この小さな10坪にも満たない教会「ポルチウンクラ」はフラン シスコおよびその兄弟(修道者)たちにとって心の故郷と呼 ぶべき存在でした。 (サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の中にある)
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「神を待ちのぞむ」シモーヌ・ヴェイユ著 田辺保・杉山毅・訳 勁草書房 より以下抜粋引用 工場経験ののち、教職に復帰する前のこと、私の両親は私をポルトガルに連れていったことがありました。 ポルトガルで私は両親と離れ、一人で小さな村へまいりました。私は見も心も、いわばこなごなになっておりま した。不幸との接触は、私の青春を殺してしまったのです。それまで私は、私個人の不幸を除けば、不幸の 経験がありませんでした。私だけの不幸は個人的なものですから、私にはそれほど重要だとは思われません でしたし、そのうえそれは生物学的なもので社会的なものではありませんでしたから、半分の不幸でしかありま せんでした。この世界には多くの不幸が存在することをよく知っておりましたから、私はたえず不幸につきまとわ れてはおりました。しかしながら、不幸と長い間接触を保つことによって、その不幸を確認したということは一度 もありませんでした。無名の大衆といっしょになって、すべての人々の眼にも、私自身の眼にも、自他の区別の つきかねる工場内におりました時、他人の不幸が私の肉体とたましいの中にはいってまいりました。何ものも 私をその不幸から離れさせはいたしませんでした。と申しますのは、私は本当に自分の過去を忘れてしまって おりましたし、この疲労に打ち勝って生き長らえることができると想像することはきわめて困難でありましたから、 いかなる未来も待望していなかったからでございます。その時私が蒙りましたものは、いつまでも忘れられない ほどに私の心に印されましたので、今日でもなお、たとえいかなる人間にせよ、またどのような状況においてで あれ、私に対して粗暴でない話し方をいたしますときには、この人は間違っているにちがいない。その間違いは、 不幸なことに、たぶんうやむやに消散してしまうだろうという印象を抱かざるを得ないのです。その時私は、ローマ 人達がもっとも軽蔑した奴隷の額に押しつけた焼きごてのごとき奴隷の印を、永久に受け取ったのでありました。 それ以降、私はつねに自分自身を奴隷とみなしてまいりました。 このような精神状態と、悲惨な肉体的状況にあった私が、ああ、これもまた極めて悲惨な状態にあったこのポル トガルの小村に、ただ一人、満月の下を、氏神様のお祭りにのその日に、はいっていったのでした。この村は 海辺にありました。漁師の女達は、ろうそくを持ち、列をなして小舟のまわりを廻っていました。そして、定めし非常 に古い聖歌を、胸を引き裂かんばかり悲しげに歌っておりました。何が歌われていたのかはわかりません。ヴォル ガの舟人達の歌を除けば、あれほど胸にしみとおるものを聞いたことはありませんでした。この時、突然私は、 キリスト教とは、すぐれて奴隷達の宗教であることを、そして奴隷達は、とりわけ私は、それに身を寄せないでは おれないのだという確信を得たのでありました。 1937年、私はアシジで素晴らしい二日を過ごしました。聖フランチェスコが、そこでしばしば祈りを捧げたといわれ る、比類のない純粋さを保つ建物、サンタ・マリア・デリ・アンジェリの12世紀ロマネスクふうの小礼拝堂の中にただ 一人おりましたとき、生まれてはじめて、私よりより強い何物かが、私をひざまずかせたのでありました。 1938年、枝の日曜日から復活祭の火曜日に至る10日間をソレムで過ごし、すべての聖務に参列いたしました。 私はひどい頭痛に苦しんでおりました。物音がいたしますたびごとに打たれるような痛みをおぼえました。しかし 非常な努力をはらって注意を集中した結果、私はこの悲惨な肉体の外に逃れ出ることができ、肉体だけはその 片隅に押しつぶされて勝手に苦しみ、歌と言葉の未曾有の美しさの中に、純粋でしかも完全なよろこびを見出す ことができたのでした。この経験から類推いたしますと、不幸を通して神の愛を愛することが可能であることが、 一層よく理解できました。この地でのいろいろな聖務が経過するうちに、キリストの受難という思想が私の中に 決定的にはいってきましたことは、申しあげるまでもございません。 |