「人類の起源」フィオレンツォ・ファッキーニ著
イヴ・コパン 序文 片山一道 監訳
(本書より引用) 本書は人類の起源と進化の研究を紹介したものである。最初の数章は、入門的な内容になって おり、古人類学とは何か、進化とは何か、化石とはどんなものか、どのようにして化石の年代を 知ることができるのか、などの一般的な問題を解説している。 入門編の後は、霊長類、ヒト上科、ヒト科、ヒト属の順序で人類進化の大きな流れが解説してあ る。ヒト属に至ると、文化的な要因も重要になってくる。ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、ホモ・ サピエンス・アルカイコ、ネアンデルタール人、ホモ・サピエンス、サピエンスは、いずれも種の違 いではない。ひとつの生物種に属するものが、文化の違いで異なった現れ方をしているのである。 旧石器時代全体を見た後に、新石器時代の人間の生活の様子(経済、文化、宗教、芸術)を解 説して本書は終わっている。 序文でイヴ・コパンは述べている。「この壮大な叙情詩の中で、人類の歴史、宇宙の発生、地球 の形成、生命の誕生、奇妙でちっぽけな哺乳類である人類の有りさま、そして人類の素晴らしい 文化など、すべてはひとつにつながっている。著者ファッキアーニは (中略) 小型の猿から大型 類人猿、木に登っていた前人類から技術、知識、言葉を持った現生人類に至る、私たち人類の たどってきた道筋を魔術師のように説き起こしてくれる。私たち人類も動物世界の出身であるの は明らかであるが、学習能力を持ったがために、本来備えていた動物的本能を失ったが、代わり にあらゆる威厳を持つようになったのである。」 |
古人類学の研究によって、人類の発生とは、霊長類の系統のひとつが進化の流れから逸脱する ことであったことが分かる。人類は他の種と違った、ひとつの新しい種であるだけではない。人類 は自分のまわりにある生態系の仕組みすべてを調節することができ、方向を変えることのできる 種類の動物なのである。人類はサルから進化したと言うべきだろうか。それよりもおそらく、人類 は知能の火花が点火した霊長類から進化したと言ったほうが正確だろう。高度な知能を持つこと や、直立姿勢をとれること、脳が発達していることで、人類は他の霊長類と区別することもできる のである。 現在の人類も、人類の遠い祖先も同様に持っていた精神的・知的な能力がどのようにしてでき上 がったものなのか、進化を認める者も、精神世界の存在を否定できない。精神世界は抽象能力 を持つ人類の文化の中にはっきりとその存在が認められる。知性と文化を生物学的な要素だけ で説明しようとするする人がいる。だがその方法は、科学的なやり方というよりは、観念的に成立 可能だと思い込んでいるだけのことである。その考え方は、他の動物と比べた場合、人類には 超越的な特性があるということを否定している。つまり思考力や企画力、生物学的な必要と無関 係なことをすること(無償の行動、道徳、宗教、芸術など)の能力を否定しているのである。 精神性は人類の根本的な特質である。だから、その存在ゆえに人類が他の動物を超越している と考えても、別に進化論と相容れないことはない。だが1世紀前には、それが相容れないものだと 考えていた科学者や哲学者が多かった。人類は進化の流れの中に(ちょうどひとりの人間が生 まれるように)突然現れたのである。人類は、それ以前に存在した動物や配偶子には全くなかった ような新しい特徴を持っている。それは神のごときものの介入によってもたらさられた絶対的な 新しさである。だからこそ、進化のある点で人類が発生した、などと言うこともできるのである。 哲学的あるいは神学的な論拠に基づいた進化論に対する反対意見は、少なくとも方法論的には まちがっている。そしてそれと同じで、進化論に立脚して人間の精神世界の存在を否定するのも まちがっている。 それは、相異なった相補的な方法論を用いて、ひとつの現実を異なる側面から見ているだけのこ とである。アメリカ合衆国のある宗派から出た科学的創造説という説は、認知の限界とアプローチ の仕方をでたらめに考えたために現れたものである。そして、それを支持する科学者までいる。 この説では聖書の創世記の最初の数章を文字通りに解釈して、聖書の話に科学的な意味を加え ようとしている。私たちが見るこの世界は、神によって数十万年前に直接創造されたもので、進化 はなかったのだというのである。彼らは、科学的な見せかけを持つような論拠をつけるために、 古生物学での資料の欠如と進化の仕組みのまだ明らかになっていない点を指摘して、進化論を 批判している。 聖書の記述が基づいているのは科学ではなく宗教だと考えるのは別としても、その科学的創造説 は、経験的な世界に、天地創造のようなたいへん哲学的で宗教的名考えを持ち込んでいるのは 明らかである。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世はこう言っている。「神による創造を正しく理解した 立場での信仰は、正しく理解された進化論と、決して相反するものではない・・・実際に創造がなけ れば進化はないのである。創造とは、進化の時間の中で常に起こり続けた出来事、連続的な創造 なのである。進化の中で、神を天と地の創造者として信者の前に姿を現しているのである」(「キリ スト教と進化論」についての国際シンポジウムでの演説、オッセルヴァトーレ・ロマーノ 1985.4.27) 対立するのは、進化論と創造説ではない。創造者である神の計画に進化が依存しているのだという 認識と、完全に偶然の出来事によってのみ進化していくのだという認識の二つが対立するのである。 もうひとつの重要な問題は、地球上での人類の目的意識と未来の構築である。この重要な問題は、 上に記したように人類の精神性の問題なので、科学の表面に収まるものではない。だが、ある面で は現実の科学の思考法に関わりを持つものでもある。世界あるいは生物界と人類が、偶然の結果 できたものか、それとも計画性の下につくられたものなのかという問題は、人類と人類の未来にとっ て非常に重要なことである。人類の負う役割と責任を考えれば、偶然の闇の中でさまようよりも、神 の計画という光の中を進むほうが、ずっと有意義であるに違いない。 この点に関して、科学は視野を広げて、それらを説明するということよりも、ずっと重要な問題を考 えるべきである。物理科学の法則に支配された世界を研究し、はっきりした特性とさまざまな形態 を持った生物の構造を調べ、人類についてもそのようなことすべてを明らかにして、もって人類の 特性を解明したのだと満足していてはいけない。意味の領域で見直してみる必要がある。だがたん に世界の表層だけを見る科学からは、意味までは分からないだろう。さらに科学は、環境を管理す る、そして未来を準備するという人類の責任にすていも考えなければいけない。それを考えることの できるのは、生物界の中でも、本当に人間だけなのである。 生物の歴史の中で、進化の面だけから見れば、人類は成功してきたと言うこともできる。だがそれは これまでの話であり、これからのことには何の保証にもならないし、どんな未来ももたらしはしない。 人類と地球、そして人類の現在と過去は深く結びついている。すべての人類は、ひとつの遺伝的な 基盤の中でひとつにまとまっていて、これからの地球上でひとつの運命として結びつけられている。 重要なのは、人類の未来のために、文化と精神の面で団結することなのである。それは人類共通 の威厳の意識であり、そして人類の未来を決める共通の認識なのである。
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U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art | Science
ネアンデルタール人が描いた6万4800年以上前の壁画
Neanderthals were artistic like modern humans, study indicates - Bintroo 1913年の論文に掲載されたスペインの洞窟壁画を写した絵=サイエンス誌提供 ネアンデルタール人が描いた? 世界最古の洞窟壁画:朝日新聞デジタル より以下引用。 スペイン北部の世界遺産のラパシエガ洞窟の壁画が世界最古の洞窟壁画であることが国際研究チームの調査でわかった。 現生人類は当時欧州におらず、絶滅した旧人類ネアンデルタール人が描いたものとみられる。22日付の米科学誌サイエンス 電子版に発表された。 研究チームはラパシエガ洞窟など3カ所で動物や手形などの線描の部分に含まれる天然の放射性物質を高精度な年代測定法 で調べた。三つとも6万4800年以上前に描かれたものだとわかった。 現生人類がアフリカから欧州にやってきたのは4万〜4万5千年前とされる。1万数千年前のアルタミラ洞窟(スペイン)や約2万 年前のラスコーの洞窟(フランス)など、これまでの洞窟壁画はすべて現生人類が描いたと考えられてきた。 4万年前に描かれたスペイン北部のエルカスティーヨ洞窟の壁画がこれまで最古とされてきたが、さらに2万年さかのぼる古い 洞窟壁画と確認されたことで、研究チームは「すでにいたネアンデルタール人が描いた洞窟壁画だ」としている。ネアンデルタール 人は現生人類に近い種で、約40万年前に出現し、4万年〜2万数千年前に絶滅した。 ラパシエガ洞窟の壁画には線を組み合わせたはしごのような図形もあった。抽象的な考えを具体的な形で表す「象徴表現」の 可能性がある。人類の進化に詳しい佐野勝宏・早稲田大准教授は「象徴表現は現生人類のみが生まれつき持つ固有の認知能力 という考えが多数派だった。今回の年代が正しければ、ネアンデルタール人にもこの能力があったことになる」と指摘している。 |
2012年8月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |
2012年6月28日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 (大きな画像) 氷河期の記憶(写真は岩田山公園にて撮影) 太陽の魂、暖かさを地上にもたらす鳥の伝説は2月5日に投稿した「ワタリガラスの伝説」があるが、 寒冷地に住む民族ほどこのような伝説を産みだしやすいのかも知れない。 このような伝説は、7万年前から1万年までの最終氷期を生き抜いた人類が子孫に伝える教訓とし て伝説や神話の中に生きている。 自身の「死の自覚」から神(創造主)との接点、それが神話の誕生に繋がったのかも知れないし、 それらはほぼ同時期に産まれたのかも知れない。 世界屈指の古人類学者のフアン・ルイス・アルスアガは、「死の自覚」が今から40万〜35万年前の ヒト族に芽生えたと言っているが、それは我々の祖先と言われてきたミトコンドリア・イブ(約16万年 前)よりも遥かに古い時代である。 エレクトゥス(100万〜5万年前)、ハイデルベルゲンシス(60万〜25万年前)、ネアンデルターレンシス (35万〜3万年前)のヒト族は既にこの世界から絶滅しているが、もし彼らに「死の自覚」、神との接点、 神話があったとしたら、それはどのようなものだったのだろう。 そして現生人類(我々)の最古の宗教であるシャーマニズム、そして現存する多くの宗教はどのよう に関わっているのだろう。 2010年に現生人類(我々)の遺伝子にはミトコンドリア・イブだけでなくネアンデルターレンシス(ネア ンデルタール人)の遺伝子がある可能性が指摘されたが、今後の遺伝子研究や発掘により、彼らの 真実が明らかになってくることだろう。 ただどんなに過去や未来に想いを馳せようが、我々は今この瞬間を生きていることだけは確かな ことかも知れない。 過去未来に関わらず、すべての生命がそうであった(ある)ように。 (K.K) |
2012年1月20日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2012年1月18日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 |
2013年6月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。 (大きな画像) バタフライ星雲(惑星状星雲 NGC6302)(写真はNASAより引用) 惑星状星雲は恒星が死の間際に膨張し、ガスを放出する姿のことですが、まるで宇宙空間を羽ばたく 蝶のようですね。 この星雲は「さそり座」の近く、地球から約3800光年離れたところにありますが、この恒星のガスの 放出は、2200年にわたり時速96万キロ以上の速さで広がりつつあるようです。 私たちの太陽も約63億年後に、赤色巨星から惑星状星雲になっていきますが、気が遠くなる未来ですね。 未来で思うのですが、現生人類(今の私たち)の寿命ってどのくらいなのかと考えたことがありました。 と言いますのも、現生人類が進化の最終段階であると断言することは誰もできないと思ったからです。 1万2000年前まで生きていたフロシエンシス(「指輪物語」で登場するホビットに例えられる)は約6万年、 現生人類が出現する前のネアンデルタレンシスは約30万年、ネアンデルタール人と現生人類の最後の 共通祖先ハイデルベルゲンシスは40万年の寿命を持っていました。 私たち現生人類がアフリカで誕生したのは約20万年前と言われていますが、たとえどの地点に現生人類 が置かれていても、私たちは今ここに生きている、ことは揺るぎない事実なのかも知れません。 地球上に生命が誕生して以来、多くの生命がそうであったように。 ☆☆☆☆ |
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