Assisi OFM - Speciale - Angela da Foligno


フォリーニョの聖アンジェラ

Angela da Foligno, 1248年〜1309年1月4日


Regio Diciotto



教皇クレメンス9世 が1701年7月11日にアンジェラを列福させ、教皇フランシスコが2013年10月9日に列聖した。

1308年のクリスマスにアンジェラは、同伴者に自分はまもなく死ぬだろうと言った。数日後、キリストが彼女に
出現し、個人的に自分が彼女を天国に連れて行くと約束した。アンジェラは、1309年1月3日に眠るように、自分
の弟子たちに囲まれるようにして死去した。遺体はフォリーニョの聖フランチェスコ教会に安置されている。
彼女の遺体は死後も腐敗を免れる奇蹟を起こした。



フォリーニョのアンジェラ - Wikipedia より、抜粋引用。




太陽の歌 アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

丘野慶作訳 「聖女クララ」マリア・ピエラッツィ編より


いと高く、全能の、いとも善き主よ、

賛美と、栄光と、誉れと、祝福は、あなたのもの。

これらは、ああ、いと高きおかたよ、

あなたのみに帰すべきもの、

なにびとも、ふさわしく、

あなたのみ名を呼ぶことはできない。



   主よ、ほめたたえられよ、すべての被造物、わけても、兄弟なる太陽とともに。   

かれは、われらに昼を与え、あなたは、かれによってわれらを照らす。

かれはまた、美しく光り輝き、その大いなる光明によって、

ああ、いと高きおかたよ、あなたをかたどる。



主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる月と星のために。

あなたは、かの女たちを明るく、とうとく、美しく、天に造られた。



主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる風のために。

しかして、空気と、雲と、晴天と、もろもろの天候のために。

あなたは、かれらによって、被造物をささえられる。



主よ、ほめたたえられよ、姉妹なる水のために。

かの女は、いと有益にして、謙遜、貞潔なるゆえに



主よ、ほめたたえられよ、兄弟なる火のために。

あなたは、かれによって夜を照らす。

しかして、かれは、美しく、陽気にして、健やかで強い。



主よ、ほめたたえられよ、姉妹にして母なる大地のために。

かの女は、われらを保ちささえ、

さまざまな果実と、色とりどりの花と、木々を生みだすゆえに。



主よ、ほめたたえられよ、

あなたのみ名によってゆるし、

病苦と艱難とを耐え忍ぶ人々のために。

幸いなこと、平安にこれを耐え抜く人々、

そは、いと高きおかたよ、

かれは、あなたから冠を授けられるゆえに。



主よ、ほめたたえられよ、

姉妹なるからだの死のために。

生きとし生けるもの、なにびとも、

かの女からのがれ得ない。

災いなこと、大罪のうちに死ぬ人。

幸いなこと、あなたの聖なるみ旨を行う人

そは、第二の死は、

かれをそこなうことなきゆえに。



主をほめたたえ、祝福せよ。

主に感謝をささげ、深くへりくだって主に仕えよ。



 


「巡礼の書 アッシジのフランシスコを賛えて」J.ヨルゲンセン著 永野藤夫訳 中央出版  より以下、抜粋引用。





フォリニョはわたしにとって二つの名を、死んだ人と生きている人の名を、意味している。一人は、ここのフランシスコ

会の教会に埋葬されている。フォリニョの今は亡きアンジェラであり・・・もう一人は、司教座聖堂参事会員モンセニョル・

プリニャーニで、深遠なフランシスコ研究家として、知られ、「フランシスコ雑録」誌の学識ゆたかな編集者である。



故人がまず見つかる。すぐ見つかるようになっている。フランシスコ会の聖堂にそのお棺は、みごとな棺台におかれて

いる。わたしは感銘ふかく、思いにふけって、その前に立ちつくす。ではここに、聖アンジェラはいこっているのか。フォリ

ニョの小さい素朴な市民の娘である彼女は、夫や子供が亡くなると、全財産を貧しい人々にほどこし、聖フランシスコの

第三会(平信徒の会)に入会し、その会則に従って、その余生を祈りと労働と愛徳のうちに、目立たずひっそりと送った

のである。だが、この生涯は花を咲かせ、この魂は実を結び、この女性は一冊の本を書いたのだ・・・そして、この本は

時がたつにつれて、何度も版を重ね、何度もフランス語、ドイツ語、スペイン語、フラマン語に訳されている。この一冊の

本は、その内容の力だけによって、600年もの間、聖フィリッポ・ネリ、聖フランソワ・ド・サール、聖アルフォンソ・リゴリの

ような立派な人々にとって、智恵と生命の源泉となったのだった・・・



わたしはこのアンジェラの墓の前に座って、この本を開く。今では棺台の黄金の板のかげでミイラのような手になって

いるか、くずれて塵となってしまったあの手が、その昔書いた本である。わたしのよく知っている章が見つかる・・・

「贖罪のいろいろの道」である・・・



アンジェラはこう語っている。「ある日のこと、わたしはお祈りをし、主のご受難を思って心をひどく痛めていました。わた

しは自分の罪を測り知ろうとしました。その罪をつぐなうには、神のおん子の祈りや涙ばかりでなく、死とあのような死も

必要だったからです・・・



それからわたしは、自分の忘恩を量ろうとしました。この名状しがたい無限の善行に、なにをもってむくいているでしょう

か。罪をもってです・・・毎日の罪をもってです。復活を忘れ、お恵みに協力しないでです。一方では、神の無限の慈悲が、

他方では無限のわたしの不正と狂気が、これらすべてのものがわたしをみちびいて、一つの確かな洞察を得させました。

あらゆる種類の罪が、わたしに示され、同時にまた、イエスの苦しみがわたしたちを救われた、苦しみと罪も示されました。



わたしは、キリストが十字架にかけられるのを見ました。キリストはわたしに、なぜ十字架にかけられたのか、滅びゆく者に

なんのいいわけもないことを、お示しになりました。なぜなら、病気をなおすには、医者が病人が求めるもの以外は、必要

ないからです。つまり、人は罪を告白し、医者の命じることをせねばならないのです。治療には何もいらないのです・・・



それからわたしの魂は、キリストの血の中にある解毒剤のことがわかりました。解毒剤はただで分配され、それを受ける

善意だけを要求します。そこであらゆるわたしの罪が示され、からだじゅうに精神的な痛みを感じました。



そこで、わたしはいま学んだことに従って、神にわたしの魂と肉体のあらゆる苦しみをはっきり示そう、とつとめ、こう叫び

ました・・・『おお主よ、わが神よ、み手にわたしの永遠の回復をもち給う神よ! わたしが自分の傷をおん目の前に示しさ

えすれば、あなたはわたしをいやすことを約束し給いました! 主よ、わたしは弱さそのもので、わたしの内のすべては

けがれ、くさっていますから、わたしはあなたに自分の奈落の底から、自分のあらゆるみじめさと、四肢のあらゆる罪と、

魂のあらゆる傷と、からだのすべての傷とを、お見せします』。



そしてこんどは、自分のみじめさを数え上げて、いいました・・・『あわれみふかい主よ、わたしの救いをみ手にもっておら

れる主よ! ごらんなさい、これが、何度も高慢のしるしでおおった、わたしの道です。髪を巻いて、不自然な形にゆいま

した。それだけではありません、主よ! わたしのあわれな目をごらんください、不貞でいっぱいで、ねたみで血ばしって

います!』



こんなふうにわたしは、自分の四肢五体を告発し、そのあわれな話を語りつづけました。



イエスは、すべてを、じっとがまんしてお聞きになり、大変よろこんでお答えになりました。ひとつひとつのことに、お手持ち

の薬をお示しになり、わたしは、わたしの魂への無限の同情を見ました。イエスはおっしゃいました・・・



『わが娘よ、恐れてはいけないし、絶望してはならない! たとえお前が腐敗にけがされ、全く死んでしまっているとしても、

お前に与える薬を用いるなら、わたしはきっとなおすことができる。お前は精神的な病気について、長々とくわしく訴えたが、

お前の訴えはわたしの胸に反響した。お前が装身具によって、まやかしのほお紅で、髪に与えた不自然な形によって犯した

罪、人々に示して神への罪のもととなった、お前のすべての恥ずべき高慢、すべての虚栄、地獄で永遠のはずかしめを

受けるもとだ、とお前の思っている、すべてのみじめさ・・・これらはことごとくあがなわれている!



わたしはお前の罪を肩代わりし、つぐない、ひどく苦しんだ。お前の脂粉や香油のために、わたしの頭は髪やひげをむし

られ、いばらでつらぬかれて血を流し、杖で打たれ、あざけられ、軽蔑され、いばらの冠をかぶせられた!



お前はほおをぬり、不幸な男たちにそれを見せて、その気をひこうとした。わたしの顔は人々のつばきでおおわれ、こぶし

でなぐられてゆがみ、ふくれあがり、嘲笑の布でかくされた。



お前は、虚栄心であたりを見まわし、有害なものを見つめ、神のみ旨に背くのをよろこぶために、お前の目を使った。だが、

わたしの目はつつみかくされ、まず涙で、それから血で、見えなくなった。頭から流れおちる血で見えなくなったのだ。



お前の耳が・・・不用で悪いものを聞き、悪い言葉をよろこんでいたお前の耳が・・・おかした罪のために・・・わたしは、深い

測り知れない悲しみでわたしを満たした。恐ろしいつぐないをした。わたしは、いつわりの告発人、さげすみの言葉、侮辱、

のろい、あざけり、高笑い、神の冒涜(ぼうとく)、不正な裁判官の死刑の判決、わたしの母の泣き声を聞いた。わたしは

彼女の同情の言葉を聞いた。



お前はぜいたくの味を知り、飲みものを乱用した。だが、わたしの口は飢え、断食で渇ききっていた。わたしは気つけと

して、酢と胆汁をまぜたものを飲まされた。



お前は他人の悪口をいい、そしった。神と人間をあざけった。うそをつき、うそをついては偽誓(ぎせい)をした。とんでも

ない、これがすべてではない。わたしは裁判官やいつわりの証人に対して、口をつぐんでいた。わたしのとじた唇は、弁解

しなかった。そして、わたしはいつも事実を述べ、心の底から刑吏のために神に祈った。



お前の嗅覚はきよくない。お前は、ある香りの与えるよろこびを知っている。だが、わたしはつばきの不潔な臭いをかぎ、

顔や目や鼻についたその臭いをがまんした。



お前の首は怒り、官能、高慢にふくらんでいる。それはお前の顔を、神に背けさせた。だが、わたしの首はむちで傷つけら

れた。お前の肩の罪のために、わたしの肩は十字架をになった。お前の手と腕の罪のために・・・それはお前のよく知って

いることをしたから・・・わたしの手は大きい釘でつらぬかれ、十字架に釘づけにされ、釘でわたしのからだは十字架にかけ

られた。お前の心の罪のために、憎しみとねたみと不快の流れ出た、お前の心の罪のために、欲望と悪い愛に満ちた、

お前の心の罪のために、わたしの心は槍でつらぬかれ、その傷口から水が流れでて、よこしまな熱情を消し、血が流れ

でて、怒りと悲しみの力からお前を救い出した。お前の足の罪のために、そのむだなダンスと虚栄の散歩のために、わたし

の足は十字架にゆわえられる代わりに、釘で打ちつけられた。お前のすかし彫りのあるきれいな靴の代わりに、わたしの

足は血まみれになった。血はその傷から流れでて、からだから流れるすべての血は、その上を流れおちた。



お前のからだのあらゆる罪のために、ねてもさめても、つきまとう お前のあらゆる情欲のために、わたしは十字架の上に

ねかされ、毛皮をひろげてほす時のように、手足を四方でひっぱられてから、十字架にぴんと釘づけにされた。血の汗が

わたしの全身をぬらした。十字架の固い木はわたしをおしつけ、ひどく苦しめた。わたしはひどく苦しみ、叫び、ため息を

つき、泣き、うめき、うめきながら死んだ! わけもなくえらび、身につけたお前のむなしい装身具のつぐないのために、

わたしは裸で十字架にかかった。乙女マリアから生まれた時のように、裸で大気や寒気や嵐や男女の目にさらされ、十字架

に高々とかけられ、いっそうよく衆目にさらされ、あざけられ、ののしられるようにされたのだ!



お前が不正にもっていた富のため、わたしは貧しかった。宮殿もなく、家もなく、その下で生まれ、生き、死ぬための安全な

場所もなかった。ある人がみじめさきわまるわたしに同情し、その墓をあけてくれなかったら、わたしは墓もなかったことだ

ろう。わたしは自分の血と命を、罪人のために与え、自分のためには何もとっておかなかった。貧しさは、生きている時も

死んでからも、わたしにつきまとった』。



こうキリストは語られ、それにつけ加えられた・・・『わたしがその罰を肩代わりせず、それでなおすことができないような、

どんな魂の罪も病いも、お前は見出せないだろう。お前たちの死後の霊魂が地獄で受けるべき、恐ろしい責め苦のために、

わたしは完膚(かんぷ)なきまで打ちすえられようと思った。だから悲しまないで、苦しみと恥と貧しさのうちにわたしに従い

なさい』」。



兄弟アルノルドのきしむ鷲ペンが、このフォリニョの修道院の小房の静けさと平和のなかで、アンジェラの口から語られる

とおりに、以上のような言葉を紙に書きつけてから、600年の歳月がたっている。「アンジェラが口述し、わたしが筆記した」

と、アルノルド自身がこの本の序文で語っている。「しかし、彼女が自分の意志で語ったのではない。彼女は啓示を受けて

語っている最中に、よく語るのをやめて、『わたしの話は、みんなつまらないです! みんな無意味です! 思っていること

を、どういいあらわしていいか、わからないのです!」と、わたしにいった。しばしば彼女は、啓示されたことの偉大さに圧倒

されてしまい、話してしまったことと、これから話してしまおうと思っていたことを比較して、『兄弟よ、わたしは神を冒?(ぼう

とく)しています。?神です!』と、わたしに向かって叫んだ」。

います、?神です




sacerdos viennensis: Angela von Foligno




教皇ベネディクト十六世の242回目の一般謁見演説 福者フォリーニョのアンジェラ | カトリック中央協議会
より以下、引用。


教皇ベネディクト十六世の242回目の一般謁見演説 福者フォリーニョのアンジェラ

2010/10/13


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

今日は福者フォリーニョのアンジェラ(Angela da Foligno; Angela de Fulginio 1248頃−1309年)についてお話しし

たいと思います。フォリーニョのアンジェラは13世紀に生きた偉大な中世の神秘家です。通常、人はフォリーニョ

のアンジェラが達した神との一致の体験の頂点に心を奪われますが、彼女の歩みの第一歩である回心と、出発

点から三位一体との完全な一致という目的へと彼女を導いた長い歩みにはおそらくほとんど関心を向けません。

彼女の出発点とは「地獄への大いなる恐れ」でした。アンジェラの生涯の最初の部分が、主の熱心な弟子として

の生活でなかったことは確かです。1248年頃、裕福な家庭に生まれたアンジェラは、父を失い、あまり深みのな

い教育を母親から受けました。やがて彼女はフォリーニョの町の世俗的な環境へと導き入れられました。彼女は

この町で一人の男性と出会い、この男性と20年間結婚生活を送り、複数の息子を儲けました。彼女は何も考え

ずに生活し、いわゆる「悔悛者」たちを軽蔑するほどでした。当時広まっていたこの「悔悛者」は、キリストに従う

ために自分の財産を売り払い、祈りと断食と教会への奉仕と愛のわざを生きる人々でした。



いくつかの出来事がアンジェラの生涯に影響を与えました。たとえば、1279年の激しい地震、暴風雨、長年にわ

たるペルージャとの戦争とその悲惨な結果です。こうしてアンジェラは少しずつ自分の罪に気づき、やがて決定的

な段階に至ります。アンジェラは幻視の中で現れた聖フランチェスコ(Francesco; Franciscus Assisiensis 1181/

1182−1226年)に、よい総告解をするために助言を与えてくれるよう祈り求めます。1285年、アンジェラはサン・

フェリチアーノの修道士のところに行き、告白を行いました。3年後、彼女の回心の道は新たな一歩を踏み出しま

す。彼女は肉親のきずなを解かれました。なぜなら、数か月のうちに、母親と、夫、そして息子の全員が亡くなっ

たからです。すると彼女は財産を売り、1291年にフランシスコ会第三会に入りました。アンジェラは1309年1月4日

に亡くなります。



福者アンジェラに関する文書を集めた『福者フォリーニョのアンジェラの書』(Il Libro della beata Angela da Foligno)

は、この回心について物語ります。同書は必要な手段を示します。すなわち、悔い改め、へりくだり、そして苦しみ

です。同書は、アンジェラが相次いで体験したことを1285年から始めて段階を追って語ります。これらの体験を行っ

た後、アンジェラはそれを振り返ることにより、聴罪司祭の修道士を通してこの体験を語ろうとします。修道士は

それを忠実に筆記し、後にこれをいくつかの段階――彼はこれを「階梯ないし変化」と呼びます――にまとめますが、

完全に秩序づけることはできませんでした(『福者フォリーニョのアンジェラの書』:Il Libro della beata Angela da

Foligno, Cinisello Balsamo 1990, p. 51参照)。その理由は、福者アンジェラにとって一致の体験は霊的・肉体的感覚

の全体を巻き込むもので、彼女が脱魂の間「理解」したことについて、いわばその「影」しか精神の中に残らなかっ

たためです。アンジェラは神秘的脱魂の後に告白します。「わたしは本当にこのことばを聞いた。しかし、わたしが

見たこと、理解したこと、かのかた(すなわち主)がわたしに示されたことを、決して知ることはできず、また、たとえ

理解したことをことばで表そうとしても、それを語ることができない。むしろそれは完全に言い表しえない深淵なのだ」。

フォリーニョのアンジェラは自分の神秘的「体験」を、頭で考えて示したのではありません。なぜなら、この体験は、

不意に予期せぬ形で彼女の魂に伝えられた、神の照らしだったからです。聴罪司祭の修道士もこうした出来事を

報告するのに困難を覚えました。「それは神のたまものに関する彼女の深く驚嘆すべき慎み深さのゆえでもあった」

(同:ibid., p. 194)。アンジェラが自分の神秘体験を表現するのが困難だっただけでなく、それを聞く者にとっても

彼女のことばを理解するのは困難でした。この状況は、唯一まことの師であるイエスが、すべての信者の心の中

に生きておられ、この心を完全に所有したいと望んでおられることを示します。だからアンジェラは霊的な子に向け

てこう述べたのです。「わが子よ。あなたがわたしの心を見たなら、神が望まれることをすべて完全に行わずにいら

れないでしょう。なぜなら、わたしの心は神のみ心であり、神のみ心はわたしの心だからです」。ここには聖パウロの

次のことばがこだましています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きてお

られるのです」(ガラテヤ2・20)。



さて、わたしたちは福者アンジェラの豊かな霊的歩みの「階梯」のいくつかに限って考察したいと思います。実際の

ところ、第一の階梯は前提です。アンジェラがはっきりと述べるとおり、「それは罪の自覚であった。この後、魂は

断罪されることに深い恐れを抱いた。この階梯において、彼女は激しく泣いた」(『福者フォリーニョのアンジェラの書』

:Il Libro della beata Angela da Foligno, p. 39)。この地獄への「恐れ」は、アンジェラが回心の際にもっていたある種の

信仰に対応します。この信仰はまだ、愛、すなわち神への愛において貧しい信仰でした。悔悛、地獄への恐れ、悔い

改めが、アンジェラに悲しみに満ちた「十字架の道行」への展望を開きます。第8留から第15留への「十字架の道行」

は、やがてアンジェラを「愛の道」へと導くことになります。聴罪司祭の修道士は語ります。「この信仰深い者はそのと

きわたしにこう語った。わたしに神の啓示が与えられました。『あなたが書いたことの後に、こう書きなさい。恵みを

保ちたいと望む者は、魂の目を十字架からそらしてはならない。わたしがその者にどのような喜びや悲しみを与え、

許すときも』」(同:ibid., p. 143)。けれども、この段階においてアンジェラはまだ「愛を感じていなかった」のです。アン

ジェラはいいます。「魂は羞恥と苦さを味わったが、まだ愛ではなく苦しみを体験しており」(同:ibid., p. 39)、満たされ

ませんでした。



アンジェラは自分の罪を償うために神に何かをささげなければならないと感じました。しかし彼女は、自分には神に

ささげるものが何もないこと、そればかりか自分が神のみ前で「無にすぎないこと」をゆっくりと悟っていきました。彼女

は理解しました。自分に神の愛を与えるのは、自分の望みによるのではない。なぜなら、自分の望みは、自分が「無」

であること、「愛がないこと」しか与えられないからです。アンジェラが次のようにいうとおりです。「神に由来するまことの

清い愛だけが魂のうちにあって、自分の欠如と神のいつくしみを認識させてくれる。・・・・この愛が魂をキリストへと導く。

そして魂はいかなる偽りを認めることも、いうこともできないことを確かに悟る。この世の中で愛と混ぜ合わすことの

できるものは何もない」(同:ibid., pp. 124-125)。神の愛にのみ、完全に自分の心を開くこと。そして神の愛の最高の

表現はキリストです。アンジェラは祈ります。「ああ、わたしの神よ。わたしを最高の神秘を知るにふさわしい者として

ください。最高の神秘とは、あなたの深く言い表しえない愛と、三位一体の愛です。すなわち、わたしたちのために

行われたあなたの至聖なる受肉の最高の神秘です。・・・・ああ、はかり知れない愛よ。この愛によって、わたしの神は

人となられました。わたしを神とするために。これよりも大いなる愛はありません」(同:ibid., p. 295)。しかし、アンジェラ

の心には常に罪による傷が残ります。告白を行った後も、アンジェラは自分がゆるされながらも罪に打ちひしがれて

いるのを見いだします。過去の行いから解放されながらも、そのもとに服し、罪をゆるされながらも、悔い改めを必要

としていると感じます。地獄への思いも彼女から離れません。なぜなら、キリスト教的完徳の道を進めば進むほど、

魂はいっそう自分が「ふさわしくない」ばかりか、地獄に行くに値すると確信するようになるからです。



まことにアンジェラは自らの神秘的な歩みの中で、中心的なことを深く悟っていました。「ふさわしくなく」、「地獄に値する」

ことからアンジェラを救い出すのは、「神との一致」でも、「真理」を所有することでもありません。むしろそれは、十字架に

つけられたイエスです。このかたが「わたしのために十字架につけられたこと」です。このかたの愛です。第8の階梯で、

アンジェラはいいます。「けれども、わたしはまだ、わたしが罪と地獄から解放され、回心し、悔い改めたことと、わたしの

ためにイエスが十字架につけられたことのいずれが大きな善か、分からずにいました」(同:ibid., p. 41)。アンジェラは、

完徳に向かう困難な歩み全体を通して、愛と苦しみの均衡の不安定さを感じ続けました。まさにそれゆえにアンジェラは

好んで、十字架につけられたキリストを観想しました。なぜなら、十字架につけられたキリストを見ることのうちに、彼女

は完全な均衡の実現を見いだしたからです。十字架上におられるのは、最高の苦しみのわざ、すなわち最高の愛の

わざを行われた、人であり、神であるかただからです。第三の「教え」の中で、福者アンジェラはこの観想を強調して

いいます。「より完全に、より純粋に見れば見るほど、わたしたちはより完全に、より純粋に愛するようになる。・・・・神に

して人であるイエス・キリストを見る度合いに応じて、わたしたちは愛によってイエス・キリストのうちで変容をこうむる。

・・・・見れば見るほど魂は愛するようになるとすでに述べたが、同じことが苦しみについてもいえる。神にして人である

イエス・キリストのことばに尽くせぬ苦しみを見れば見るほど、魂はよりいっそう苦しみ、イエス・キリストにおいてさらな

る変容をこうむる」(同:ibid., pp. 190-191〔冨原眞弓訳、『幻視と教えの書』、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世

思想原典集成15 女性の神秘家』平凡社、2002年、599頁〕)。それは、十字架につけられたキリストの愛と苦しみに

浸され、それによって造り変えられること、このかたと同じものになることです。1285年の告白から始まったアンジェラの

回心は、神のゆるしが、愛の源である御父の愛の無償のたまものとして、彼女の魂に現されたとき、初めて成熟した

ものとなりました。アンジェラはいいます。「だれも弁解することはできない。なぜなら、すべての人は神を愛することが

できるからだ。そして神は、ご自身が魂にとってよいと望まれる以外のことを魂にお求めにならないからだ。神は魂を

愛するかたであり、愛そのものであるからだ」(同:ibid., p. 76)。



アンジェラの霊的な道程の中で、回心から神秘体験への、言い表しうることから言い表しえないことへの移行は、十字架

につけられたキリストを通して行われます。十字架につけられたキリストは、「苦しむ神であり人であるかた」であり、彼女

の「完徳の師」となりました。それゆえ、アンジェラの神秘体験全体は、十字架につけられたキリストと完全に「似たものと

なる」ことを目指します。それは、ますます深く徹底的な清めと変容を通して行われます。アンジェラはこの驚くべき取り組

みに、霊魂も肉体も含め自分のすべてをささげました。彼女は初めから終わりまで、悔い改めと苦しみにおいて決して

妥協することがありませんでした。十字架につけられた神であり人であるかたが受けた苦しみをすべて受けて死ぬことを

望みました。完全にこのかたへと造り変えられるためです。アンジェラは勧めていいます。「ああ神の子らよ。受難を受け

た神であり人であるかたに完全に造り変えられなさい。このかたはこれほどあなたがたを愛して、あなたがたのために、

もっとも惨めで言い表しえないほど苦難に満ちた死を、それももっとも辛く厳しいしかたで受けたのである。ああ人よ。

これはただあなたへの愛のみのゆえになされたのだ」(同:ibid., p. 247)。イエスと同じものとなるとは、イエスが生きた

ように生きることをも意味します。すなわち、貧しくなり、さげすまれ、苦しむことです。なぜなら、アンジェラがいうとおり、

「魂は、この世の貧しさを通して永遠の富を見いだし、さげすみと辱めを通して最高の栄誉と最大の栄光を得、苦しみと

悲しみによるわずかな悔い改めを通して、最高の善、永遠の神という限りない甘美と慰めをもつようになるからである」

(同:ibid., p. 293)。



回心から十字架につけられたキリストとの言い表しえない神秘的一致へ。この最高の道の秘訣は、絶えざる祈りです。

アンジェラはいいます。「祈れば祈るほど、よりいっそう照らされるだろう。照らされれば照らされるほど、至高の善なるかた

と至高の善とをよりいっそう深く気高く見るだろう。深く気高く見れば見るほど、よりいっそう愛するようになるだろう。愛す

れば愛するほど、よりいっそう歓びを感じるだろう。歓びを感じれば感じるほど、よりいっそう理解が深まり、さらに理解す

る能力が高まるだろう。こうして充溢する光へと導かれ、ついには理解が不可能なのだということを理解するに至るだろう」

(同:ibid., p. 184〔前掲冨原眞弓訳、593頁〕)。



親愛なる兄弟姉妹の皆様。福者フォリーニョのアンジェラの生涯は、神からかけ離れた、この世的な生活から始まりました。

しかし、やがて聖フランチェスコとの出会いと、ついには十字架につけられたキリストとの出会いが彼女の魂を目覚めさせ

ました。神が現存されることに。神とともにいるときに初めて人生は真の人生になるということに。なぜなら、人生は、罪を

悲しむことによって、愛と喜びとなるからです。このように福者アンジェラはわたしたちに語りかけます。わたしたち現代人

は皆、神が存在しないかのように生きる恐れがあります。神は日常生活から遠く離れているように思われます。しかし、神

は何千もの道を通して、それぞれの人の魂の中でご自身を現し、ご自分が存在すること、わたしを知っておられること、

わたしを愛しておられることを示されます。福者アンジェラも、わたしたちが、主がわたしたちの魂に触れるためのしるしに

気づくように望みます。神の現存に気づくように望みます。それは、そこから、十字架につけられたキリストとの交わりのうち

に、神と歩む道、神へと歩む道を学ぶためです。主に祈りたいと思います。あなたがともにおられることを示すしるしに気づ

かせてください。真の意味で生きることをわたしたちに教えてください。ご清聴有難うございます。



 


フォリーニョのアンジェラ - Wikipedia より以下、抜粋引用。


フォリーニョのアンジェラ(イタリア語:Angela da Foligno, 1248年 ? 1309年1月4日)は、カトリック教会の聖人であり、

キリスト教の神秘家である。彼女は広範囲にわたり、神秘的な事柄を著作にしてきた。フランシスコ会第三会員で

あり、Magistra Theologorum としても知られている。アンジェラは霊的な著作によって知られるのみならず、閉鎖的

な修道院に入ることを拒んだ人たちの宗教的共同体を設立したことでも知られる。



教皇クレメンス9世 が1701年7月11日にアンジェラを列福させ、教皇フランシスコが2013年10月9日に列聖した。

聖アンジェラの祝日はフランシスコ会第3会によって祝われる。アメリカ合衆国では1月7日。



幼少期と改宗



アンジェラの誕生日は正確には知られていないが、多くの場合、1248年生まれとされる。彼女はフォリーニョの裕福

な家庭に生まれ、おそらく早い時期に結婚した。彼女には数人の子供がいた。著作に彼女は世界を愛し、それが

喜びだと書いている。アンジェラは40代の頃、アッシジのフランチェスコを幻視し、それまでの自分の人生の空虚を

認めた。その時から、彼女はより崇高に人生を捧げる生き方を導き始めた。



3年後にアンジェラの母親が死去した。そして数ヵ月後には、夫と子供も失った。1人の神に奉仕する者として、マザ

ツオラ (Masazuola) を自分の同伴者とし、彼女は自分の財産を投げ出して、悔悛者として生き始めた。アンジェラは、

おおよそ1291年にフランシスコ会第3会に参加した。フランシスコ会士のアルノルド (Arnoldo) の霊的指導の下に

付き、アルノルドは彼女の聴罪司祭として彼女を支えた。



著作



「偉大な中世の神秘」を検討して見ると、アンジェラは神秘的な啓示をずっと受け続けていると言われる。そしてこの

本は1200年頃の後期に口述筆記により書かれたものである。アンジェラの著作群は『フォリーニョのアンジェラの書』

(Il Libro della Beata Angela da Foligno)に収録されている。



アンジェラは、自分のカトリック教会への回心としての歴史を『展望と指導の本』に記述している。「追悼(Memoriale)」

彼女は直接、ウンブリア州方言で 霊的な発展についての説明を口述筆記している。これは「追悼(Memoriale)」という

名で知られており、そしてこれは「修道士B」として知られる人物によってラテン語に翻訳された。この作品はおそらく

1292年に始まっている。



「修道士A」はアンジェラが、より高度でより困難である最終段階を完成させるまでの1296年までは一緒にいたが、

「記念 (Memorial)」の記述の際には、その比較的重要な部分を彼に全てを理解できないと判明した時、アンジェラの

体験を7つの「補助的な段階」にまとめてしまった。この文章は1298年に終わっており、ジャコモ・コロンナ(イタリア語

版)枢機卿と8人のフランシスコ会士に提出され、そしてそれは彼らの承認を受けた。「修道士A」は1299年から1300年

にかけてそれらを短く修正している。



おおよそ1296年から彼女が死去する1309年前半までの間に、アンジェラの名声は高まり、彼女を尊敬する人々が

彼女の周りに、男性も女性も多くの人数が集まってきて、一つの第3会な集まりができあがり、それらの人々は霊的

に自分を高めるために努力をした。後にアンジェラは、フォリーニョに修道女のためのコミュニティを立ち上げた。



最終版である「本(Book)」は36もの「指導 (Instructions)」を「記念 (Memorial)」に付けくわえている。これは、アンジェラ

のこの期間の教えを反映している。これらの教えはむしろ、より修道会的な記述であり、そして「記念 (Memorial)」から

のものを強調している。これには何人かの手によって編集が加えられている可能性があり、若干の削除があるが、

その指導はアンジェラの教えを反映している。



「誰も神のあかり無しに救われるものはいない。私たちは神のあかりによって始め、進める。そして神のあかりは私た

ちを完成の極みに導く。それゆえ、もしあなたが始めたいのなら、そして神のあかりを受けたいのなら、祈りなさい。

そしてもしあなたが完成の頂上に立ちたいのなら、そして、そのままの状態で多いに照らされたいのならいのりなさい。

もしあなたが信仰が欲しいなら祈りなさい。もしあなたが希望するなら、祈りなさい。もしあなたが、慈愛が欲しいなら

祈りなさい。もし、あなたが貧困を求めるなら、祈りなさい。もしあなたが服従を求めるなら、祈りなさい。あなたが純正

を望むならば、祈りなさい。あなたが謙遜を望むならば、祈りなさい。あなたがおとなしさを望むならば、祈りなさい。

あなたが不屈の精神を望むならば、祈りなさい。あなたが美徳を望むならば、祈りなさい。」

(聖ベルト・ゲッツィ (Bert Ghezzi) の声より)



「そしてこの流儀に従って祈りなさい。いつでも人生の書を読むことは、それは、神である人間イエスキリストの人生は、

貧困、痛み、軽蔑と本当の服従から成っていた。」(同上)



1308年のクリスマスにアンジェラは、同伴者に自分はまもなく死ぬだろうと言った。数日後、キリストが彼女に出現し、

個人的に自分が彼女を天国に連れて行くと約束した。アンジェラは、1309年1月3日に眠るように、自分の弟子たちに

囲まれるようにして死去した。遺体はフォリーニョの聖フランチェスコ教会に安置されている。彼女の遺体は死後も

腐敗を免れる奇蹟を起こした。



列聖

2013年10月9日、ローマ教皇フランシスコ (ローマ教皇)が列聖した。



Santo di oggi: Sant’ Angela da Foligno Terziaria francescana


聖母子への祈り




「聖フランシスコとその時代」ベラルド・ロッシ著 より抜粋引用


ルナンにとって、『太陽の賛歌』は「福音書に続く最も美しい詩文であり、近代的宗教体験

の最も完全な表現」、フォン・ケップラーにとって、「世界への最も美しい喜びの遺産」、フラ

ンシスコ・フローラにとっては「気高い詩の領域において天にあげられた祈り」なのです。

マックス・シェーラー、マルチン・ハイデッガー、カール・グスタフ、ユング、セーレン・キルケ

ゴールといった近代思想家たちは『太陽の賛歌』の中に、すぐさま近代実存哲学を読み

取ったのでした。


『太陽の賛歌』は西洋キリスト教界の文学の中では先例を見ないものでした。それまでの

文学作品に見られる神秘性は、たとえ人間そのものに、愛に満ちた光をあてたとしても、

人間を神とのかかわりにおいてのみとらえているものでした。フランシスコは聖パウロの直

感に照らされて、自然界に存在するすべて生きとし生けるものとのかかわりを新たな目で

見直し、それぞれを兄弟姉妹としてとらえるのですが、彼以前の偉大な神学者たちはそれ

らを、単に神の象徴としてとらえていたのでした。兄弟性という理念はフランシスコが世界

を新しい目で見た事実から湧き起こってきたのであり、それは教皇パウロ6世がキリスト教

的喜びについての彼の文書の中で、「根源的至福の回復」と呼んでいるところのものです。

『太陽の賛歌』において本来の無垢の姿のままに見つめなおされた時、石も木も、動物も

星も、光も、そして秘められた生命の神秘もすべてが一つになって、それらを創造された

神の前に呼ばれるのです。すなわち、ふだん、人間と共にいるこれらのものが集められ、

愛撫にも似た優しさと懐かしさをもって、これらのものが触れられ、天から来て地に下りる

順序とそれらの持ち味に応じて紹介されているのです。


宇宙万物の兄弟の中で第一のものは太陽であり、フランシスコは賛歌の名前をこれに結

びつけるのを望みました。聖痕が証明しているように比類ないほどにキリストに完全に似

たものとなったフランシスコの心理と生涯を考慮するならば、彼が太陽のうちに全宇宙の

原型であるキリストのシンボルを見ていたこと、またそれだけではなくキリストの受肉によっ

て物質を通して霊との出会いを見ていたことは十分に考えられることです。


喜びへの称揚、祈り、宇宙的賛美、神学的直感、エコロジーの先取りとしての『太陽の賛歌』

の主人公はフランシスコであり、フランシスコにおいてすべての人間です。人間は宇宙の中

に浸されており、宇宙の中に浸透しています。しかし、宇宙を愛し、宇宙を神に結びつける能

力によって自分を高めるのです。『太陽の賛歌』は被造物の目的を総括し、被造物の聖なる

コンサートを指揮することができるこの世の秘跡です。『太陽の賛歌』によって、フランシスコ

は全被造物から成る神の民の中心に自分自身を置き、生きとし生けるものの存在を祝福す

るのです。


ポール・サバティエは『太陽の賛歌』に関する章を、次のように悔恨の念をもって閉じていま

す。「『太陽の賛歌』は最高に美しい。しかし、もう一つの小節が欠けている。けれども、それが

フランシスコの唇に上らなかったとしても、彼の心に確かにあったことだろう。それは、『たたえ

らえよ、わたしたちの主、姉妹なるクララのゆえに、あなたは彼女によってわたしたちの心を

燃え立たせ、彼女を沈黙と労働と純真さによって形作られたからです』という小節である」。


 
 


2012年4月11日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



映画「ブラザーサン・シスタームーン」



アッシジの聖フランシスコは神が創造した全てのものに神の息吹きを感じた、と表現してもいいかも

知れない。しかしサイトでも書いたように、私はその気づきとは違う次元、世界がありのままの姿で

映し出されている次元にフランシスコが立っていたのではないだろうかと感じてならなかった。



純度の高い鏡を持つ者においては、世界に存在するすべてのものが、その存在の重みそのものを

映し出している。



純度の高い鏡、それはアニミズムにも共通している。岩田慶治氏は「木が人になり、人が木になる」

の中で、アニミズムを次のように語り、この鏡の模範を鎌倉時代の禅僧・道元に見いだしている。



☆☆☆☆



「自分が鏡になってそこに天と地を映すといっても、鏡になるための・・・そのために精進努力する

・・・手がかりはない。



しかし、それにもかかわらず、自分のまえに、自分にたいして、天と地ではなくてそれが一体となった

全宇宙が訪れるということは、そのとき、自分がすでに鏡になっていたということである。



いわゆるアニミズム、あるいは本来のアニミズム経験というのは、木の葉のさやぎ、川の流れの音、

あるい草葉の露に全宇宙の規則をみることであって、その経験の時・処において、宇宙との対話が

成立しているのである。



つまり、自分が鏡になって、そこに天地を〈同時〉に映しているということである。」引用終わり。



☆☆☆☆



しかし、この鏡を持つということは別の姿を映し出すことになる。フランスの哲学者でレジスタンスでも

あったシモーヌ・ヴェイユは逆にこの鏡のために、人々の不幸がそのままの重さで映し出され彼女を

苦しめた。しかしそれでも彼女は力強く言う。「純粋さとは、汚れをじっと見つめうる力である」と。



聖フランシスコにとって心の故郷であった10坪にも満たないポルチウンクラの教会、そこでヴェイユは

生まれて初めて何かの力に逆らえずひざまずく。



自分に何が出来るか、それは決して大げさなことでないかも知れない。公園でガラスの破片が子供た

ちを傷つけないよう拾っている人もまた偉大な聖人だと私は思う。世間から大きな賞賛を受けなくとも、

どれだけそこに心を込めているか。



映画「ブラザーサン・シスタームーン」は私にとって、「ラ・マンチャの男」と並んで生涯大事にし続ける

映画かも知れない。



☆☆☆☆



「太陽の歌」アッシジの聖フランシスコ



神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。

わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。

太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。

わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。

月と星はあなたのけだかさを受けています。

わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。

風はいのちのあるものを支えます。

わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。

水はわたしたちを清め、力づけます。

わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。

火はわたしたちを暖め、よろこばせます。



わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。

大地は草や木を育て、みのらせます。

神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、

病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。

終わりまで安らかに耐え抜く者は、あなたから永遠の冠を受けます。



わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。

この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。

大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。

神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。

第二の死は、かれを損なうことはありません。

神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、    

感謝します。



☆☆☆☆



(K.K)



 







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