「それでも人生にイエスと言う」

V.E.フランクル著 山田邦男・松田美佳訳

春秋社 より








以下、本書より引用


たったいま、「日常」ともうしました。それどころか、さきほどは、「日常の形而上学」と

いうことばさえ口にしました。このことばの意味を正しく理解していただきたいと思い

ます。日常は灰色で平凡でつまらないものに見えますが、そう見えるだけなのです。

といっても、その日常をいわば透明なものにする、日常を通して永遠が見えるように

するということだけが問題なのではありません。最終的に大切なのは、この永遠が、

時間に戻るよう私たちに指し示しているということです。時間的なもの、日常的なもの

は、有限なものが無限なものにたえず出会う場所なのです。この出会いが、日常の

聖別式になり、日常を「神聖なものにする」可能性になるのです。私たちが時間の中

で創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、

体験し、苦悩しているのです。私たちが出来事に対して責任をもつ限り、つまりその

出来事が「歴史」である限り、私たちのこの責任は、途方もなく大きなものになりま

す。というのも、まだ起こっていない出来事は、ほうっておけば、いつまでも起こらな

いままだからです。しかし同時に、私たちは、まだ起こっていないことをまさに起こす

よう、責任を自覚しなければなりません。しかも、私たちの日々の仕事の中で、私た

ちの日常の中で責任を自覚しなければならないのです。このようにして、日常がまっ

たき現実になります。そしてこの現実がなにかを実現する可能性になるのです。

そしてそういう意味で、日常の形而上学は私たちを、まず日常から連れ出すけれど

も、自覚とともに、責任の自覚とともに、ふたたび日常に連れ戻すのです。このよう

な生き方を導き助けてくれるもの、私たちに付き添ってくれるもの、それは責任の

よろこびです。しかし、ふつうの人にとって、責任を引き受けるよろこびとはなんで

しょうか。人間は責任を「問われたり」、責任を「逃れたり」します。こうしたことば

には、責任を負うまいとする抵抗力が人間にあるという教訓が示されています。

そして実際、責任というものには測り知れないところがあります。責任というものを

直視すればするほど、その測り知れなさに気づくのです。そしてしまいには、一種

のめまいを起こすほどです。人間の責任の本質に沈潜していくと、ぞっとします。

人間の責任とは、おそろしいものであり、同時にまた、すばらしいものでもありま

す。おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ること

です。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味が

ある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を、つまりその一つの瞬間の

可能性を実現するか失うかするのです。さて、その瞬間その瞬間には、何千もの

可能性があるのに、そのうちのたった一つの可能性を選んで実現するしかありま

せん。しかし、一つの可能性を選ぶというだけでもう、いわば他のすべての可能性

に対して、存在しないという宣告を下すことになるのです。しかもそれらの可能性は

「永遠に」存在しないことになるのです。それでもすばらしいのは、将来、つまり私

自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあって

もとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断

によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が

救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなの

です。けれども、人間というものは怠慢ですから、なかなか責任を負おうとはしま

せん。そこで、責任教育がはじまるのです。たしかに、この課題は困難なもので

す。責任を認識するだけでなく、責任を自分で担うのは難しいことです。責任を、

そして人生を肯定するのは難しいことです。けれども、かつて、あらゆる困難も

ものともせず、この肯定を行った人たちがいました。ブーヘンヴァルト収容所の

囚人たちが、彼らの作った歌の中で「それでも人生にイエスと言おう」と歌った

とき、それをただ歌っただけではなく、いろんな仕方で行いに移しもしたのです。

彼らも、そしてほかの収容所にいた私たちのおおくも、おなじように行いに移した

のです。しかも、きょう最初に十分にお話したように、外面的にも内面的にも口で

いえないような条件の下でそれを成し遂げたのです。とすれば、こんにち、ほんとう

は比べることはできないとはいえ、比較的ましな状況にある私たちが行いに移せな

いわけがありましょうか。人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況で

も人生にイエスと言う意味があります。そればかりか、どんな状況でも人生にイエス

と言うことができるのです。結局、この三つの講演の意味はいまいったことに尽きま

す。おわかりいただけたでしょうか。人間はあらゆることにもかかわらず --- 困窮と

死にもかかわらず(第一講演)、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず(第二

講演)、また強制収容所の運命の下にあったとしても(第三講演) --- 人生にイエス

と言うことができるのです。



目次

T 生きる意味と価値

生きる意味があるか、と問うのは、はじめから誤っているのです。

人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。

・・・・そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。

・・・・生きることはいつでも課せられた仕事なのです


U 病いを超えて

当時私たちは、ほんとうに人間らしい苦悩、

ほんとうに人間らしい葛藤にどれほどこいこがれていたことでしょう。

・・・・逃れられない事実であっても、その事実にどんな態度をとるかに、

生きる意味を見出すことができるのです。


V 人生にイエスと言う

私は、まさに強制収容所の体験を通して、

ほんとうに大きな人間に成長したたくさんのケースを知っています。

・・・・私たちが時間のなかで創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、

同時に永遠に向かって創造し、体験し、苦悩しているのです。


解説 フランクルの実存思想・・・・山田邦男








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