「アッシジの人・聖フランシスコとその世界」
ワルター・ニッグ文 小林珍雄訳 エンデルレ書店
聖フランシスコの伝記と、彼が歩いた道程を写真で紹介している。 (K.K)
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本書 「アッシジの聖フランシスコ」 ワルター・ニッグ より抜粋
かれの巨大な光波も、その使命に合致している。同時代の記事によれば、フランシスコの 以前では、信者はどうでもよくなって、対神愛も失せ、神のご威光のおそれも消え去った。 おそるべき無神が人々をとらえ、人々の念頭には、金・娯楽・罪あるのみだった。そこへフ ランシスコが現れて、事態は根本から一新した。「三人の伴侶の伝」の序文には、この変化 について雄弁にものがたっている。「フランシスコの出現は、新たな光がさしこんだようなも ので、曙光・暁星の如くいな旭日昇天の如く世界を、輝く光波もて豊饒にみちびいた。この 旭日昇天にあたり世界はある程度冬枯れにちぢみ上り、やみにとざされて生命を失ってい た。かれの言動は、かがやく燈台のようで、真理はてりはえ、愛はもえ、けなげなる母の 徳は、美しい新生活喚起の力をもった。かれがきずいた三修道会は、さまざまな果実もた わわな庭木の如く、満開となった。何という豊饒さであろう。この世の春の到来なのだ」。 このはななだしい描写は、フランシスコを正しくみている。かれはただ、昇る朝日、早春に のみたとえられるのである。彼の死後、地上にまたかげがさして、また戦争や飢餓に見舞 われることになった。この世界に、フランシスコが生前ふせぎきった大きな窮乏がふりかか った。これは、かれの熱心な弟子たちの誇張なのであろうか。弟子らは一言もこの点には ふれず、フランシスコに倣うよう懸命の努力をした。現代においても、フランシスコはこれと 同じような見方をされている。幾多の実例からここには全く無関係の三人の発言を引用し てみよう。宗教哲学者ニコライ・ベルジャーエフは、その自叙伝の中で、「フランシスコはキ リスト教史上、最重要な出現である」と、いっている。この評価は、カトリック信者ではない ロシア思想家のことばだから、いっそう意味深長である。キリスト教世界は、この重大事 件をその奥底までほりさげたわけではないから、ひとは事実上このキリスト教史上最大 出現を十分に味わいえないのである。ラインホルト・シュナイダーも、フランシスコを同じよ うに見ていた。かれによれば、フランシスコは、神言の実現からことをはじめるように、え らびだされた者である。かれの最深の個性は、主のみことばを実行するにあった。「本当 にフランシスコ会的独自性は、無条件貫徹の勇気にあり、決して新思想新感情にあるの ではなくて、きわめて真剣にキリストから、またキリストに服従して、人生を生きぬくことに ある。この希求の無比の大胆さにおいて、へりくだった模倣の道すがらキリストに化した のである。」したがってシュナイダーにとって、フランシスコは、西ヨーロッパ・キリスト教の 本質に対する生ける具体的典型の解答にほかならない。かれ自身もしばしばフランシスコ の清貧にならった。かれこそ「聖フランシスコの時の鐘」をまれにみるほどよく悟れる詩人 である。現代人の、神ばなれぶりを深刻にえがいている小説家ジュリアン・グリーンは、そ のけいがんな日記において、幻視的につぎのようにいっている。「キリストは、その福音を フランシスコの生存中、再度示してくれたのではないかと、私はこの数日以来自問してい る。」こういったのは、つまり、現代人も包み被うフランシスコの聖性の予感が示されたも のというほかはない。これら思想家や詩人がフランシスコについて考えたことは美しくもあ り深刻でもある。かれ自身は自分の喜びをいろいろに表現している。「ときには、かれは 地上から木片を拾い上げて、左腕にのせ、右腕で弓がわりの棒きれをとり、ヴァイオリンな どを弾くときのように、それで木片をこすった。おまけに、それにふさわしいリズムでからだ をうごかし、主イエス・キリストのフランス語の賛美歌をうたった。とうとうおしまいにはこれ らの歌や踊りは、感激の涙になり、キリストの思いやかれの中にあるすべては、純粋な 浄福に達する。かれは何を手にしているかも忘れて、天国にいる気になる。」独特な美し さの感動すべきえがき方である。かかる情景に接して、ひとは、甘辛らさを味わうような 気がして、途方にくれた世界に、人心の抗しがたいあの古くしかも常に若々しいメロディ を奏するために、フランシスコのヴァイオリンを手にしたがる願いをきく思いがある。・・
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目次 T アッシジの聖フランシスコ・・・・・ワルター・ニッグ フランシスコの秘密 浪費青年 新年ここにはじまる 貧困との結婚 肉親の父との決裂 フランシスコは中世の浮浪児だったか キリストの模倣 フランシスコ会士 フランシスコと教会 いつも陽気者 平和の使者 太陽の歌 フランシスコとクララ 修道会をめぐるたたかい キリストに近づく 兄弟なる死 使命と発揮 遺言
U 聖フランシスコとその世界(写真解説) フランシスコの青年期 フランシスコの使命・・・・第一会の創立 修道会の発展・・・・第二会 キリストの死者・・・・大三会創立 イエス生命力からの予言 死と変容
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2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |