変わり、装飾が簡素になって祭壇の位置も移動している。すべての試みが成功したとは言い

がたいが、確かに発展がある。ところが新しい聖堂の建築には、人が気づかない一つの特色が見られる。イエスは

エルサレムの神殿を次のように説明した。「私の父の家は祈りの家である」と。現代、その御父の家が建設あるいは

改造される時には、そのそばに「信徒会館」も付設されることになった。信徒会館は礼拝堂と対立するものではなく、

その要求である。公会議の指導に従って、信徒は、教会の活動では誰もがいっそう主人公となる社会の中で証し人

にならなければならない。



死の文化に対して生命の文化の証をするはずである。寛永13(1636)年に殉教した加賀山みやは背教をすすめる

人々に答えて、最期に書いた手紙には次のような理由を挙げている。「死んだあとの生命を捨てることは出来ません」

キリシタン時代には、信者は生命の文化を守るために生命さえも捨てる覚悟が出来ていたが、現代、生命を守るた

めに社会の中で神から与えられた生命の価値を証明する必要がある。建築物の外観は変わっても戦いは続く。長崎

教区の7万人の信者と共に生き、共に働くなら聖霊の導きを感じ、バチカン公会議の指導が形をとっていくことが分か

る。過渡期の時代であるので信者の数は恐らくそれほど増えないかも知れないが、根を深く下ろし道が準備される。

祈りに招く天主堂、奉仕を求める信徒会館。


「長崎の天主堂 五島列島の教会堂」T・U・V DVD

「天主堂物語」木下陽一写真集

「西海の天主堂」「天主堂巡礼」

「切支丹の里 沈黙とオラショとサンタマリアと

「祈りの海 キリシタンの里」

「海郷の五島」






2012年7月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。






「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」


マキシミリアノ・コルベ神父(1894〜1941)を紹介するサイト



アウシュヴィッツで餓死刑の身代わりを申し出、亡くなったコルベ神父(1982年、同じポーランド

出身のヨハネ・パウロ2世によって列聖を宣言される)、その姿を沢山の写真と共に紹介した

このサイトに心ひきつけられました。



聖フランシスコ修道会に入られたコルベ神父は、長崎に来られた数年間に「聖母の騎士修道院」

を設立し、現在でも月刊誌「聖母の騎士」が発行されています。



布教とは直接関係ないのですが、コルベ神父が大学時代、惑星間の旅行が物理的・生物学的

に可能であることを説明する論文を書いたり、修道院長時代、若い神学生とチェスをすることが

唯一の趣味だったりと、同じ領域に関心をもっていたことに驚きました。



しかし、それよりもこのサイトを通して、コルベ神父の言葉と行いに改めて感銘を受けています。



アウシュヴィッツでの話ですが、このサイトから印象に残った言葉を転載します。



☆☆☆☆



担ぎ出される死者には、永遠の安息を祈り見送ることが自分の務めなのだからと祈り続けられ、

他の人の身代わりになって殴打されたこともしばしばでした。



そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、「他の方々はいただいて

いませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられ

る食事でさえ大部分をいつも他の人に分け与え、痩せきっても優しい微笑みでこうおっしゃった

のだそうです。



「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことを反省して

います。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるで

しょう。その人たちに…」



☆☆☆☆




(K.K)



 


2013年6月10日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


「死者のための祈り」(長崎・平和祈念像 写真は1998年1月6日に撮ったものです。)



もう10数年前のNHKの番組で、病院に入院している一人のおばあさんが紹介されていた。



おばあさんの一人娘(小学生)は原爆で亡くなり、それ以降おばあさんは一人で生きてきたが、

当時のことを語ろうとせず、1枚残った女の子の写真を大切にされていた。



時が止っている、そう感じてならなかった。



平和祈念像は神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に

伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めて

作られた。



祈りの想いや手が、自分の外へと向くことができたらと思う。



「主よ、みもとに召された人々に、永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。」

詩篇130



 





(大きな画像)



「見果てぬ夢」




君は感じたことがあるかい

永遠と思われるほどの時空を超えて

君の黒い瞳を突き射す星々の瞬きを

僕たちが婚姻の祝杯をあげた丁度その時

ウォルフ359の星から船出したダイアモンドの輝きが

七年という孤独な暗い旅を経て

今まさに僕たちの目に飛び込むその瞬間

光の塊は弾け二人を過去に引きもどす



君は覚えているかい

長崎の黒島という小さな島に向かう船の中で

水しぶきがキラキラと舞い

僕と君の間に横たわっていた乾いた心を潤し

希望という種をまいたことを

もしこの小船に足を踏み入れることがなかったら

君は今頃違う屋根の下で暮らしていたかも知れない

それ程

この黒島への旅は奇跡としか思えないものだった



二人は確信した

この結婚を神は祝福してくれていると



その昔 迫害に追われた人たちは

どのような想いでこの海を見つめたのだろう

船はゆっくりと海と戯れる光と共に

海面を滑っていった



底知れぬ海の深さに似て

僕の嘆きはどれ程心の奥底に沈んでいったか

渡り鳥よ

何故僕を引き上げ天空へと導いてくれなかったのか  

お前たちは月明かりのない暗黒の洋上でも

ただ星を指標として飛び続けることができるではないか

若かりし僕は

その満天の輝きが我が身を突き射しても

心は震えず

水沫のように消え去った

あれから幾度緑なる星は

日輪への軌跡を刻み続けたことだろう

いつしか僕は君と巡り合い夢を見るようになった



君はまだ耳に残っているかい

街灯の白い炎が僕たちの足許を照らし

冷気ある静寂が二人を包容した時

僕は湧き出る想いを歌った

それは騎士遍歴の唄だった



夢は稔り難く

敵は数多なりとも

胸に悲しみを秘めて

我は勇みて行かん

道は極め難く

腕は疲れ果つとも

遠き星をめざして

我は歩み続けん

これこそは我が宿命

汚れ果てし この世から

正しきを救うために

如何に望み薄く 遥かなりとも

やがて いつの日か光満ちて

永遠の眠りに就く時来らん

たとえ傷つくとも

力ふり絞りて

我は歩み続けん

あの星の許へ

(福井峻訳「見果てぬ夢」騎士遍歴の唄)

(1985刊 「ラ・マンチャの男」パンフより)



そんな僕に君は真実の鏡を見せてくれた

そこに映し出されたのは醜いアヒル

騎士は騎士であることを捨てた

虚空と無念の翼を拡げて

アヒルは現実の世界へと旅立った

しかし

何を目指して飛べばいいのだろう

僕は感じた

このままでは永遠に牢獄に閉じ込められてしまうと



君は打ち拉がれた騎士に向かい

訴えた

あなたはドン・キホーテでいい

そして私はこれからサンチョ・パンサになる



冷気ある静寂の中でいつしか僕たちは

天空にきらめく星たちの懐に抱かれていた


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