「イエス・キリスト 封印の聖書」

蘇る原始の教え サンダー・シング

林陽 編・訳 徳間書店 より








サンダー・シングの言葉


ヒンドゥー教の聖典類には、カイラス山が頻繁に出てくる。実際、そこは素晴らしいところだ。

その美しさに心打たれた古代のリシたちは、その付近に住むことを皆望んだ。聖書は丘陵の

多い国で書かれたため、山の景色が度々登場する。聖書を学ぶ人々にとって、山はもっとも

崇高な性質の表現である。「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」、

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。作者

は雪と泉を見ていたので、それに感動し、祈ったのである。自然界の白雪と、澄み切った、甘

く、冷たい水の泉を見たことのない人に、そうしてその素晴らしさがわかり、その創造主と声

を一つにして祈ったりできよう。哲学者や学者の著作を理解するには、彼らの使う専門用語を

知っておく必要がある。しかし、神の書である自然界を理解するには、目が開かれていさえす

れば十分である。「おお、賢き人よ、人の目に緑と映る木々の葉は、実は、神の啓示の書の

葉なり」。川や谷川、泉、山々、花や果実は、目が開かれていさえすれば、冷えた心をも溶か

し出す。被造物すべてが、大声で神を賛えているかのようである。これを思うとき、哀れな人間

の姿を嘆き悲しまずにはいられない。口なき被造物さえ、笑いながら、感謝の中で神を賞め賛

えている。にもかかわらず、人は舌を与えられていながらも口を閉ざしたままである







あるとき、ヒマラヤ山中で川辺に座っていたわたしは、ふと水の中に手を入れて、硬い、きれい

な玉砂利を手にとってみた。割ってみると、中は乾いていた。長年川底にあったにもかかわら

ず、この砂利の中には水が染み込んでいなかったのである。まさに、これと同じことがヨーロッ

パの人々にいえる。彼らは、幾世紀にもわたりキリストの教えに囲まれてきた。その恵みにどっ

ぷりと浸って生きてきたにもかかわらず、キリストの教えは彼らの中に浸透せず、彼らの中に

生きていない。キリストの教えが誤っているのではない。硬化した心に原因があるのだ。物質

主義と知識主義が、彼らの心を硬化させているのである。そこに住む多くの人々が、真のキリ

スト教の何たるかを悟らずにいることに、わたしはまったく驚かない。







わたしは、この件について、諸天使、諸聖人と幾度か語り合いました。それによれば、地獄が

永遠であるというのは、人間の創造が続く限り、宇宙間にある幾多の地球からくる数知れぬ

霊魂が、各々の状況に従って絶えずそこに入ってゆくという意味であり、その悪霊たちが永遠

に地獄に留まり続けるという意味ではないとのことです。もしそうであれば、神の愛と知恵は、

このような霊を創りたもうことはなかったでありましょう。愛である神は、被造物がどれほど邪悪

であろうと、永遠に地獄で彼らが責苦を受けるのを見ることはできないのです。神の御心に対立

するものがすべてなくなるときがきます。地獄がその役目を終えるときこそ、神は永遠に「すべて

のすべて」となられるのです。







一人の王がいた。王に仕える大臣は、博識で聖なる人だった。パレスチナを旅したとき、大臣は

キリストの話をきいていたく感動し、ついにキリスト教徒になった。故国に戻ると、自分がキリスト教

徒になったこと、罪人を救うために世に下った救い主を信じていることを人々に告白した。王はいっ

た。「余は、何かをさせたいときには、一言家来に命じるだけでそれは果たされる。一言で人間を

救えるはずの王の王が、何故この世に来て受肉しなければならぬのか」 大臣は、答えを出すまで

一日猶予をくれるよう願った。そして、有能な職人に命じて人形を作らせ、王の一歳になる子供

そっくりに着付けさせ、翌日待っているように命じた。その翌日、王と大臣は船の上にいて、いよい

よ大臣が答えるときがきた。このとき、かねてからの打ち合わせ通り、職人が人形を抱えて岸辺に

立った。王は、人形をわが子と思い込み、両手を差し延べたが、職人は大臣の指示通りに人形を

湖に投げ込んだ。このとき、王は溺れるわが子を救おうと、すぐに水に飛び込んだ。このあとで、

大臣はいった。「王様、ご自分から水に飛び込む必要はありません。わたしにご命じになれば十分

ではありませんか。なぜ、自ら飛び込まれましたか」。「父の愛だ」と王は答えた。大臣はいった。

「世を救うために、全能の神自らが化肉されたのは、まさにその愛のためなのです」と







わたしはまた、神の愛は地獄の中でさえ活動している、といわれた。そこにいる者たちが耐えられ

ないため、神はそのご威光を全開にはなさらないが、彼らに少しずつ光を増してお示しになり、

次第に彼らを動かして、良心をよりよきものへと向かわせる。もっとも、彼らはこのような欲求は

まったく自分自身によるものだと思っている。このようにして、神は内側から彼らの心に働きかけ

る。それは、サタンがわれわれに誘惑を吹き込むのと同じ方法だが、方向は正反対である。こう

して、内なる神の働きかけと外なる光とによって、最後には、地獄にいる大部分の者がキリスト

の下に招かれるようになるだろう。それには、おそらく、何百万世代も要するだろうが、これが

実現された暁には、彼らは歓びと神への感謝の気持ちに満たされよう。もっとも、地上でキリスト

を受け入れた者たちほどには幸せではなかろう。このように、地獄もまた、訓練校、故郷への

準備の場所なのである。地獄にいる者たちは、そこで苦しむために、そこが自分たちの故郷では

ないことを知っている。人は地獄のために創造されたのではないので、地獄を楽しめるはずが

ない。そこにいれば、天に逃れたいと願うのは当然である。もっとも、そのようにしても、天上の

栄光が地獄以上に異和感を生じるため、彼らはまた戻ってしまうのである。しかし、このことに

よって、彼らは自分の生き方に誤りのあることに気づき、少しずつではるが悔い改めへと導か

れてゆく。少なくとも、大多数の者はそうである。しかし、例えばサタンのような一部の数の者た

ちについては、「彼らについてはたずねるな」をわたしはいわれた。それで、わたしは問う気に

なれなかったが、彼らにも多少の希望があればと思った。彼らはまた、天においては怠慢は

有りえないので、聖徒たちは地獄の霊魂を救う仕事をも助けていると語った。地獄にいる霊た

ちの多くは、放蕩息子のように、最後には天界に導かれることだろう。しかし、ある数の者たち

の最終的運命については問うてはならないと







わたしはキリストの体、つまり真の教会に属している。それは、形ある建物ではない。この地上

に生きている人々と、この世を去って光りの世界に入った人々とから成る、真のキリスト者の

集合体である ・・・・・・・ 教派は無用の長物である。神はただお一人なのに、なぜこうまで

多くの教会があるのだろうか。なぜ不一致を起こしているのか。しかし、それが世の中なので

ある。すべての教派は一つになれば、それはもはや世ではなく天である。このような短い地上

生の中でともに一致して生きられないクリスチャンを見るとき、彼らが永遠の世界の中でどう

してともに生きていけるだろうか、とよく思う。 ・・・・・・・ わたしは、カトリックとプロテスタント

が一致して大きなことを遂げられるとは信じていない。二つの色を合わせれば三つ目の色が

できる。カトリックとプロテスタントが統一されれば、新種の教派を目にすることを予期しなけ

ればならない。わたしは、人為的に作り出された一致というものを信じない。外側だけの一致

は無意味である。キリストに一致している人々だけが、真実、主において一つになり、天国に

おいて一つになるだろう。真のキリスト者は、神の礼拝形式がいかに違おうとも、霊において

一つである。わたしは、外的、人為的な一致を信じない。わたしが信じているのは、心と霊魂

の肉的な一致だけである。







生けるキリストは、必要に応じて誰にでもご自身を現わされている。非キリスト教の思想家たち

もまた、“義の御子”から光を与えられている。インド人も聖霊を受けている。ちょうど、生きて

いる魂の誰もが空気を呼吸しているように、クリスチャンであれ非クリスチャンであれ、どの魂

も、たとえ自分では気づかずとも聖霊を呼吸しているのである。







多くのクリスチャンは、互いに憎み合い、争い合い、互いへの愛も、キリストへの愛も持っては

いません。主は愛であられるのに、その愛が彼らの心にはありません。神がわたしたちの生命

の中に生きていれば、わたしたちは人々に愛を示します。豊かな生命を受けていれば、神がわ

たしたちの中に生き、わたしたちはすすんで他を愛することでしょう。わたしたちは、祈りを通し

て主を知り、主の中に生きなければなりません。そうすれば、主がわたしたちの中にいます。

さもなければ、終わりの日に主はこういわれることでしょう。「わたしはあなた方を個人的には

知りません。あなた方はわたしについて知識はあった。聖書も読んでいた。しかし、わたし自身

を知らなかった。わたしはあなた方の心の中にいなかったのです」。主を知るときに、わたした

ちは天で永遠に主とともに生きるのです。主は近くに、ともにおられます。わたしたちは、ともに

あり、内にある主の臨在を実感することができます。主があなた方の心の中にいなければ、

「神さま、わが胸の中にお入りになってください」と祈るのです。ものを求めず、主ご自身を求め

て祈るのです。主は、わたしたちの内に住んでくださいます。主はわたしたちとともにおられま

す。しかし、わたしたちが主を知らなければ、それも十分ではありません。わたしたちが主を知

れば、二度と挫かれることはありません。苦しみ、悲しみがあっても、主の臨在を感じることで

しょう。生命を与えてくださる主の現存が、わたしたちの生を地上天国に変えてくださるのです。



サンダー・シングとカイラスの大聖との対話「天国と死後世界」

年雪に閉ざされた大ヒマラヤの霊峰カイラスの洞窟に住む、年齢三一八歳という聖人

との対話録です。日本では未発表のもので、役者の林陽さんからいただきました。


 







沈黙から祈りへと流れゆく聖なるもの

アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

天空の果実


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