「海郷の五島」 木下陽一著

くもん出版 より引用










心ひかれた五島列島の暮らしと風土 木下陽一

私がカメラを手にしてから、はや三十年近くの歳月がすぎていった。風景が好き

だった私は美しい九州の四季をテーマに各地を写し歩いたが、なかでも親友の

榊晃弘さんとはよく九重や阿蘇に出かけたものである。大船山のミヤマキリシマ

の撮影では、どしゃ降りの九重法華院温泉の満員の狭い部屋で一夜をすごした

懐かしい思い出が今でも忘れられない。カメラ雑誌の月例、そして全国コンテス

トにも熱心に応募した楽しい時代もあった。そんな私がライフワークに熱中して

いったのは、遠藤周作氏の小説「沈黙」を読んで「切支丹」に興味をもつように

なったからである。舞台となった西海の島々の風土のなかに、切支丹の里は

埋もれるように潜んでいた。これは写真と歴史が好きな私にとって興味つきな

い対象であった。そして最近では、とりわけ長崎県五島列島に深い関心を抱

いてきた。日本列島の遥かな西の果て、向こうは東シナ海が果てしなく拡がっ

ている。五島列島は、福江、久賀、奈留、若松、中通の五つの島を中心として

約百四十の島々からなっている。対馬海流に洗われ、温暖な気候と山と海の

幸に恵まれている。


五島へ 五島へと皆行きたがる

五島はやさしや 土地までも


と歌い継がれていた大村藩外海地方のキリシタンが、五島藩主五島盛運の申し出

に応じて、移住を始めたのは、時代はさかのぼって1797年からであった。キリシタ

ン禁制下の大村藩にあって、しかも間引きを強制されていたキリシタンたちにとっ

て、地下者から「居付」と軽蔑され、山間僻地のやせた土地や漁業にも不便な浜

に散在させられたとしても、ここが天国に勝る楽園に映ったのは当然だったかも知

れない。遣唐使の中継地として日本の歴史に登場して以来、倭寇の基地として大

陸に対して開かれていた五島が、キリスト教と関係をもつのは、フランシスコ・ザビ

エルが来日して十三年後の1562年のことであった。その後、秀吉の禁教令、徳

川政府の鎖国と政治は動いてゆく。五島のキリシタンも衰微の一途をたどるが、

しかし、信仰は外海からの移住者に引きつがれるのである。九州本土に吹き荒

れる弾圧の嵐も、ここではそれほど強くなかった。貧しくとも、信仰の自由に生き

ることは、何ものにも代えがたいものであったろう。1865年、長崎大浦に南蛮

寺が建てられ、これが教会であることを知らされた五島各地の代表が大浦を訪

れ、信仰を打ち明けるのであった。“復活”の日であった。やがて、長かった潜伏

の時代は終わる。迫害され、耐え忍んだ三百年の歴史は、日本と西洋の精神が

激しく対立した時代として、いまに特異な光を放っている。キリシタンの迫害と殉

教、そして、潜伏の歴史が、かえって、この土地の人たちの信仰を根強いものに

していったのであろう。いま島々の海を見下す、あるいは山あいの村々に煉瓦

や白い木造の美しい天主堂が建っている。そこでは、農漁民たちが労働でささく

れだった手を合わせて敬虔な祈りを捧げている。五島の美しい自然のなかで見

られるそれらの情景は、じつに感動的だ。その祈りには、幾代もうけつがれてき

た血と涙の歴史が秘められている。この西海の地に足しげく通いつめ、都会生

活では忘れてしまった、信仰とともにある暮らしをレンズを通して見つめ続けてき

た。そして、これまでに二冊の写真集「切支丹の里」 「祈りの海」にまとめるこ

とができた。その後は、その延長として、もっとも心をひかれる五島列島に懸命

に取り組んできた。五島には、古くは遣唐使や倭寇、朱印船にまつわる歴史

の痕跡が随所に残されており、近世のキリシタンの歴史とともに、多分に中

国、西洋の文化とわが国が接触した最前線の地としての色彩が濃い。地域

の特色が消えつつある現代、失われていく固有の文化や自然をフィルムに

定着してきた。五島列島の人々の暮らしの風景と風土を撮り続けてきた私の

熱い思いが伝われば幸いである。写真集に収録された作品は昭和五十五年

九月から五十九年八月までの四年間、二十回近く通いつめて撮影したもの

である。

(本書 より引用)


 


「長崎の天主堂 五島列島の教会堂」T・U・V DVD

「大いなる遺産 長崎の教会」三沢博昭・写真集

「天主堂物語」

「西海の天主堂」「天主堂巡礼」

「切支丹の里 沈黙とオラショとサンタマリアと

「祈りの海 キリシタンの里」






2012年7月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。






「命を捧げるほどの愛―マキシミリアノ・コルベ神父」


マキシミリアノ・コルベ神父(1894〜1941)を紹介するサイト



アウシュヴィッツで餓死刑の身代わりを申し出、亡くなったコルベ神父(1982年、同じポーランド

出身のヨハネ・パウロ2世によって列聖を宣言される)、その姿を沢山の写真と共に紹介した

このサイトに心ひきつけられました。



聖フランシスコ修道会に入られたコルベ神父は、長崎に来られた数年間に「聖母の騎士修道院」

を設立し、現在でも月刊誌「聖母の騎士」が発行されています。



布教とは直接関係ないのですが、コルベ神父が大学時代、惑星間の旅行が物理的・生物学的

に可能であることを説明する論文を書いたり、修道院長時代、若い神学生とチェスをすることが

唯一の趣味だったりと、同じ領域に関心をもっていたことに驚きました。



しかし、それよりもこのサイトを通して、コルベ神父の言葉と行いに改めて感銘を受けています。



アウシュヴィッツでの話ですが、このサイトから印象に残った言葉を転載します。



☆☆☆☆



担ぎ出される死者には、永遠の安息を祈り見送ることが自分の務めなのだからと祈り続けられ、

他の人の身代わりになって殴打されたこともしばしばでした。



そんなコルベ神父に看護係がこっそりと一杯のお茶を持って行っても、「他の方々はいただいて

いませんのに、私だけが特別扱いを受けては申し訳ありません」と固辞され、わずかに与えられ

る食事でさえ大部分をいつも他の人に分け与え、痩せきっても優しい微笑みでこうおっしゃった

のだそうです。



「私は若い時から様々な苦難には慣れていますが、人にまでその無理を強いたことを反省して

います。私のことでしたら心配はいりません。私よりも誰かもっと他に苦しんでいる人がいるで

しょう。その人たちに…」



☆☆☆☆




(K.K)



 


2013年6月10日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



(大きな画像)


「死者のための祈り」(長崎・平和祈念像 写真は1998年1月6日に撮ったものです。)



もう10数年前のNHKの番組で、病院に入院している一人のおばあさんが紹介されていた。



おばあさんの一人娘(小学生)は原爆で亡くなり、それ以降おばあさんは一人で生きてきたが、

当時のことを語ろうとせず、1枚残った女の子の写真を大切にされていた。



時が止っている、そう感じてならなかった。



平和祈念像は神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に

伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めて

作られた。



祈りの想いや手が、自分の外へと向くことができたらと思う。



「主よ、みもとに召された人々に、永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。」

詩篇130



 





(大きな画像)



「見果てぬ夢」




君は感じたことがあるかい

永遠と思われるほどの時空を超えて

君の黒い瞳を突き射す星々の瞬きを

僕たちが婚姻の祝杯をあげた丁度その時

ウォルフ359の星から船出したダイアモンドの輝きが

七年という孤独な暗い旅を経て

今まさに僕たちの目に飛び込むその瞬間

光の塊は弾け二人を過去に引きもどす



君は覚えているかい

長崎の黒島という小さな島に向かう船の中で

水しぶきがキラキラと舞い

僕と君の間に横たわっていた乾いた心を潤し

希望という種をまいたことを

もしこの小船に足を踏み入れることがなかったら

君は今頃違う屋根の下で暮らしていたかも知れない

それ程

この黒島への旅は奇跡としか思えないものだった



二人は確信した

この結婚を神は祝福してくれていると



その昔 迫害に追われた人たちは

どのような想いでこの海を見つめたのだろう

船はゆっくりと海と戯れる光と共に

海面を滑っていった



底知れぬ海の深さに似て

僕の嘆きはどれ程心の奥底に沈んでいったか

渡り鳥よ

何故僕を引き上げ天空へと導いてくれなかったのか  

お前たちは月明かりのない暗黒の洋上でも

ただ星を指標として飛び続けることができるではないか

若かりし僕は

その満天の輝きが我が身を突き射しても

心は震えず

水沫のように消え去った

あれから幾度緑なる星は

日輪への軌跡を刻み続けたことだろう

いつしか僕は君と巡り合い夢を見るようになった



君はまだ耳に残っているかい

街灯の白い炎が僕たちの足許を照らし

冷気ある静寂が二人を包容した時

僕は湧き出る想いを歌った

それは騎士遍歴の唄だった



夢は稔り難く

敵は数多なりとも

胸に悲しみを秘めて

我は勇みて行かん

道は極め難く

腕は疲れ果つとも

遠き星をめざして

我は歩み続けん

これこそは我が宿命

汚れ果てし この世から

正しきを救うために

如何に望み薄く 遥かなりとも

やがて いつの日か光満ちて

永遠の眠りに就く時来らん

たとえ傷つくとも

力ふり絞りて

我は歩み続けん

あの星の許へ

(福井峻訳「見果てぬ夢」騎士遍歴の唄)

(1985刊 「ラ・マンチャの男」パンフより)



そんな僕に君は真実の鏡を見せてくれた

そこに映し出されたのは醜いアヒル

騎士は騎士であることを捨てた

虚空と無念の翼を拡げて

アヒルは現実の世界へと旅立った

しかし

何を目指して飛べばいいのだろう

僕は感じた

このままでは永遠に牢獄に閉じ込められてしまうと



君は打ち拉がれた騎士に向かい

訴えた

あなたはドン・キホーテでいい

そして私はこれからサンチョ・パンサになる



冷気ある静寂の中でいつしか僕たちは

天空にきらめく星たちの懐に抱かれていた


祈りの散文詩集








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アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

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