「レナの約束」

レナ・K・ゲリッセン&ヘザー・D・マカダム著

古屋美登里訳 清流出版 より






本書より引用


「行進しろ!」 命令が張りつめた朝の空気を震わす。わたしの心臓が止まる。その

一団を見つめる。何百もの子供たちの小さな足が、収容所のわたしたちの前を通り

過ぎて行く。玩具のなかに顔を埋めている子もいる。慰めであるぬいぐるみの身体

から飛び出している詰め物を押さえる子もいる。なかでも幼い子どもたちたちは、

年上の子どもの手を握りしめている。子どもたちは目を皿のように丸くしてわたした

ちを見つめ、子羊のようにうろたえる。わたしたちの背後から、鳴咽が洩れる。死ん

だ子どもを思い出した母親かもしれない。子どもたちの無邪気な顔が、柵を、建物

を、大人たちを、不思議そうに見回す。わたしがここに到着したときのように、大人

たちを狂人だとでも思っているのだろうか。パパやママそっくりな大勢の大人たちが

いるのに、どうしてぼくたちを守ってくれないのか、と思っているのだろうか。あの子

は怖いのだろうか。私の口が空しく開く。とても見ていられない。身を翻すこともでき

ない。ドイツ兵は狂っている。どうして幼な子まで殺す必要があるのか。あの子たち

が窒息死させられるのにどれくらいかかるのか。慰めてくれる人が一人もいない恐

ろしさに、泣きわめくだろうか。親衛隊は子どもたちをガス室へと連れて行く。人形

やぬいぐるみを胸のところでひっしと抱きしめて、子どもたちは五列縦隊になって、

わたしたちの前を通り過ぎる。その周りにはライフルを抱え、犬を引き連れた親衛

隊員が見張っている。いったい親衛隊員は、子どもたちが何かをしでかすとでも

思っているのだろうか。逃亡するとでも? 反乱を起こすとでも? いや、それが

規則なのだ。ガス室へと向かうときはいつも、親衛隊は、隊列の両側に五列置き

に配置される。彼らはいつでも規則に従う。彼らは物をよく知っている者を嫌う。

真実が表沙汰になるのを嫌う。しかし、わたしたちは真実を知っている。それが

身にしみるまでにずいぶんと長い時間がかかったけれど、もう間違えようがない。

その証拠に、選り分けが終わると、空は煙に満ち、構内には人気がなくなる。それ

でも、自分たちの計画を邪魔する者を嫌うのだ。ドイツの諺に、「規則は規則」とい

うものがある。彼らは規則を指導者のように盲信する。私はその場に、幽霊のよう

に立ち尽くす。子どもたちの天使のような顔が、その愛らしく握られた白い手が、

どこまでもわたしにつきまとう。涙と怒りとをかろうじて押し殺す。私の心は悲鳴を

あげる。やめて! こんな殺人はやめて! この子たちはまだほんの赤ん坊なの

よ! 歯を食いしばりながら、目をつむる。神? もうわたしは滅多に神のことを

口に出さない。でも、心のなかに焼きついた小さな顔を見ているうちに、もう一度

だけ、神に祈らなければと思う。主よ、御身はわたしの神であり、わたしは御身を

信じています。どうしてこの怪物の一人を打ちのめしてくださらないのですか。この

子らのために、御身の子らのために、一人の親衛隊員だけでもいいですから、打

ち滅ぼしてください。これほどわたしが全身全霊をかけて信じ、従っている主よ。

安息日には、小銭ですらこの手に握りはしませんでしたし、断食に耐えられる年齢

になってから、ヨム・キプールにはいつでも断食してきました。こんなことが起きるの

をお許しになりませんように。この子ら、このイスラエルの子らをお見捨てにならな

ない証をお示しください。わたしのことならどうなってもかまいません。ここにいつま

でいようとかまいません。焼き殺されたりガス室に送られた人々についてわたしが

耳にしたことはもういいのです。真実を受け入れたくないあまりに、勝手な幻想を

抱いていたわたしたちのことなど放っておいてください。わたしのことなどどうなっ

てもいいのです。でも、あの可愛らしい子どもたちはお守りください。あの子らの

ために、御身がわれらの神であることを、ナチの一人を殺して証明してみせてくだ

さい。怒りの拳にした両手を、太陽に押しつける。目をしっかり閉じて、この場で

歩哨が雷に打たれて倒れ伏す様子を思い描く。子どもらを助けようと動く者は一人

もいない。聖なる介入だけしか頼るものはない。どうか、主よ・・・・・・・。子どもたち

の姿が遠くの、ガス室のそばでかすんでいる。どうかやめて! と心が悲鳴をあげ

る。誰かがわたしのそばを通り過ぎて歩みを止める。砂利道なので足音が軋む。

彼女は、打ちひしがれたわたしたちの顔を見るために、戻って来る。彼女の熱い

息がわたしの頬をなぶる。用心して目を開けると、そこにハッセの残忍きわまり

ない目がある。彼女の染み一つないブーツ。真っ白な輝く皮膚。彼女はアーリア

人の優位性を一身に表わして、わたしたちの前に立つ。彼女はわたしたちの苦し

みを見ていた。彼女はわたしの心を見透かす。彼女の声を聞いたら、その瞬間か

ら、神を信じる気持ちが一変してしまうということがわかる。この先もわたしは神に

祈るだろう。ずっと信仰を持ち、それを信じようとするだろう。しかしもう決して、

以前のようにひたむきに神を信じることはないだろう。彼女の唇がめくれ上がり、

歯がむき出される。これは笑っているに違いない。彼女の言葉は、マシンガンの

弾のように、しゃがれたスタッカートだ。その言葉がわたしたちをなぎ倒す。「あん

たたちの神様はどこにいるんだい?」 命が流れ出す。答えはない。わたしたち

は悲惨きわまりない。点呼は終わりなく続く。労働は慰めになるかもしれない。

子どもたちのことを心のなかから追い出してくれる。しかしいまこの場にはそん

な逃げ道はない。煙突から煙が上がる。肉の焼ける臭いが鼻をつく。子どもたち

が焼かれている臭いだ。太陽は灰色の雲のかげに隠れている。もしも子どもたち

を救えないのなら、祈りは何のためにあるというのだろう。ハッセの声が、信仰に

揺らぐわたしを悩まし、息をするごとにつきまとう。「あんたたちの神様はどこなの

さ」 わたしの心は萎む・・・・・・・。わたしにはわからない。



目次

序章 出会い

第1章 幸福な日々

第2章 愛しい人たち

第3章 自由はどこに

第4章 約束

第5章 生と死のあいだで

第6章 友情、そして恋

第7章 「西へ行きなさい、レナ」


エピローグ

参考文献

謝辞

訳者あとがき








「夜と霧」 フランクル

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