「自然の言葉」
ジャン=マリー・ペルト編
中井久夫+松田浩則 訳 紀伊国屋書店より引用
ヨブ記
フンボルト「南米紀行」
アシジの聖フランチェスコ「小さき花」
ゲーテ「格言と思索」「植物の変態」
パスカル「パンセ」
タゴール「抒情の供物」
シュタイナー「人と動物および諸元素の霊との関連」
ルソー「人間不平等起源論」
ヴェルハーレン
ジッド「地の糧」
ルナール「博物誌」
ネルヴァル「黄金詩篇」
ランボー
ジブラーン「予言者の庭」
タフカ・ウシュテ「インディオの思い出」
ホイットマン「草の葉」
ディッキンソン「詩集」
タゴール「抒情の供物」
同じいのちの河が
私の血管を夜となく昼となく走っている、
世界を走りぬけ、
脈動のリズムにのって跳ねて踊りを踊る。
それと同じいのちだ、大地の土埃から
その喜びを吹き出して数かぎりない草の若芽の形になり、
炸裂してはげしい葉の波、花の波になるのも。
それと同じいのちだ、誕生と死との揺りかごである海の中で
満ち潮と引き潮とが釣り合わせるもの。
この普遍のいのちに触れて
私の手足も荘厳されるのを感じる。
私は私を誇らしく思う、
年々のいのちの壮大な鼓動が、
今の瞬間、踊りを踊っているのは私の血の中だ。
私は感じる、
満天の星が私の中で
脈打っているのを。
世界はほとばしっている、
私のいのちの中を
流れくだる
水のように。
花々がひらく、
私の存在の中で。
あらゆる春は
その風景と
その河とともに
香のかおりのように
私の心にたちのぼる、
そして、ものみなの
呼吸は
私の思考の中で歌う、
フルートのように。
「インディアンの思い出」 タフカ・ウシュテ
私はたくさんの草木を調べたが、一本の草の葉でも、一本の茎の葉でさえ
一つとして同じものはなかった。地上にはきっかり同じかたちの葉は二つと
ない。「大いなる精霊」はそのようであることがお好きなのである。地上の
生物は大まかには一つのデザインに従ってつくることがお好みであって、
そのおかげがあるから、生命のとおる道筋を辿ることができるのである。
この道筋を辿ることによって、生物はどこに行くのか、どういう目標をめざ
すかを示すいっぽう、目標に至る経路のほうは自由に選べるようにしてあ
る。生物たちがその本性に従い、その持ち前の衝動に従って行動するこ
とを精霊は望んでおられる。
ワカン・タンカは、草木も鳥獣も、もっとも見栄えのしないネズミ、シラミの
たぐいに至るまで、そうあるべきように望みたもうているとすれば、まして、
人間が、同じ仕事をし、同じ時間に起き、同じ型の既製服を着て、同じ地下
鉄で移動し、同じ時計に眼をやり、そしてこれが最低のことだが、一日中
おおむね同じことを考えていなければならないのだろうか。
すべての生物はその存在理由を持っている。一匹のアリでさえその存在
理由があって、アリはアリなりの仕方でそれを知っている。まあ、脳を使っ
て知っているのではないかもしれないが。ただ人間だけがなぜ自分が存
在しているのかがわからなくなる地点まで達したのである。人間は、もは
やその脳を自分の役に立てておらず、自分の身体の、感覚の、夢の内密
の知を忘れている。人間は、精神が人間の中に蓄えておいた知識を活用
しておらず、そのことを意識さえしていない。人間は目をつぶったままで、
どこにも行き着かない道を前進している。広い砕石道を、技師たちが機械
で砕いてさらに滑らかにして、人間を飲み込もうと無の穴が待っている、
そのはてに向かって進んでいる。