「柳澤桂子 いのちのことば」柳澤桂子 著 集英社







本書 より引用



次第に動けなくなっていく身体。

すべての望みは絶たれ、私は暗闇の中に放り出された。

医学からも見放され、孤独と絶望の中から生を見つめると、

それは赤々と炎のように輝いているではないか。

そのとき、私は科学を突き抜けたところで「いのち」を見たと感じた。

私は、生命を科学的に見る目に加えて、生命をもつか弱きものとして、

「いのち」の底から上を見上げる目をもつようになった。




病気の激しい苦痛の中で、私の感受性は次第に研ぎ澄まされ、

自然の変化への感動を深めていく。その感情は祈りにも似て、

私自身を自然の中に深く溶け込ませていった。

やがて、私は宇宙の鼓動を感じるようになる。

宇宙のリズムにあわせて、自然の中に自分を浮遊させているときに、

苦痛が安らぐのを感じた。




 


本書より抜粋引用



地球上に生物として生まれてくることは、

残酷なような気がしてなりません。

人間も例外ではありません。

生まれたいかどうかも聞いてもらえず、生まれてしまうのです。

そして、どんな状況でも生きなければなりません。

ですから、少しでも幸せなことがあれば、

心から感謝して生きなければなりません。

それが唯一、この不条理から逃れる方法だと思います。





ものを所有することにとらわれないで、

存在そのものに喜びを感じるようになることが、

幸せへの道になると思います。

物欲を捨てることです。これは人間にとっては、

むずかしいことですが、心がけし次第で、

少しずつものに対する執着を絶つことができます。




私たちは、死を運命づけられてこの世に生まれてきた。

しかし、その死を刑罰として受けとめるのではなく、

永遠の解放として、安らぎの訪れとして

受け入れることができるはずである。




 


本書より抜粋引用



生きものとしての私たちを考えると、

「生きる価値のない生」というものはないと思います。

ある頻度で遺伝的に障害をもった子供は生まれてきますが、

そうした多様性が維持されるシステムこそが

遺伝子の本質なのです。




障害児を中絶するケースが多くなると、

障害をもった子供を産むことに

罪悪感を感じるようになるのではないかと心配する人もいます。

人類という集団の中には、かならず、

ある頻度で障害をもった子供が生まれてきます。

すべての障害児を中絶しても、障害児は次々と生じてきます。

それが、私たちのもつ遺伝子の本質なのです。




私たちが生まれるときにどのような遺伝子を授かるかは、

誰にもきめることができません。

障害をもっている人は、私が受け取ったかもしれない障害の遺伝子を、

私に代わって受け取ってくれた人です。

障害をもった人が快適に過ごせるように、

私たちはできるかぎりのことをしなければならないと思うのです。





孫の顔を見るたびに、

「すまない」という気持ちが働く。

そうではなくて、

「十分に生きることを楽しんで」

といえるように、

私たち、地球の先住者は、

できるかぎりの

対策を講じなければならない。



 

 



命と原子力共存できぬ

~ 3・11からの再生 ~生命科学者 柳澤桂子

Aloe*Wing 命と原子力共存できぬ ~ 3・11からの再生 ~ 生命科学者 柳澤桂子 から引用しました。



これまで命や環境に関する本を50冊余り出しました。そろそろ執筆がつらくなり、人生最後の本のつもりで、

地球温暖化と原子力発電の恐ろしさについて書きました。その原稿を仕上げて整理をしていた3月11日、

福島第一原発事故が起きてしまいました。



最初に強調したいのは、わたしたち生物と原子力は、共存できないということです。生物は40億年前に誕生

し、DNAを子どもに受け渡しながら進化してきました。



DNAは細胞の中にある細い糸のような分子で、生物の体を作る情報が書かれています。わたしたちヒトの

細胞は、DNAを通じて40億年分の情報を受け継いでいます。DNAは通常、規則正しくぐるぐる巻.きになって

短くなり、染色体という状態になっています。



生物の生存は誕生以来、宇宙から降り注ぐ放射線と紫外線との闘いでした。放射線も紫外線もDNAを切っ

たり傷をつけたりして、体を作る情報を乱してしまうからです。



一方、細胞にはDNAについた傷を治す「修復酵素」が備わっています。ヒトの修復酵素は機械のように複雑

な働きをします。しかし、大量の放射線にさらされると、酵素でも傷を修復できず、死に至ることがあります。



ヒトが短時間に全身に放射能を浴びたときの致死量は6シーベルトとされ、短時間に1シーベルト以上浴びると、

吐き気、だるさ、血液の異常などの症状が表れます。こうした放射線障害を急性障箸といいます。しかし0.25

シーベルト以下だと、目に見える変化は表れず、血液の急性の変化も見られません。



ところが、そうした場合でも細胞を顕微鏡で調べてみると、染色体が切れたり、異常にくっついたりしている

ことがあります。また、顕微鏡で見ても分からないような傷がつき、その結果、細胞が分裂停止命令を無視

して、分裂が止まらなくなることがあります。



それが細胞のがん化です。がんは、急性障害がなくても、ずっと低い線量で発症する可能性があるのです。

しかも、がんは、進行して見えるようにならないと検出できませんから、発見まで5年、10年と長い時問がか

かります。いま日本人の2人に1人ががんにかかり、3人に1人ががんで亡くなります。なぜこんなに多いのか。



わたしは、アメリカの核実験やチェルノブイリ原発事故などで飛散した放射性物質が一因ではないかと疑っ

ていますが、本当にそうなのかそうでないかは、分かりません。この分からないということが怖いのです。さら

に、放射線の影響は、細胞が分裂している時ほど受けやすいことも指摘しておかなければなりません。



ぐるぐる巻きになっているDNAは、細胞分裂の時にほどけて、正確なコピーを作ります。糸を切る場合、ぐる

ぐる巻きの糸より、ほどげた細い糸の方が切れやすいでしょう?胎児や子どもにとって放射能が怖いのは、

大人よりも細胞分裂がずっと活発で、DNAが糸の状態になっている時間が長いためです。



わたしは研究者時代、先天性異常を研究し、放射線をマウスにあてて異常個体をつくっていたので、放射能

の危険性はよく知っていました。1986年、チェルノブイリ原発事故が起きた時、わたしはいったい誰が悪いの

だろうと考えました。原子力を発見した科学者か。原子力発電所を考案した人か。それを使おうとした電力

会社か。それを許可した国なのか。



いろいろ考えて、実はわたしが一番悪いのだと気付きました。放射能の怖さを知っていたのに、何もしてい

なかった。



そこで88年、生物にとって放射能がいかに恐ろしいかを訴えるため、「いのちと放射能」(ちくま文塵)を書き

ました。原発がなせダメなのか。第一に、事故の起こらない原発はないからです。安全性をもっと高めれば

よいという人がいますが、日本の原発も絶対に事故は起こらないといわれていました。福島の事故で身に

しみたはずです。



第二に、高レベル放射性廃棄物を子孫に押しつけているからです。処理方法も分からない放射能のごみを

残して、この世を去る。とても恥ずかしいことです。10年もしたら、みんな福島のことを忘れてしまうのではな

いかと心配です。



原発がないと困る人はたくさんいます。政治家は電力会社から献金を受け、テレビ局や新聞社は電力会社

の広告を流しています。原発は地元の町や村に雇用を生み、交付金などで自治体財政を潤します。それら

は生産すること、お金をもうけることです。いくらもうけても、原発事故で日本に住めなぐなったら何にもなら

ない。どうして政治家が気付かないのか不思議です。わたし一人の力は小さく、原発はなくなりません。



「福島のために何かしたい」とおっしゃる方はたくさんいます。ただ、福島産の物を買ってあげるとか、そうい

うことでしょうか。「自分」というものを考えてみる。生命とは何かをしっかり考えてみる。



そういう、根本的なことが大事な気がしています。それが福島のためであり、子孫のためになると思います。

繰り返します。生物と原子力は共存できません。原発は絶対にやめるべきです。



(聞き手 細川智子 道新11.8.29.)




美に共鳴しあう生命





柳澤桂子 | 話題の本 | 書籍案内 | 草思社 より画像引用


「生きて死ぬ智慧 心訳 般若心経」文・柳澤桂子 画・堀文子 英訳・リービ英雄 小学館

「いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしに生きる」柳澤桂子著 小学館

「愛蔵版DVD BOOK 生きて死ぬ智慧」文・柳澤桂子 画・堀文子 小学館

「われわれはなぜ死ぬのか 死の生命科学」柳澤桂子著 草思社

「永遠のなかに生きる」柳澤桂子著 集英社

「意識の進化とDNA」柳澤桂子著 集英社


柳澤桂子さんのホームページ 「柳澤桂子 いのちの窓」

心に響く言葉(2011年7月3日)・柳澤桂子(生命科学者)の言葉



「アメリカ先住民を知るための62章」阿部珠理・編著 第34章「ジェンダー」佐藤円 より抜粋引用


以上のような先住民の男性としての役割に不向きな男性には、女性として生きる機会が用意されている部族もあった。

彼らは一般にベルダーシュ(あるいはバーダッシュ)と呼ばれているが、肉体は男性でも女性の衣装を身にまとって女性

のように振る舞い、他の女性たちと一緒に女性の仕事にいそしんだ。彼らはいわば第三のジェンダーとして先住民社会

から認められ、部族によっては特別な能力をもつ存在として重用されていた。



次に先住民の親族制度からジェンダーを見てみると、アメリカ合衆国の北東部、南東部、南西部では、ほとんどの部族

において母系制が一般的であった。それらの部族では、結婚した夫婦は妻の家族と同居するか、妻の家族の近くに住む

ことが普通だった。また、母親こそが家族関係の中心で、生まれた子どもも母親から親族的アイデンティティを継承して、

妻側の親族の一員となった。妻は夫に経済的に依存しておらず、離婚も双方からの申し立てが可能で、離婚したら、家

は妻の財産であったため、夫が荷物をまとめて出ていった。母系制の社会では、母親の親族の男たちが子どもの養育に

責任をもつことが多かったため、離婚や死別によって父親を失った子どもも生活には困らなかった。この母系制における

父親という存在の希薄さは、男性の社会的役割が時として命の危険をともなうものであったため、万が一父親がいなく

なっても子どもの養育に困らないための仕組みであったと考えられる。



このように母系制が多数派を占めていたアメリカ先住民のなかで、平原地方の部族ではむしろ父系制が多かった。その

ような部族では、結婚した夫婦は夫の家族の近くに住み、父親が家族関係の中心で、生まれてきた子どもも父親の親族

の一員となった。しかしこのような父系制の部族でも、狩猟に加え農耕を行っていたところでは、女性が安定して食料を

確保できる作物の栽培という重要な仕事を担っていたため、必ずしも男性優位ではなかった。ところが平原地方に暮らす

部族の間に白人から手に入れた馬の使用が広まり、もっぱらバイソン狩りに依存した生活に転換すると、それを担った

男性たちの社会的影響力が増し、女性が男性に対してより従属的になっていったと考えられる。





本書 第53章「ベルダーシュ・・・『例外』を認める大らかな社会の象徴」」石井泉美 より抜粋引用


ベルダーシュとは、男性でも女性でもない「第三の性」として位置付けられ、アメリカ先住民の部族社会に存在を許された

人びとのことである。生物学的には男性、または女性であるが、身につけるものから発する言葉や声音、立ち振舞い、

果たすべき役割にいたるまで、生物学上の性とは反対の、もう一方の性とそれを模倣し、日々の生活もそのように過ご

す。ベルダーシュは男女ともにおり、文献上その存在が確認されているのは、アメリカ西海岸からミシシッピ川流域と五大

湖周辺までの広大な地域と東部フロリダ半島に、113の部族を数える。



女性のベルダーシュに限定すると、確認されている部族は30にとどまり、その分布も大平原以西に限られる。つまり、

ベルダーシュとは、先住民社会のどの部族においてもその存在が認められるわけではない。また、女性として生まれ

男性のように振る舞うベルダーシュよりも、男性として生まれ女性のように振る舞うベルダーシュの方が一般的であった。



先住民社会における、男性でもなければ女性でもないベルダーシュの存在は、一体どのように捉えたらよいのであろう

か。まず、彼らは「女々しい」や「男女」といった、からかいや嘲り、侮蔑の対象としてみなされたわけではなかった。異端

視され、社会の片隅で細々と暮らさなければならない人びとではなかった。ベルダーシュとは、先住民社会において、

畏敬、あるいは部族によっては畏怖の念を抱く対象とされた人びとであったのである。しかしながら同時に、先住民社会

とは、男女のあり方を性別による役割分業を明確化することで規定している社会でもある。ベルダーシュという、男性でも

ない女性でもない、どっちつかずの存在がなぜ先住民族たちの間で許されたのかを、「二分法」と「相互補完性という

先住民社会に共通の概念を基に考えてみたい。


(中略)


このように男女の役割が明確に規定され、その行為がアイデンティティの形成にもつながるのであれば、男女の境界線

を越えるベルダーシュの存在は一切許されないように思えるが、実際は違った。生物学上の役割として期待されたジェン

ダー・ロールを果たさずとも許されたのは、他の人にはない能力、特に超自然的な力が彼らには備わっていると考えられ

たためであった。



ベルダーシュの存在が確認されている部族社会においては、幼児期に本人が示した興味関心、または啓示体験のいず

れかがベルダーシュの誕生を決定づけたと考えられている。子どもが生物学上の性とは別の性がジェンダー・ロールに

興味を示した場合、その子がベルダーシュとして過ごしていけるようサポートするのが大人たちの役目であった。子どもの

意思確認のため、テストを行う部族もあったという。例えば、ノーザン・パイユート族では、候補となる少年を一枚の大きな

紙、または乾いた草の上に座らせ、弓と矢を一方に、もう一方には女性が手工芸品をつくるときに必要となる道具を置

き、座っている場に火を放って少年が逃げるときにとっさに手にしたものが彼の運命を決めると考えた。南西部に住む

パパゴ族においても、「藪テスト」なる実施が必須であり、場合によってはそのテストは何度も繰り返された。藪の中に入れ

られた少年は、放たれた火から逃れるとき弓矢とかごをつくる材料のどちらを手にするか、何度も試されたという。危険

極まりない状況に幼い子を置き、二者択一を迫るこの方法は、最初のテストで手にしたものと2回目以降のテストで手に

したものが違っていても構わない。つまりベルダーシュにはならないという選択をしてもよいということを表していた。





2013年8月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。


生命科学者の柳澤桂子さん、精神科医の神谷美恵子さんの言葉を紹介します。



私自身を含めて世界の多くの人に、この視点が心に灯りますように。



遺伝子の多様性がなければ、私たち人類はこの地球に生まれることさえ出来なかったでしょう。



もちろん私という存在も。



☆☆☆☆



「生きものとしての私たちを考えると、『生きる価値のない生』というものはないと思います。ある頻度で

遺伝的に障害をもった子供は生まれてきますが、そうした多様性が維持されるシステムこそが遺伝子

の本質なのです。」



「私たちが生まれるときにどのような遺伝子を授かるかは、誰にもきめることができません。障害を

もっている人は、私が受け取ったかもしれない障害の遺伝子を、私に代わって受け取ってくれた人

です。障害をもった人が快適に過ごせるように、私たちはできるかぎりのことをしなければならない

と思うのです。」



「柳澤桂子 いのちのことば」柳澤桂子著 集英社より引用



☆☆☆☆



「癩者に」



光りうしないたる眼うつろに

肢うしないたる体担われて

診察台にどさりと載せられたる癩者よ、

私はあなたの前に首を垂れる。



あなたは黙っている。

かすかに微笑んでさえいる。

ああしかし、その沈黙は、微笑みは

長い戦いの後にかち得られたるものだ。



運命とすれすれに生きているあなたよ、

のがれようとて放さぬその鉄の手に

朝も昼も夜もつかまえられて、

十年、二十年と生きて来たあなたよ。



何故私たちでなくてあなたが?

あなたは代って下さったのだ、

代って人としてあらゆるものを奪われ、

地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。



許して下さい、癩者よ。

浅く、かろく、生の海の面に浮かび漂うて、

そこはかとなく神だの霊魂だのと

きこえよき言葉あやつる私たちを。



かく心に叫びて首たるれば、

あなたはただ黙っている。

そして傷ましくも歪められたる顔に、

かすかなる微笑みさえ浮かべている。



「うつわの歌」 神谷美恵子著 みすず書房 より引用



☆☆☆☆






2014年5月13日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



独り言なのでコメントは不要です。



科学者、教壇で教える立場の学者、彼らに「地球に生きる全ての生命に思いを馳せる」資質が欠けているなら、

決して彼らを人々の上に立たせてはいけない。



原子力に限らず、他の学問(政治・経済・医学・哲学など)に対しても言えることだと思いますが、たとえそれに

よって人類の進歩が遅くなっても、後に生み出される多くの災難に比べると小さなことではないでしょうか。



頭が切れる、知能指数が高いのは優れている、その判断基準がまかり通った結果が現代の世界かも知れま

せんね。






2014年5月17日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。


表現の自由(問題となっている漫画のことではなく、以前から感じていることを書きます)



私にはとても出来そうにはありませんが、真剣に真実を追究する心構えがあるのなら、先入観を捨て相反

する立場の意見も真剣に聴く。



それでも「真実は違う」と確信したら、たとえ身のの危険が迫っても追求の手をやめない。



平衡感覚と覚悟、それが欠如している人間が「表現の自由」を盾に正当化すること、それは「表現の自由」

の姿をおとしめ、逆に言論統制へと突き進む扉を開くようなものです。



「表現の自由」とは関係ありませんが、社会福祉研究の第一人者であった故・一番ケ瀬康子さんの言葉が

心に残っています。



「熱き心と、冷めた頭の2つが必要不可欠」



最後に「表現の質」に関してですが、どんな情報にしろ先ず疑うように心がけています。



全てを疑うことなど人間不信に陥りそうで出来ませんが、偏向報道を見るにつけ、その心構えだけは心の

片隅に持っていたいものだと思います。





美に共鳴しあう生命







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