「巡礼の書」アッシジのフランシスコを賛えて

J.ヨルゲンセン著 永野藤夫 訳 中央出版







イタリア賛歌  J.ヨルゲンセン (本書より引用)


ローマ平野の真ん中の寂しい一本道、

緑の波うつ平野の中の白い広いわびしい一本道、

わたしの後ろには太陽、暖かい二月の日のかたむいた太陽、

わたしの前にはわたしの影、

わたしのまわりには静けさ、

わたしの上にはほの青い空高くに、

たえずさえずるひばり。


わたしは立ち止まって耳をすます。

わだちの音が遠くで消え、

人声が聞こえなくなる。

野の池ではかえるが一匹ないている、

ほの青い空高くには、

たえずさえずるひばり。


主よ、あなたは賛美されますように、姉妹なるひばりのために、

その歌はたえず流れる、枯れない流れのように、

歌の泉、幸せのみなもと、賛歌の噴水のように!


主よ、あなたは賛美されますように、白い道のために、

白い広い寂しい道のために、

それはわたしをたしかに、疑いもなくたしかにみちびく、

遠くの山なみの白い町々へ、

海べのたくさんの貝殻のように、

陽に照らされて光る白い町々へ!


主よ、あなたは賛美されますように、イタリアの町々、数々の町々のために、

ローマとフィレンツェ、ピストイアとルッカのために、

ジェノヴァとラッパロ、アッシジとペルージアのために、

ウンブリアの山々の中の寒村ラ・ロッカのために、

主よ、あなたは賛美されますように、オルヴィエトとシエナのために、

聖女シエナ、聖カタリナのシエナのために、

ヴィテルボとピザ、フォリニョとコルトーナのために、チヴィテッラのために、

リーパとベットーナ、聖クララのモンテ・ファルコのために!


主よ、あなたは賛美されますように、あなたの賛歌のひびくイタリアの全都市のために、

石の賛歌、大理石の賛歌、

金の地にぬられた色彩の賛歌よ!

主よ、あなたは賛美されますように、ジオットーの壁画のために、フィエゾーレの修道院の小房のために、

フィレンツェを見おろす丘の上のサン・ミニアトの輝く聖堂のために!

主よ、あなたは賛美されますように、サンタ・マリア・ノヴェラのために、

サンタ・クローチェのために、サンタ・マリア・デ・フィオリのために、

(夏の朝、噴水が水音をたて、晴れ着の農夫がたくさん高い石段を登ってミサへ行くとき)

ペルージアの司教座聖広場のために、

(ひえびえとした十月の朝、わたしがコーヒーを飲みながら)

あいたドアから洗礼堂の白と黒の大理石を見た、フィレンツェのカフェーのために!


主よ、あなたは賛美されますように、イタリア全土のために、

わたしがあこがれの的のように見たわずかのもののために!

ひばりがほの青い空へのぼるように、

魂は高く、高く、いよいよ高くのぼる、

思い出にいこい、希望にはげまされ・・・

主よ、あなたは賛美されますように、姉妹なるひばりのために、

ひばりのように空へ舞いあがるわたしの魂のために!


 
 


本書 訳者あとがき より抜粋引用


原作者ヨルゲンセン(1866〜1956)は、デンマークの詩人で(山室静氏の『ヨルゲンセン詩集』)

が弥生書房から出版されている)敬虔なプロテスタントの家庭に生まれた。コペンハーゲン大学

時代から、自然主義の影響を受けたが、やがてニーチェやフランスの象徴派にかたむいた。そ

れでも魂の安住の地を見出せなかった詩人は、北欧の詩人らしく、イタリアへ遊び、聖フランシ

スコの遺跡を巡礼し、その生涯を研究し、カトリックに改宗して初めて、心のやすらぎと西欧一

のカトリック詩人としての名声を得ることができた。本書「フランシスコのイタリアから 巡礼の

書」(1903)と「アッシジの聖フランシスコ」(1907、訳者はこの訳書を準備中である)は、「シエナ

の聖カタリナ」「ドン・ボスコ」「自伝」などとともに、名著のほまれ高い、その名声に値するみごと

なものである。


70年以上も昔のベストセラーをあえて再び紹介するには、それ相当の理由がある。


@名作に時代なし・・・これが第一の理由である。この本は、詩人の「聖フランシスコの巡礼の書」

であるばかりでなく、改宗者の信仰の書であり、サバティエの聖フランシスコ研究への批判の書で

もある。巻頭のみごとな「イタリア賛歌」や方々に見られる珠玉の描写は、いかにも「南国をあこ

がれる北欧の詩人」にふさわしい。至る所にあふれる熱いきよらかな信仰や時折きざす迷いの

かげりは、まさに北欧の信仰者にふさわしい。散見する信仰論やキリスト教的文明論は、ひか

えめであるが、良心的な北欧の学問の人にふさわしい。これらの特色は、時代をこえている。


A現代に生きる聖者・・・聖フランシスコは現代に生きている。いや、現代の求める聖者である。

これが第二の理由である。世界の現状を考えるまでもなく、身辺を見まわすなら、愛と幸福と

平和と清貧の聖者フランシスコが、いまさらのように「現代の待望する聖者」であることが、納得

されることだろう。この聖者の面影は、この本にみごとにとらえられている。


Bわたしたちは「他国人であり旅人であるから」・・・これは、作者が巻頭にかかげた銘だが、

聖フランシスコゆかりの聖地の巡礼の書こそ、「天と地のあわいの旅人」であるわたしたち

にふさわしい本だろう。世界が戦争にのめりこもうとしていた30数年前、山間で山村氏の訳

書を読んだ若い大学生の深い感銘は、まぎれもなくそういうことだった。そして今わたしは、

改めてこの本を訳了した。





2012年7月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。







原罪の神秘



キリスト教の原罪、先住民の精神文化を知るようになってから、この原罪の意味するところが

何か考えるようになってきた。



世界の先住民族にとって生は「喜びと感謝」であり、そこにキリスト教で言う罪の意識が入る

余地などない。



ただ、新約聖書に書かれてある2000年前の最初の殉教者、聖ステファノの腐敗していない

遺体、聖フランシスコと共に生きた聖クララの腐敗を免れている遺体を目の前にして、彼ら

の魂は何かに守られていると感じてならなかった。



宇宙、そして私たちが生きているこの世界は、未だ科学的に解明できない強大で神秘な力

に満ち溢れているのだろう。



その神秘の力は、光にも、そして闇にもなる特別な力として、宇宙に私たちの身近に横た

わっているのかも知れない。



世界最古の宗教と言われるシャーマニズムとその技法、私が感銘を受けたアマゾンのシャ

ーマン、パブロ・アマリンゴ(NHKでも詳しく紹介された)も光と闇の二つの力について言及し

ている。



世界中のシャーマンの技法の中で一例を上げれば、骨折した部分を一瞬にして分子化した

のちに再結晶させ治癒する光の技法があれば、病気や死に至らせる闇の技法もある。



これらの事象を踏まえて考えるとき、その神秘の力が遥か太古の時代にどのような形で人類

と接触してきたのか、そのことに想いを巡らすこともあるが、私の力の及ぶところではないし、

原罪との関わりもわからない。



将来、新たな遺跡発見や考古学・生物学などの各分野の科学的探究が進むことによって、

ミトコンドリア・イブを祖先とする私たち現生人類、そしてそれより先立って誕生した旧人

言われる人たちの精神文化の輪郭は見えてくるのだろう。



しかし私たちは、人類・宗教の歴史その如何にかかわらず、今を生きている。



原罪が何であれ、神秘の力が何であれ、人間に限らず他の生命もこの一瞬・一瞬を生きて

いる。



前にも同じ投稿をしたが、このことだけは宇宙誕生以来の不変の真実であり、これからも

それは変わらないのだと強く思う。



最後にアッシジの聖フランシスコが好きだった言葉を紹介しようと思います。尚、写真は

聖フランシスコの遺体の一部で大切に保存しているものです。



私の文章で不快に思われた方、お許しください。



☆☆☆☆



神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。



神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。



自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命によみがえることを

深く悟らせてください。

☆☆☆☆




(K.K)









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