サン・ダミアノ教会
生涯の終わりの頃の物語 (「古都アッシジと聖フランシスコ」より引用)
その表れの一つとして、フランシスコの生涯の終わりの頃の逸話があります。病が重いと 自覚すると、彼はクララのそばへ行きたいと言い出します。兄弟が彼女のサン・ダミアーノ の小さな女子修道会に連れて行くのですが、二人は会おうとはしません。そしてフランシス コは、修道会のかたわらにある葦の小屋に入るのです。そこに彼の心の平安があったの です。手厚い看護は断ったのでしょう。独り横たわって、神の讃美を歌っていました。この ありさまに、兄弟たちは困惑します。当時はすでに広くヨーロッパ世界の尊敬の的であっ たフランシスコが、葦の小屋に寝て歌を歌っているのは、その声価を問われかねないか らです。フランシスコ会に対する信頼も、主導者がこの状態ではゆらいでしまうと思った のでしょう。歌を歌うのだけはやめてくれと、フランシスコに申し出たそうです。フランシス コは不眠の夜を送らざるを得ませんでした。そこはひどい所で、夜になると先住者である 鼠が病人の上を走り回ったそうです。病篤い聖者がいた場所がこのような小屋であった ことは、私どもの常識からしますと、悲劇的な感じを抱きそうになります。何か間違いが あったのではないか、と考えそうになります。暗い、どん底の心境を想像したりしますが、 フランシスコの気持ちは強く、しかも光に満ちていました。その時、彼が歌い出したのが <太陽の歌>です。・・・・小川国夫 |
「巡礼の書 アッシジのフランシスコを賛えて」J.ヨルゲンセン著 永野藤夫訳 中央出版 より以下、抜粋引用。 人間の本性を研究する者にとっては、清貧への権利のためのこのような戦いほど、驚くべきものはすくない。 この世では、誰でもが互いに富をめぐって戦い、その社会秩序の下では、人間の価値はその金銭によってはか られ、「善」と「富」、「悪」と「貧」が同義語になろうとしていて、「無一物」と皆にわかると、どんな正直者もうさん くさく見られる・・・こんな世界やこんな人間社会では、思えば不思議なことである。実に、清貧を我がものにする ために全力をあげ、平和の中に清貧に生きる許可を得るまでは、いつかな休むことをしなかった人々が存在 したのだから。実に、彼らは清貧を天国と思い、決して天国から追放されないために、自分の知っている最高 権威へ直接おもむき、教皇の大勅書が炎をはく剣のように自分の楽園を守るまでは、安心しなかった。それどこ ろか、教皇に対してさえ、この清貧の熱烈な崇拝者たちは戦った。つまり、アッシジの聖クララが病床にあってなお も生きながらえたのは、サン・ダミアノの彼女の修道女たちのために、清貧の貴い権利を確保するためだった。 教皇庁がこの権利の保持を許さないかもしれなかったからである。そこで、教皇イノセント4世が請願をついに 認可したとき、彼女はほっとして永眠した。ジオットーが清貧を女性の姿に描いているのは、不当なわけではない。 なぜなら、清貧は女性のように愛され、崇拝され、偶像化されているからである。女性のように清貧は、その愛人 を幸福にし、狂喜させ、喜びのあまりうっとりさせ、歓声と賛美で満たさせることができる。はたして、黄金はどんな 百万長者を、その臨終にあたって、助けたり喜ばせたりできたろうか。だが、清貧の忠実な花むこフランシスコは、 歌いながら死を迎え、貧しいクララはサン・ダミアノのあわれな小房で、「わが神よ、おんみがわたしを創りたまえし を、おんみに感謝したてまつる」と、歓喜の言葉を口にして亡くなった。人間は臨終にあたって、神に創られた恵み を感謝することより、何かより高いものに到達できるだろうか。 サン・ダミアノに着く。だが、聖堂に入って、遺物や古い物を見るつもりにはなれない。すべてはこの野外では、とても新鮮 で生き生きとしている・・・わたしはむしろ、山腹のオリーブの木の下の小道を、すこしばかり歩く。 その途中で、フランシスコ会の老修道士に会う。老修道士はたずさえた聖務日課書に右手の親指をはさみ、5月の朝の すんだ青い大気を、感動してじっと見つめながら、太陽の光の中を行ったり来たりしている。思わずわたしたちの視線が合う と、その灰色のひげの長い老神父は、おおらかに明るくほほえみ、なんの前置きもなく大声でいう。 ・・・「なんていい天気でしょう!」・・・わたしは立ち止まり、わたしたちは話し始める。 「そうですね」と彼はいう。「神に仕え、万物の創造主、生きとし生けるものの善き父を礼拝し、ほめたたえるには、結局、 自然は一番いい所ですし、これから先もそうでしょうね。どんなに太陽が快く暖かいかを、まあ感じてごらんなさい・・・深く 息をしてごらんなさい。なんと胸がこのすばらしい、ひんやりした、きれいな朝の空気でいっぱいになるかを、お感じになる でしょう・・・ごらんなさい、草においた露が火のように赤く、輝くように緑に、燃えるように青く光り、草を燃え立たせています。 それに、小鳥の楽しげな歌をお聞きなさい・・・遠い山々のやわらかい青い線をごらんなさい・・・主のみ前のいけにえの香の ように、朝の空気の中に、静かにまっすぐ立ち上がる煙をごらんなさい・・・ねえあなた、たしかに、自然の中の、きれいな 自由な自然より、よりきれいで、敬虔で、神のみ心にかなう生活は、決してありませんね・・・その中で、清く純粋に、聖母の 優しいご保護の下に成長すること。わたしたちをとりまくこの5月の朝のように、すこやかに、若々しく、さわやかに人生に 分け入ること。その心臓の鼓動するのを聞くこと。おお、他人に対するきよい心、純な心、黄金のような心、この他人に愛さ れるのを知ること。その生活が永久に他人の生活と結びついて、共通の喜びと慰め、共通の涙と幸福になっていると感じる こと。・・・こういったすべてのことこそ、真の生活ではないでしょうか。いともお恵み深い神が初めから人間たちに与えようと お考えになった。真の質素な清い生活ではないでしょうか。 ねえあなた、沢山の人はこのことがわからないのです。沢山の人は、その中にはキリスト教徒となのる人もいるのですが、 わたしたちの宗教の真髄は人生の放棄、人生の否定、人生の敵視にある、と信じています。でも、わたしたちの父フラン シスコは、そう思っていませんでした。厭世家ではなく、現代の人間嫌いや悲観主義者ではありませんでした。ドイツに、 アルトゥル・ショーペンハウアー(1860年没)という哲学者がいました・・・そのいうところによれば、生の意志は、あきらめるに 値する悪、殺し根絶すべき悪です・・・そうすることによって初めて、救い、彼岸、涅槃(ねはん)への道が、見出されるので す。これは仏教で、キリスト教ではありません。わたしたちは二元論者ではありません。わたしたちはマニ教徒ではありま せん。世界を創造なさった神は、世界をお救いになります。それは、初めに『生めよ、殖(ふ)えよ』とおっしゃり、その時が 満ちてくると、『日々自分の十字架を背負ってわたしに従わない人は、わたしの弟子になることは出来ない』(ルカ9・24他) といわれたのと、同じ神です。それは、お互いに争わない二つの世界です。それは、同じ法則の二つの命令です。なぜなら、 法則の総和は、愛だからです・・・法則の総和は、帰依、自己否定、生の大きい神聖な下での愛に満ちた服従ですから。 小さい利己主義の人間よ、お前のものを捨てなさい。生命には生命に属するものを与えなさい。地に人間を住まわせ、天に 魂を満たす、その生命には! お前自身のものを捨てなさい、利己的な計画、ひとりだけの快楽の夢を捨てなさい。そして、 大地をたがやして、いばらとあざみを育てなさい。その間に、妻は幕屋の中で、お前の子どもを生むだろう! 愛の法則に 従いなさい、その掟を守りなさい、身を屈して生命の黄金のきよいきずなにつながれなさい・・・そうすれば、生命を創り、 継続し、守る愛は、生命をきよめ、神聖にし、死と天に対して成熟させる、あの苦しみという陶冶(とうや)の下へ、十字架へ、 お前をみちびいてゆくでしょう! ねあ、神は偉大です。神は聡明です。神は一つにてまします。聞きなさい、イスラエルよ、キリスト教世界よ、聞きなさい、 広い全世界よ、聞きなさい・・・それは唯一の神、創造の神、救いの神、愛の神、十字架の神、幸福の神、苦難の神です ・・・天と地のように一つである神・・・動き、呼吸をして生きているすべてのものに、世々にいたるまでほめられ、祝福され、 たたえられる、唯一の神です!」 老フランシスコ会士はわたしに別れをつげ、オリーブの木の下の道に消えてゆく。だが、その言葉はわたしの心に残る。 そうだ、なんとしばしばわたしは、光を愛するがゆえに憤慨するのだ、と自称する人々に「生命の敵」という言葉をあびせ かけられるのを、耳にしなかっただろうか。そして、よく彼らはその言葉でわたしを不安にした・・・なぜなら、生命の敵は、神 の敵だからである。あの自称「生命の愛好家」自身が、生命の成長発展のために大いにつくした、とわたしに思われたから ではない・・・むしろ彼らの周囲は、死んだように荒涼とならなかったか。そして、彼らは利己的に、生命の流れをせきとめる 平らな土手をつくり、岸を安心して歩き、好きかってに釣ができるようにしなかったか。なぜなら、彼らの中の誰一人として、 まじめに生命に献身せずに、法則に服することを、恥ずべき敗北だと見ているからである・・・ しかし、荒野の悪魔は、昔の隠者たちに本当のことを語った。そして、他人の理想からの離反をもっとも熱狂的に非難する のは、理想に対して日々みずから不実となる者である。だから、わたしを攻撃する人々にも、それ相当の理由があったのだ。 だが今、フランシスコ会の老修道士のこの言葉は、わたしに光明と平和を与えてくれた・・・キリスト教の道は、生命の道で あり、「父のなすことを、子もまたする」ことを、知るための光明・・・と同時に、訴え非難する声を耳にしながらの平和を・・・ それでもとにかく正しい道をたどっているという、強い幸福な気持ちで、わたしはサン・ダミアノのかげになってひんやりする 小聖堂に入る。もう一度、前よりもっと徹底的に、ここで聖フランシスコと聖クララを回想させるすべてのものが、見たくなる ・・・からだは結びつかなかったが、精神的に結びついていた二人、その生活は、存在、純愛、きよさ、祈り、労働、清貧、 すべてのものへの感謝の花のようだった二人・・・ |