「古都アッシジと聖フランシスコ」
小川国夫・文 菅井日人・写真 講談社
感動さえ覚えてしまう。また写真は「聖フランシスコの世界」でもその美しい映像を撮った カトリックの写真家・菅井日人氏によるものであり、小川国夫氏の文と共にアッシジの祈 りに満ちた世界に読者をひきこむだろう。尚、この文献は1985年に刊行されたものだ が、新たに装幀され出版されたものである。 2000年10月30日 (K.K) |
念願であった聖フランシスコが最後にキリストの様に聖痕を受けたといわれるラ・ベルナ山 に登って行った時のことでした。空が一転にわかに暗くなり、嵐になりました。非難するため、 聖フランシスコの隠遁した岩の洞穴に入って祈ったり暗い中のローソクの明かりで撮ったり していました。外はみぞれまじりの大雨で仕方なく聖堂に、また行ってみました。正面祭壇の 一段も二段も高いところに美しい聖母像だけが見えました。聖母像の箱の中に明かりがつい ていたので、何とか三脚なしにカメラを手で固定して撮ろうとしていました。聖堂内はほとん ど真暗な状態でしたので私は聖母像だけに集中していました。と突然、私が向っている暗 がりの左側の小窓に黄金色の光が当たっていました。その明るい光は背後から照らして 聖フランシスコの像を浮かび上がらせたのです。びっくりしました。それまで聖母像だけで 聖フランシスコの像に全く気付いてませんでしたから、考えると、あるべき太陽は嵐の中で すし、私のうしろにあるはずがなくきっと急に太陽がでて、光線が岩に反射しているのでしょ う。聖堂内は私一人で、もう音一つなく神秘的な空気がただよっていました。ここに神様が いると感じて、鳥肌が体中に立ちました。その後ひざまずき祈りながら、聖母マリアと聖フ ランシスコを二つ一緒に撮ることに成功しました。聖堂の外に出ると、思った通り、今まで の嵐はうそのように静まり、雨水の流れた岩山に一本の大きな木の十字架が立ってい て、雲一つなく澄みきった青空に、美しい夕日が輝いていました。まるでその夕日は沈み ゆく前に、もう一度すべての光を惜しみなく注ぐかのように、キリストに最も近く生きた、 聖フランシスコを讃えているかのように見え、先程の洞穴での祈りと、不思議な聖堂で の祈りの答えだったのかも知れません。その夜、再びみぞれが降りさまざまの感動と ともに頭はさえわたり、一晩中、寒さの中で眠ることすら惜しかったのでした。神は何と 偉大で恵み深いのでしょうか。神の姿にもっとも似せて造られた人間とは、一体何もの なのでしょうか。人間の生きる価値として一番大切なものは何なのでしょうか。アッシジ の聖フランシスコのように、富も名誉も財産も捨て、貧しくとびきり豊かな心を持って生 きることができないものでしょうか。「天に宝をつみなさい、あなたの宝のあるところに、 あなたの心もあるのだから。そこでは虫もくわないし、また盗人もいない」。言葉という のは言うにやすく実行にむずかしいことですが、写真という小さな仕事を一つ一つ大切 にやりとげます。どうか聖フランシスコの精神が私の中で生きつづけ、平和の道具とし てあなたに使っていただけるなら、こんなに幸せなことはありません。 (菅井日人・・・・本書「心のふる里」より引用)
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キリスト教のルネッサンス・・・・小川国夫 (本書より引用)
フランシスコが直面した当時のキリスト教世界は、秩序を重んじるあまり、煩瑣になった り硬直に陥ったりしていました。鋭敏なフランシスコは、だからこそ、イエスと自分、聖書 と自分の直接な結びつきにあこがれたのです。キリスト教のルネッサンスを求めたとも いえます。やがて十五世紀に盛りあがるエラスムスやダ・ヴィンチのルネッサンスも、こ のフランシスコの運動とは無縁ではありません。それもまた、キリスト教精神に対する反 逆などではなくて、本来キリスト教に包含されている豊かな人間の観念を解き放つところ から始まったのです。この意味で、フランシスコの出現は黎明でした。フランシスコは大 物ですから、見極めのつかないような要素をたくさん持っていて、中には、甚だしい矛盾 と思える考え方が一人の中に包みこまれています。破滅を求めているのか創造を求め ているのか、判断に迷うような言葉もあります。しかし、この矛盾のゆえに人間味を、そ の大きなスケールを感じさせます。合理的な人よりもはるかに魅惑的なのです。私が 最初にアッシジに行った時には二八歳でしたし、フランシスコについて何も知りません でした。今よりも知りませんでした。彼のことを思っても、優しく寛容な人柄が感じられ るだけで、アッシジの空気をそのまま彼の雰囲気のように思いこんで浸っていただけ でした。しかし、それだけのことが忘れられないのです。だれにも語りかけ、感化し、 決して裏切らない人物がここにいると漠然と思っていただけでした。
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自然を讃美する・・・・小川国夫 (本書より引用)
小鳥よ、あなたたちはすばらしい衣服を身につけている。私はよれよれの修道服を着て いるが、これとて自分で手に入れたものだ。ところがあなたたちの衣服は自分で心配した ものではない。あなたたちは透明な声で鳴くが、それもまたいい声になろうとしてなったわ けではなく、神様がくださったものだ、素直なあなたたちには、大きな恵みがある。フラン シスコにとって、聖書の言葉はそのまま実感でした。自然を自分の見方で見て、詩にしま したから、素朴な人々に影響を与えました。後世のアッシジの信心詣りは、そこへ行って 自然を讃美するということでもありました。別にむつかしいことを考えなくてもいい、フラン シスコ的な自然のふところに抱かれようということでした。フランシスコが文学者として、 信仰と関係なく、高く評価されるのは、ウンブリアの自然に対して決定的な見方を創り 出したからです。わが日本でも、山川草木花鳥風月を万葉集ではどう詠ったか、芭蕉 はどう詠ったかを知ることによって、われわれの自然を見る眼は深まってきましたし、 遂にはそれが決定的なものになったのです。この比較で申しますと、われらの古典の 詩人たちが、清らかさから始まって、わび、さびなど諦念を感じさせるのに対して、フラ ンシスコのそれは、ひらすら自然を讃える喜びの歌の感が強く、ダイナミックな情感に あふれているように思えます。
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目次 アッシジの印象 旅籠 燕 詩の大聖堂 壁画 キリスト教のルネッサンス フランシスコ&ジョット 信仰をまとう 神のための道具 生涯を語る絵巻 フランシスコの家庭 キリスト教の愛は生きている 福音の核心 小鳥への説教 自然を讃美する 観想生活 キリストからの慰め 十字軍の戦場へ アッシジの子 ルカ伝第十章 学問に対する態度 単純の徳 聖クララ 兄弟会と姉妹会 生涯の終わりの頃の逸話 太陽の歌 死の讃歌 出生にまつわる不思議 スポレート サン・ダミアーノ リヴォ・トルトの小屋 ポルチウンクラの小聖堂 フォンテ・コロンボ 聖痕 お恵みへの讃歌
地図 心のふるさと・・・・菅井日人
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2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 原罪の神秘 キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが 何か考えるようになってきた。 世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る 余地などない。 ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない 遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら の魂は何かに守られていると感じてならなかった。 宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力 に満ち溢れているのだろう。 その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た わっているのかも知れない。 世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し ている。 世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。 これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類 と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、 原罪との関わりもわからない。 将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、 ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人と 言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。 しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。 原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて いる。 前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも それは変わらないのだと強く思う。 最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は 聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。 私の文章で不快に思われた方、お許しください。 ☆☆☆☆ 神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。 憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように いさかいのあるところに、赦しを 分裂のあるところに、一致を 迷いのあるところに、信仰を 誤りのあるところに、真理を 絶望のあるところに、希望を 悲しみのあるところに、よろこびを 闇のあるところに、光を もたらすことができますように、 助け、導いてください。 神よ、わたしに 慰められることよりも、慰めることを 理解されることよりも、理解することを 愛されることよりも、愛することを 望ませてください。 自分を捨てて初めて 自分を見出し 赦してこそゆるされ 死ぬことによってのみ 永遠の生命によみがえることを 深く悟らせてください。 ☆☆☆☆ (K.K) |