聖フランシスコ(フランチェスコ)大聖堂

下の紹介文は「Assisi 日本語案内書」より引用しています。


聖フランシスコ大聖堂の歴史


聖人が亡くなって、半年たった1227年の3月、アッシジのシモン・プッチアレロという人が、

当時、死刑場であったと伝えられる現在の地域を、聖フランシスコの弟子たちに寄附しまし

た。その翌年には、レオナルドモナルド氏が丘の斜面、つまり森の部分を寄附。その数日

後の7月16日に、教皇グレゴリオ9世はフランシスコを聖人の位に挙げました。そして翌日

には同教皇による大聖堂の定礎式と、事はとんとん拍子に進みます。その間、聖人の遺体

は、今 聖クララ教会のある所にあった聖ジョルジョ教会に葬られていました。それがこの

大聖堂に移されたのは1230年5月25日のことです。この大聖堂は3っの教会を重ねた

ものですが、下の聖堂は1230年に一応完成しており、上の聖堂は少しおくれて1239年

に出来上がったと見られています。


大聖堂の構想者


この壮大な大聖堂と、それに付属する大修道院を計画したのは、フランシスコ会の第二代

総会長となったフラテ・エリアです。彼は聖フランシスコの愛弟子でしたし、その多彩な才能

を聖人から高く評価されていました。歴史の流れの中で、フラテ・エリアの姿をゆがめて伝え

る人々がいましたが、今では彼が立派な修道士であったことが証明されています。







フラテ・エリア(エリアス)について


「聖フランシスコとその時代」ベラルド・ロッシ著 より引用


フランシスコの全生涯は、その毎日が新しさのしるしを帯びた絶えざる上昇に結ばれて、

まだ見ぬ地平線に向かう出発でした。彼はスポレトに、ローマに、スペインに、モロッコに、

中東に、そしてラ・ヴェルナの向こうの見知らぬ世界に出発したのです。・・・そして聖痕を

受けた後、死の世界に旅立ったのです。チェラノのトマスは次のように語っています。




「回心から20年の歳月が流れていた。そして、神の啓示によって知らされていたように、

最期の時が訪れようとしていた。その啓示とはこうだった。ベアト・フランシスコと兄弟エリア

が、フォリーニョに滞在していた時のことだった。ある夜、兄弟エリアの夢に、荘厳で高貴

な姿の白い衣を着た祭司が現れ、『兄弟、フランシスコのところへ行って、彼がキリストの

後を追って世を捨ててから18年が過ぎ、彼には後2年しか残されておらず、その後、主が

彼を天のみもとに呼ばれるだろうと、彼に告げなさい』と言ったのである。




死の数日前にフランシスコは次のようにエリアに告げたのです。「(ペルージャ伝)」




「あなたがフォリーニョで見た示現を、あなたは覚えていますか。その時あなたはわたし

に、ある人があなたに、わたしがあと2年しか生きられないと告げたと言いました。でも

あなたがその示現を見る前から、わたしは信徒たちの心にすべての良いことを勧め、

それを彼らの口に置かれる聖霊の恵みによって、昼も夜もわたしの最後に思いを馳せ

ていました。でも、あなたにその示現が示されてからは、わたしは毎日、死の準備に専

念してきました」。





「アッシジの人 聖フランシスコとその世界」エンデル書店より引用


フランシスコからは、何ともいえない流動性がでてくるが、人生の悲劇はかれをもまきこんだ。

この甘美の人にあっては、ちょっとびっくりするようなことだけれど。腹の底の容易にさぐれない

コルトナのエリアスは、巧みにフランシスコにとりいり、修道会を徐ろにしかも確実に自分の手

でうごかすようになった。名誉慾のふかいこの男は、修道会の指導を一手ににぎり、修道会内

に大きな混乱をまきおこさせる新しみを導入して、別方向に向かわせた。フランシスコに反対す

る者も現れた、「もうあなたをわれらの主とは思わない。あなたは名説教家ではなく、おしだしも

みすぼらしく、ものの考え方も単純すぎる。」 フランシスコは兄弟たちのこの考えに、いやいや

ながら応じて、あらゆる困難を謙虚に教会当局の力をかりずに、克服しようとした。フランシス

コは傷心のていで修道会を手ばなした。思わずも、うめきごえがもれ、深くなげいた。「私の反

対者である兄弟らは、災いなるかな。私の修道会と私の兄弟らを私の手からもぎとったのは

だれか。」 かれに対する公然たる反抗のきざしはなかった。かれはエリアスとの激突をさけ、

へりくだって身を屈し、いいようのない心痛をもって、かれの最愛の仕事をあきらめた。エリア

スがたずなを手にし、謙虚なこの修道会を有能な人材をもつ会とし、のちには大学の教授を

も輩出するようにしようとし、あまりごうまんにとりつかれたので、とうとう教会から破門されて

死んでいった(注・エリアスは臨終の際に聖フランシスコから破門を解かれる)。これに反して

フランシスコは、身を退き、初めのころをしみじみと味わい、癩患者の世話に没頭し、そのた

めゆたかに天のむくいをうけた。フランシスコとエリアスとの対立は、ごく単純な形でみられて

はならない。それは競争の問題であってエリアスの背後には、勉学に熱心な兄弟たちが、つ

いていた。フランシスコは科学の研究それ自体を拒否したのではなく、学者を尊敬し、書き

ものは、注意して、とりのけておいた。しかし兄弟らは、学者になりたがってはならない。知識

はひとをごうまんにするから。だからフランシスコ会の科学は、疑問視せねばならぬ。ボロニ

ャ管区長をフランシスコは災いなるかなとしたのは、見とおせないふくみをもっている。フラン

シスコは学者の名誉心をおそれ、試練のとき、学者である兄弟らはあまり信用できないと思

っていた。「隣人には大いに有益であるため、真の使命つまり、純粋な宗教的単純、祈り、

内面性、清貧を学問のあとにおきがちな人が多い。かれらはこのさい、聖者理解を通して、

信心や対神愛を深めると思っているが、実はこうして内心冷たく空しくなるばかりなのに」。

フランシスコの単純さは、未開発と同一視すべきものではなくむしろ、どんな学殖によって

も到達できない福音の深底に徹している。問題は、法王庁でむづかしくされた。法王庁に

もエリアスの手がまわったからである。精神はこの修道会の急速な成長と歩調がとれず

近代的にいえば、集団化が新しい問題を生みだし、これは法王庁によってフランシスコ

自身よりも鋭くみとめられた。法王は、「お前のあとにつづくもののことも考えなくてはなら

ない」といったが、この見解は的をはずしていない現実主義的な見方である。これに対し

てカリスマ(特恵)をうけているフランシスコは、もっぱら聖霊のみちびきにまかせて、一人

の人間がどこまで耐えられるかをよく知っていた。それでもあるとき心配そうに叫んだ。

「わが神よ、私の死後、おめぐみで罪人たる私に託された貧しき家族はどうなるのでしょう

か」。かれはわるい予感におそわれ、遂に天使から「われ神のみ名において告げるが、

汝の修道会は世の終わりまで、はてざるべし」と確約をえた。心配と天使のお告げとは

今日に至るまで通用し、現在のフランシスコ会士の多くをなぐさめている。この紛争をな

ぐさめて、光りはフランシスコ側に、闇はエリアスの側にあったとはいいきれない。こんな

単純な図式は複雑な事態をよく捉えてはいない。むしろどちらの例も正しかったわけで、

フランシスコは山をもゆるがす信仰をもち、エリアスと結託した法王庁も弱者を顧慮した

わけである。このどちらが、より正しかったか自問するほかはない。この紛争のこみ入っ

た悲劇は、フランシスコもエリアスもともにある真実をみ通した点にある。しかしこれこそ、

ギリシャ悲劇とちがうキリスト教的劇であって、ここでは人はかれの苦しみに遂にことばも

なくなるが、フランシスコの頭上には、あらゆる艱難にもかかわらず、いつも天上がかざ

されていた。・・・・・・・ワルター・ニッグ





「聖者の詩 わがアッシジのフランシスコ」武田友寿著 聖母文庫より引用。


ユダはキリストを売ったために悪人とされる。銀三十枚のために売ったのだから、弁解のしようは

ない。古来、何人もの文学者たちがこのユダに興味をいだき、さまざまのユダ像を描いた。ユダが

体現している人間性が、人それぞれに語りかける謎を秘めているからである。そのなかにイエスの

詩人性とユダの現実的才覚という解釈がある。イエスの破天荒の夢想性を生きることが、現実家

のユダには恐ろしかったのだ、というわけだ。たしかにこれには一理ある。イエスはだから、最後

の晩餐の席でユダと目を合わせたとき、その目のなかに裏切りの決意を見たのである。キリスト

とユダの関係はどこにでもある事例である。初期のフランシスカンのなかで、弟子・エリアはユダ

の影をひく人である。ピエトロ・ディ・カッターニの後を継いで、1221年、フランシスコ会の副総長

になった。フランシスコはこの弟子の反逆にもっとも心を痛めた、と伝記作者はこぞって叙述する。

だがエリアはほんとうに反逆者なのだろうか。たしかに彼は厳しい会則をゆるめたし、フランシスコ

の嫌う学校を作り、豪壮な聖堂を建て、弟子たちの雲水のような自由な伝道旅行を禁じた。フラン

シスコが注意しても、エリアは聞き入れなかったし、改心しなかった。しかも、サン・ジョルジュ教会

に埋葬されたフランシスコの遺体を、生前の彼がもっとも嫌ったエリアの建てた巨大なバジリカ聖

堂の地下に移す暴挙さえあえてした。エリアこそフランシスコにとって獅子心中の虫といったとこ

ろだろう。彼は師父の夢と理想と精神を裏切り、無視する人物として泛かんでくるのも無理はな

い。だがエリアは?・・・・・・・という問題はここに生まれてくる。


草創の人は「幻」を見ることのできる詩人でなければならない。つまり、ロマンティストという意味

だ。これは国家においても、社会においても、みんな同じだ。例が適切を欠くかもしれないが、清

盛、信長、秀吉といった人物たち、法然、親鸞、日蓮といった傑僧たち、内村鑑三、岡倉天心、

武者小路実篤といった人びと。何かをはじめた草創の人はみんなとてつもない夢を描き、語り、

求めて壮大に生きたのである。しかし、彼らの後を引き継いだ人はそうはいかない。夢よりも、

組織、集団、教団の維持発展を第一に考えなければならないのだ。夢を象徴に変え、思いつき

を制度にし、主情を殺して安定と持続におのれを捧げた。そのために後世の人は夢のない権力

者、非情の指導者、ソツのない管理者と見て小人視するのである。これは二代目以後の指導者

の宿命であろう。貧乏クジを引くのはいつも二代目、三代目なのである。創始者の広げに広げた

大風呂敷の尻ぬぐいをしなければならない割の合わぬ役目である。無事にその志を継いであた

りまえ、破産でもさせようものなら、途端に無能者呼ばわりだ。エリアはそういう役柄をあたがわ

れたご仁だろう。有能であればこそ、自分の役割を正しく自覚し、師父の夢を無視しても地上に

現れたフランシスコ共同体を守ろうと努めたのであったろう。フランシスコのような人間はふたり

とこの世には存在しない。それはあたかも、キリストが二人と存在しないのと同じ道理だ。いや、

ふたりと存在してはならないのである。いたら混乱をまねくだけだし、収拾がつかなくなる。彼は

本質的にアウトサイダーだからだ。組織や集団に聖なるものは似合わない。フランシスコの予想

をこえて、その貧者の円居は急激に膨張したのである。だからそのために、彼の死後にかなら

ず噴出するはずの問題がフランシスコの存命中にあらわれて彼を悩ませ、苦しめたのである。

しかしこの不幸が彼にあの「太陽の歌」を書かせる体験をもたらしたのだ、とぼくは考えたいの

だが、考えすぎだろうか。


ともかく、フランシスコの生き方や思想はあまりにも古典的なのである。たとえば福音至上主義

---つまりその素朴な信仰と実践。学問、知識の否定。自由気儘な旅の着想と実行。隠者の

生活。絶対的な無所有。吟遊詩好み。すべてが古典的であり、原始キリスト教的なのである。

しかし時はまさに13世紀である。ベネディクト会があり、ドミニコ会が生まれている。アウグス

チヌス、アンセルムス、アベラール、ダミアニなどのすぐれた教父たちの存在した時代を遠く

過ぎている。隠者ピエールが現われたのは11世紀のことである。その生き方をそっくり真似

たようなフランシスコの修道生活、宣教活動はアナクロニズムの印象を払拭しきれないよう

だ。まして、トゥルバドゥール全盛期は翳り、十字軍に夢をかけた時代も終わっている。だか

らこそ、フランシスコは13世紀人の魅力をひいたのだともいえようが、それだけでは充足で

きる時代ではなくなっているのだ。エリアは新しい時代を予見した人物ではなかったか。旧世

代と新世代の対立がここにある。大聖堂の建設と学問の奨励は新世代たちの要請だった。

やがてそういう時代がロジャー・ベーコンやトマス・アクイナスなどの天才を生む。





聖ボナヴェントゥラによるアシジの「聖フランシスコ大伝記」より引用


この本は、聖ボナヴェントゥラによるアシジの聖フランシスコのレヂェンダ・マーヨルです。中世に

おいて「レヂェンダ」という語は、「殉教者及び証聖者の生涯や功績を示すために、聖人たちの

祝祭日に“読まれるべき書物”という意味で用いられたものである。この語はその内容が歴史

的事実に基づくものではないというニュアンスは、全く持っていなかった」といいます。「レヂェン

ダ」は修道院の聖堂や食堂で朗読されるという目的を持っていました。フランシスコが亡くなって

から40年間にすでに多くの伝記が書かれていましたが、聖者の祝日が全教会で祝われるよう

になって、典礼用の「レヂェンダ」を作らねばならなくなっていました。そこで1260年ナルボンヌ

で開かれた「小さき兄弟会」の総集会は、「すでに書かれた伝記に基づいてフランシスコの良い

伝記が一つ書かれることを命じる」と決議しました。そしてこの伝記作製の仕事を、当時の総長

ボナヴェンゥラ自身の手に委託したのです。こうして出来上がったのがこの「レヂェンダ・マーヨ

ル」で普通「大伝記」と呼ばれているものです。この他にレヂェンダ・ミーノルがありますが、これ

は「大伝記」の簡約本で、各時課の祈りに合わせて七日分の朗読用に63もの小区分がほど

こされています。そして普通には「小伝記」といわれています。「大伝記」は、1263年に認可さ

れ、さらに1266年には決定的な唯一の伝記と定められ、これ以外に書かれた伝記は一切

焼却されるように命令されました。このような処置がなぜとられたかは、今の私たちには理解

に苦しむところです。正しく理解するためには、当時兄弟たちの置かれていた事情や背景を

知らなくてはなりません。当時フランシスコについて、また小さき兄弟会については、論争が

起こっていて、兄弟会は分裂の危機にありました。フランシスコの教えに固くとどまろうとする

「厳格派」と、聖者の制定した会則の緩和を求める「緩和派」との間の対立がしだいに大きく

なっていたのです。本当のフランシスコの姿と生き方をさまざまな伝記で知ることは、むつか

しくなっていました。また論争点になっていた清貧の問題についても、一口で要約できるもの

でもありませんでした。さらにそのころ、小さな兄弟会と外部の間に、つまり教区司祭や大学

の聖職者との間にも対立が生じて、兄弟会は存亡の危機にも立たされていたのです。兄弟

たちの理想としていた清貧は悪として非難され、托鉢修道会の司祭には告解をきいたり、

説教をする権利がないといわれ、フランシスコの聖痕も否定されて、聖者の教えや遺言は

ひどく誤解されていました。このように内でも外でも危機に直面していたのです。それで「す

でに書かれた伝記に基づいて良いフランシスコの伝記が一つ書かれる」必要があったので

した。大伝記は主として、チェラノの第一、第二伝記、それにスピラのユリアヌスの伝記に

基づいて書かれています。正しくは「基づいて」というよりも、文字通り写して、といった方が

いいくらい写した部分が非常に多いのです。もちろんボナヴェントゥラが新しく書き加えたも

のもあります。フランシスコの生涯の出来事をはっきり確かめるために、聖者の生まれた所

や生活した所、また終焉の地を訪れたり、さらに生存中の兄弟たち、すなわちエジディオ、

レオ、マッセオ、ルフィーノ等にこまかく尋ねてから書き記した、とボナヴェントゥラは言って

います通り、文中の約55ヶ所はその調査の結果によるものです。内容は正確で信用に価

すると、本人が主張するくらいの自信作になっています。大伝記の特徴は、フランシスコの

生涯の出来事を時間的な順序で並べたというよりも、むしろフランシスコの精神をよくつか

み、それを一つ一つの出来事を通して語らせるという方法をとったことにあります。あるい

は、他の伝記からとったものを、霊性神学の一つの視点から組み合わせ、解釈していると

も言えます。それからボナヴェントゥラの描くフランシスコは、平和のために働く姿をとって

いることも、多きな特長です。これは、総集会の折に内部の闘争や大学の聖職者との対

立を鎮静するという課題が、総長としてボナヴェントゥラに負わされていたことにもよるの

でしょう。大伝記の中には、平和のために働くフランシスコの行いや、説教において平和

を訴える姿、和解の道具となっている様子等が、生き生きと描かれています。ここには

聖者について兄弟たちが争うことも、止めさせるという意図があったと思われます。これ

はまた兄弟間の一致の実現を、具体的事柄の同一性ということではなく、父なる神をフ

ランシスコのように愛するという理想の下に追求した結果でもあります。しかし外部から

の攻撃に対しては、別の方法をとらねばなりませんでした。すなわち、フランシスコの理

想としたことや、生き方について、これを不可能とし、兄弟会のことを認めようとはしない

学界の聖職者たちに対してボナヴェントゥラは、聖者が実際にしたことを、神さえも聖痕

というしるしをもって認めていると主張します。聖痕についての記述が続くのも、また現

代人が抵抗を感じる奇跡について長々と書くのも、この目的のためでしたでしょう。ボナ

ヴェントゥラは、チェラノのトマスの書いたものに基づいて「大伝記」を書きながらも、ある

部分は押えて省略しています。このことを非難する人もいます。また地方からは、ボナヴェ

ェントゥラは歴史家というよりも、政治家だったとも言われています。これは当時の論争や

対立を悪化させないため、鎮静化のためという配慮から出たことを指して言うのでしょう。

本書・はじめに フランシスコ会子 戸田三千雄 より








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