「聖者の詩 わがアッシジのフランシスコ」
武田友寿著 聖母文庫 聖母の騎士社より
歌」に代表される聖フランシスコの世界観は、国家主義に結びつく前の古神道の視点に 共通するものがあり、私たち日本人の原風景の記憶を呼び戻すことから来ているのかも 知れない。一方、この文献の著者はその共通性を聖フランシスコが回心する前の俗の部 分に焦点をあて、多くの文献を参照しながら深く掘り下げている。そしてそこから見えてく るものは著者が言うように「泥中に咲いた蓮の花」の美しい姿なのである。この泥中とい う俗性の中においても、そして聖なる後半生においても聖フランシスコの蓮の花の根っ こには吟遊詩人と騎士道が息づいていたことを改めて気づかせてくれる良書である。 本書はカトリック新聞に連載され、アウシュヴィッツのガス室で亡くなったコルベ神父が 長崎にいた時に創った「聖母の騎士」から発行されている。 (K.K) |
本書より引用
フランシスコの魅力は? と聞かれるたびにぼくは答えに窮してしまう。誰でもこの聖人の 「柔和」「謙遜」「清貧」を挙げることはわかっているし、「ハンセン氏病への接吻」や「小鳥 への囁き」を語る。しかしそれは、フランシスコ特有の魅力ではないし、はっきり言えばイ エスのそなえていた諸徳である。「完全の鏡」はいうまでもなくイエスその人であってフラン シスコではない。フランシスコの魅力というなら、それらの徳性とはすこしちがうのではな いか、とぼくは考えてしまうのだ。誤解を招きそうな心配があるが、もしぼくがフランシス コの魅力を挙げるとすれば、この聖者が湛えている通俗性=ポピュラリティにある、と言 いいたいのである。聖者でありながら聖者らしくなく、俗塵にまみれていながら俗臭がな い。そんな不思議な性格にフランシスコのポピュラリティが見えないか。人間という奴は 身勝手なものだから自分と無縁な人を尊敬したり、憧憬したりはしない。どこかに親近性 があって、どこかで自分を超えている---そんな面がなければ、魅力というものを感じな い。フランシスコの聖性は限りなく高く、美しいものだが、それがぼくらの崇敬の的とな るのは、俗性という内実をこの聖者はそなえているからのように思われる。つまり泥中 に咲いた蓮の花、といった印象を与えるのだ。泥中とはこの場合、放蕩三昧に明け暮 れた彼の青年時代ということと、誰でもが身を置く俗界=人生という生の現実を意味し ている。すなわち、「俗」なのである。「聖」は「俗」にたいして「聖」たりうるのだが、「聖」 だけを強調すると空疎になりかねず、また非現実的な意味を帯びてしまう。フランシス コをわが師と仰ぎ、わが友として親しんでいるのはまぎれもなく俗人たるぼくらなのだ から、この聖人にはぼくらの俗性に共鳴する部分がかなりあるはずなのである。しか し、フランシスコの魅力は? と聞かれると人は前述の諸徳をかぞえあげ、聖性を強 調する。それでは彼の豊かな人間性---を見過ごしてしまわないだろうか。フランシス コの人間性---それは豊かで美しい。だからぼくなどはまいってしまうのである。フラ ンシスコをあるひとつの枠ぎめの中で考え、理解し、仰がなければならないのだとし たら、これほどまでに人びとに愛され、親しまれることはなかったろう。人間は自分 の身丈に応じてしか他人を理解することができない、とは「西方の人」で書いている 芥川龍之介の言葉だが、フランシスコはそういうふうに理解することで、それぞれ の人の心の中に、もっともフランシスコらしく生きることのできた人なのではなかろ うか。だから、フランシスコ・ファンが800年経ってもあとをたたないのではないか、 と思われる。つまり、その人の心の姿に応じて、フランシスコは豊かに美しく生きて いるのだ。そんなフランシスコをぼくは愛する。
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本書より引用
フランシスコはもっとも自由を好んだ人だったろう。信仰においても、聖書の理解においても、 聖書の理解においても、生き方にしても、宣教の仕方にしても、先例にこだわらず、他人に倣 わなかったのである。いってみれば彼の場合、すべてが自己流であり、自分の流儀であった ことになる。そしていつも“彼自身”として生きた。これはまごうかたなく天才の資質である。し かも彼は、そういう自分の方法、流儀を一般化することを好まなかった。ましてや、福音を実 践するにあたっては権威の一切を認めようとしない。自由人・フランシスコの生き方が大きく 目に映るのである。その意味では彼は、生っ粋のアウトサイダーであったことになる。このア ウトサイダー性をフランシスコから奪ったら、たちまち彼はフランシスコではなくなっていまう だろう。アルヴェルナ山隠棲はフランシスコの最後の賭けだったかもしれない。自動する自 分の作った教団が崩壊するか、それとも自由人・フランシスコが死滅するか。フランシスコ はこの隠棲に賭けたのだ、とぼくは思う。その結果、彼は何を得たか。人間の世にはいつ も争いがある。自分の心のなかにも葛藤がある。憂き世に執着するかぎり、人はこの争い から自由ではありえない。なんと自分はこの世の争いに執着してきたことか。弟子マッセオ が書いたものといわれる「聖フランシスのアルヴェルナの告別」という文章が「小さき花」に 収録されている。そしてそこに、アンジェロ、シルヴェストロ、イルミナート、マッセオに語っ たというフランシスコの言葉も記されている---“平和にあれ、汝らいとしき子どもらよ、わ が身は汝らに別るけれども、わが心をばわれは汝らとともに留む” “幸あれ、平和にあ れ、われはもはやあひ見ることなからむ!” これは孤独のフランシスコが自分を戒め、 慰めるための言葉だろう。彼は平和に託した自分の夢をもう一度手にしようと努めてい る。そして、自分が大修道会の指導者である時代は過ぎたのだ、という認識も感じられ る。「福音の騎士」団のリーダーの座を離れることは淋しいだろうが、孤高の夢を生きぬ くには彼ひとりの世界に戻るより仕方がない。フランシスコは後者を選んだ。詩人・フラ ンシスコとして生きることを望んだ。エリアと争うことは詩人・フランシスコのプライドが許 さない。「平和にあれ!」とは、そういうフランシスコの心の声であったろう。アルヴェルナ 山の隠棲は、フランシスコが永遠にフランシスコとして生きるための真の自己回復の最 後の機会だった。そうすることによってフランシスコは自分も生き、大修道会も生き永ら える道を見いだしたのである。ここに至るまで、フランシスコはどんなに迷い、苦しんだ ことだろう!
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2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |