Tse-ka ("Douglas Spruce Leaf"), cacique of San Juan
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
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森の思想が人類を救う | センス・オブ・ワンダー |
森を守る文明・支配する文明 | 宗教の自殺 さまよえる日本人の魂 |
沖縄文化論 忘れられた日本 | 生きがいについて |
人類哲学序説 | |
蛇と十字架 | オーロラの彼方へ |
ラブ・ストーリー | 森に還る日 |
最後の楽園 | 祈りの木 |
奄美 神々とともに暮らす島 | 「太陽の哲学」を求めて エジプト文明から人類の未来を考える |
あなたが世界を変える日 12歳の少女が環境サミットで語った 伝説のスピーチ |
日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る |
木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日 |
動物はすべてを知っている |
ネイティブ・タイム(未読) 先住民の目で見た母なる島々の歴史 |
リグ・ヴェーダの智慧(未読) アニミズムの深化のために |
世界樹木神話(未読) | 縄文の音(未読) |
アニミズムという希望(未読) | オオカミの護符 |
甦る縄文の思想 | ロミオと呼ばれたオオカミ |
既読の文献
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梅原猛著 小学館ライブラリー
「梅原日本学」から飛翔してアイヌ・沖縄の底に流れる縄文文化の姿は、アメリカ・
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東西の風土と宗教 安田喜憲著 人文書院
おのおの異なる風土とそこに生まれる宗教や世界観は決して断ち切ることが出来 キリスト教とアニミズムやシャーマニズムへの私の想いはこちらに書いています。 アメリカ大陸を発見し、人類に新たな世界観をもたらしたコロンブスの発見は、
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岡本太郎著 中公文庫
過酷な歴史の波に翻弄されながらも、現代のわれわれが見失った古代日本の息吹 この名著は1959年、敗戦後のアメリカ占領下にあった沖縄を画家・岡本太郎が半月
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「新版 日本の深層」縄文・蝦夷文化を探る 梅原猛 著 佼成出版社 原日本文化への旅立ち(本書より引用) 東北人は、長いあいだ、心の中に、密かなる誇りをいだきながら、蝦夷の 後裔であることに、耐えてきた。そして自分が、アイヌと同一視されることを 頑強に拒否してきた。蝦夷は人種的概念ではなく、ただの政治的概念に すぎない。そして、「蝦夷はアイヌではない」そういう結論は、東北人にとって のぞましい、はなはだ願わしい結論のようであった。このような願わしい結 論にそって、東北を、古くから倭人の住む、古くから稲作農業が発展した 国と考える見解が、戦後の東北論の主流であったように思われる。それは 東北人を後進性の屈辱から救うものであったとしても、かえって東北特有の 文化の意味を見失うことになると思う。 蝦夷の子孫であることが、蝦夷の後裔であることが、なぜわるいのであろう。 アイヌと同血であり、同文化であるということを、なぜ恥としなくてはならない のか。日本は平等の国家である。幕末に戦った二つの権力、薩長方も徳川 方も、平等に日本国民としての権利と義務をもっているのではないか。倭人 と蝦夷の対立はもっと昔のことなのである。その昔の対立が、なぜ現代まで 差別になって生き続けねばならないのか。蝦夷の後裔であること、アイヌと 同血であることを、恥とする必要はすこしもないのである。むしろ、日本の文 化は、蝦夷の文化、アイヌの文化との関係を明らかにすることによって、明ら かになるはずである。 私のこの旅は、ほんの短い期間の旅である。芭蕉は、『奥の細道』の旅に5ヶ 月を要した。私は公務の都合で、10日しかこの旅に使うことはできなかった。 もとより、前にも何度か東北の各地を訪れたことはある。このささやかな旅で 私は、東北文化のほんのわずかしか触れることはできなかった。しかし、見方 が変われば、うわべを見ただけでも、やはりその解釈は変わってくる。このささ やかな「紀行記」が、今後の東北論の出発点になり、今後の新しい「原日本文 化論」の基礎になることを願うものである。 |
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「ロミオと呼ばれたオオカミ」 ニック・ジャンズ著 田口未知・訳 エクスナレッジ そう聞くと、ロミオの話は一見、野生動物が人間に慣れすぎたことが不幸な結果を 招いた警告の物語に思えるかもしれない。だが、事実は物語とは必ずしも一致しない。 ロミオは時間をかけて人間が慣れさせたのではなく、自らやってきたのだ。最初の ころは飼い犬とじゃれ合い、おもちゃを奪って遊んでいた。それは餌づけの産物の ようには見えなかった。そうした負の徴候はまったく見られなかったのだ。そして、彼を 追い払うことはできなかった。そうしようとしても、戻ってきた。結局のところ彼は、鋭い 感覚と知性を持つオオカミとして僕たちの近くで生きることを選び、人間や犬たちと 交流することを望んだのだ。それは彼自身の社会性によるだけでなく、僕たち人間の ルールを次第に理解することを通しての選択だった。 (中略) 僕はよく、数年前のあの春の日を思い出す。まるでそれが最後になるかのように、 ロミオが雪の中で丸くなっていた姿を・・・。静まり返った深夜、横で眠るシェリーと犬 たちの寝息を聞きながら、僕はひとり、その光景を思い出し、胸が苦しくなる。そして 誰も起こさないように、静かに涙を流す。自分のために泣くのでも、オオカミのために 泣くのでもない。僕たちすべてのために、ますます空虚になる世界に漂流する僕たち すべてのために泣くのだ。これほどの悲しみから、どうやって希望を見いだせば いいのだろう? だが、この物語にはもうひとつの側面がある。それは、ぼんやりした光を発しては 消え、また戻ってくる。暗い空を横ぎるオーロラの光のように、ロミオという奇跡、 そして僕たちが彼と一緒に過ごした年月を、誰も奪うことはできない。憎しみでは なく愛こそが、僕たちが背負う重荷なのだ。しかし、だからといって、その荷が軽く なるわけではない。 僕たちと一緒に過ごしている間に、ロミオは彼を見ようとやってkちあ何千という 人々に驚きを与え、風景を生命力であふれさせた。多くの人に、オオカミという種と 僕たちが暮らす世界をもっと新鮮な目で見ることを教えた。知らず知らず、あるいは 気にもせずに、ただそこに自然体として存在するだけで、人々を近くに引き寄せた。 友人と家族だけではなく、彼がいなければ一度も会うことのなかったであろう人たち をひとつの場所に集めた。 (本書より引用) |
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「人類哲学序説」 梅原猛・著 岩波新書 私は、身を離れた心というものは、一種の亡霊のようなものであると思う のです。沖縄では、そういう身を離れた亡霊があちこちに潜んでいるとされ、 それがある種の守り神とされています。一種の幽霊ですね。近代哲学の 基礎に置いたデカルトの「われ」は、実は身を離れた幽霊だったのではない か。しかもそれが実体とされた。「実体」とは中世においては神にしか与え られない概念だったのに、近代に入り、肉体を離れた幽霊が実体とされて しまった。そして、そのような理性・精神によって近代哲学は導かれていった のです。 デカルト以後スピノザとかライプニッツとか、デカルトと異なる哲学が出現し ましたが、しかし、以後の哲学に大きな影響を与えたのは、やはりデカルト です。以後、イギリスではロックやヒュームの経験論の哲学、そしてドイツ では、カント、フィヒテ、ヘーゲルなどの観念論の哲学が出現します。ここで はこのような哲学について、くわしく語ることはできませんが、近代哲学の 大成者とされるフリドリッヒ・ヘーゲルは、近代哲学はデカルトの理性の自立 という思想に始まるとデカルトをたたえています。ヘーゲルの矛盾を通して の精神の発展の哲学を、物質の発展に変えるのが、戦後一時、日本の 思想界を風靡したカール・マルクスの唯物弁証法です。 繰り返しますが、この肉体から離れた精神、「われ」あるいは理性というのは、 つまりはデカルト哲学の第一原理というものは、ヘレニズムとヘブライズムの 伝統のうえに偏見をのせてしまったのではないか、そう私は考えます。 つまり、ここまで論じてきた理由から、この原理は明晰判然たる真理とは 認められない、というのが私の省察です。 (本書より引用) |
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「木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日」 岩田慶治 著 人文書館 第16回 南方熊楠賞 受賞 アニミズムの根本は何か。それは木にも、石にも、虫にも、鳥にも、もともと、 カミが宿っていることを認め、そういうカミでいっぱいの自然を尊重しながら生 きることだ。そうすると、木は木として宇宙の主人公になり、山は山として主人 公、ひとは誰もかれも一人ひとりが主人公になる。自分も、また、その仲間に なって、風景が生き生きしてくる。これがアニミズムの本質なのだ。 一般に、アニミズムは未開人の宗教だと言われている。しかし、ホントはそう じゃない。未開人だって・・・・そういう人がいたとしても・・・・何千年、何万年も 地球とともに生きて、悩んで、考え考えしてきたのだから、かれらの宗教、かれ らの世界観を未熟だなどと言うわけにはいかない。かれらのなかにだって、た くさんの哲学者がいたし、宗教家もいたに違いない。そういうかれらが信じてい るカミなのだから、そのカミと出会い、そのカミの声を聞くのは、われわれの側 に委ねられた仕事なのだ。 それなのに、アニミズムのカミなんてダメだ。高木から下りてきて住民に供物を 要求したり、おどろおどろしい衣装をまとって人びとを恐怖におとしいれるのが 関の山だ。それは現世利益を旨とする民俗信仰より、もっともっと低級なものだ。 そういう声がやかましいくらいだ。 しかし、宗教と文化をとり違えては困る。アニミズムは始めから終わりまで、祈り のなかの出来事であって、欲望の渦巻く文化のなかの出来事ではないのだ。 現代人は霊的な力、あるいは直感の力が衰えてしまったから、その結果によって しか宗教の真偽を判定できない。その証拠を求めようとする。しかし、カミの証拠 なんて、どこにもないのだ。 (本書より引用) |
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「センス・オブ・ワンダー」
「沈黙の春」の著者 最後のメッセージ レイチェル・カーソン著 上遠恵子訳 新潮社 「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれて
「沈黙の春」を執筆中にガンにおかされた彼女は、文字通り時間とのたたかいのなか
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神谷美恵子著 みすず書房
私自身「生きがいについて」「人間をみつめて」「うつわの歌」しか読んでいませんが、
神谷美恵子(1914-1979) 東京・大阪大学神経科の医者から、癩病の方が住む長島愛生園精神科勤務 足場をうしない、ひとり宙にもがいているつもりでも、その自分はしっかり下からうけ とめて支えてくれたのだ。そして自然は、他人のようにいろいろいわないで、黙ってうけ 入れ、手をさしのべ、包んでくれる。みじめなまま、支離滅裂なまま、ありのままでそこ に身を投げ出していることができる・・・・。血を流している心にとって何というやすらぎ であろうか。何という解放であろうか。そうして、自然のなかでじっと傷の癒えるのを 待っているうちには、木立の陰から、空の星から、山の峯から声がささやいてくること もある。自然の声は、社会の声、他人の声よりも、人間の本当の姿について深い啓示 を与えうる。なぜならば社会は人間が自分の小さい知恵で人工的につくったものである から、人間が自然からあたえられているもろもろのよいものを歪め、損なっていることが 多い。社会をはなれて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえ ることができるというルソーのあの主張は、根本的に正しいにちがいない。少なくとも 深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるより も、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力・・・・それ は彼の内にも外にもはたらいている・・・・によって癒され、新しい力を快復するのである。 このことは地上のどこにいても、人間が自然に接することができるかぎり同じであろう。 たとえレプラの島のなかでも同じことである。小さな療養社会のなかで息がつまりそうに 感じるひとも、そこからそっと抜け出て丘の頂から碧い海と広い空を眺め、草木の緑の 輝きに身を包まれるとき、傷ついた心身が次第に癒され強められるのを感じる。完全に 断ち切れられてしまったと思っていたひとびととのつながりも、自然のなかに深く沈潜す ることによって、かえってもっと広く深くむすばれるのを発見するのである。「はじめに」 に記したひとは(原田憲雄・原田禹雄編『志樹逸馬詩集』)次のように歌って逝いた。
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小倉美恵子・著 新潮社 |
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安田喜憲著 PHP選書 森は洋の東西を問わず、人類の命脈だった。縄文以来、日本人は森を崇め
哲学者・梅原猛氏と同じ視点を持つ著者が科学的データを基に、過去の文明
安田喜憲・・・気候変動と人類の生活・歴史の関係を科学的に解明する 「魅せられたもの」1997.6.20「霊的な戦士」を参照されたし
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梅原猛 山折哲雄著 祥伝社文庫
日本人の魂の根っこを探っていくと古神道に行き着く。しかし、7−8世紀の
そこで日本文化の根底を、縄文文化に求めた。この縄文文化については
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「オーロラの彼方へ」
星野道夫 写真・文 PHP研究所
アラスカという原始の姿が残された極北に近い場所にひかれ続けた著者の
星野氏の著作「イニュニック(生命)」、「Alaska 風のような物語」、 また同じく極北の大地とそこに生きる先住民族を描いたリチャード・ネルソンの
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星野道夫 写真・文 PHP研究所
作品の中に北極熊やグリズリーなどが子どもとじゃれている姿が多く掲載され
「僕たちが生きてゆくための環境には、人間をとりまく生物の多様性が必要なの
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星野道夫 写真・文 PHP研究所
その過酷な環境の故、限られた人間しか踏み入れることがなかったアラスカ。
「森の主人公とは、天空に向かって伸びる生者たちでなく、養木となって次の
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星野道夫 写真・文 PHP研究所
星野道夫氏の写真には不思議な魅力がある。それはそれぞれの写真の中の
目に見えるものに価値を置く社会と、見えないものに価値を置くことができる社会
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高田宏・文 阿部幹雄・写真 飛鳥新社
木には個性があり長い歳月を生きた老木には存在感、風格があるのだ。人間に
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濱田康作 著 毎日新聞社
美しい自然に抱かれ、精霊や神々と響き合って暮らす島人たちの表情は生気に
奄美の美しい自然と、そこに生き、祈る人々を撮った素晴らしい写真集です。写真
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「甦る縄文の思想」 梅原猛・中上健次 有学書林 このような視点で日本文化をみるとき、縄文文化こそは日本の深層文化 あるいは基層文化であり、その深層文化あるいは基層文化の上に、それか ら以後の文化、弥生文化、古墳文化、律令文化、王朝文化、武家文化など がのっかっていて、後世の文化は深くこの深層あるいは基層にある縄文 文化の影響を受けているということにならざるを得ない。 とすれば、アイヌ文化や東北文化が従来とはまったく違った視野のもとに見 えてくるのである。それらの文化は、わが日本文化の深層にある縄文文化 の名残りを最も強く残す文化であるということになる。 縄文文化が最も純粋に残存する文化はアイヌ文化であると思われるが、 不幸なことに日本人は明治以降、アイヌを日本人とまったく血のつながりの ない人種とみなして、アイヌ文化を日本文化とまったく異質な文化とし、その ような未開の文化を一掃して、アイヌに一般の日本人並みの文化を享受 させることがアイヌにとって最もよいことだと信じてきた。そのために、北海 道開発の名のもとに、アイヌ文化を全体として消滅させることに政策の重点 が置かれたのである。百年にわたるこの誤った政策によって、アイヌ文化は 絶滅に瀕している。 アイヌ語を話し、アイヌの神事を行うアイヌは、七、八十代の古老を除いて、 ほとんどいなくなってしまったのである。私はこのことを、近代日本が行った 最大の文化的蛮行の一つであったと思う。しかも、そのことについて、日本 人はまったく罪の意識をもっていないのである。アイヌを原始的生活状態 から救うという名目で、日本人は自己の基層文化を、最も明確にとどめて いる大切な文化を、自らの手で葬ってしまったのである。 (本書より引用) |
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『「太陽の哲学」を求めて 梅原猛 吉村作治著 PHP研究所
この文献にはアメリカ・インディアン、アニミズムという言葉は一切出てこない。しかし、
「このようなラーの神がギリシャ文明、イスラエル文明において消失してしまう。それは、
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『あなたが世界を変える日」 セヴァン・カリス=スズキ著 ナマケモノ倶楽部 編・訳 学陽書房 |
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「動物はすべてを知っている」 Kinship with All Life J.アレン・ブーン著 上野圭一・訳 SB文庫 2012年11月7日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿したものです。 「動物はすべてを知っている」J.アレン・ブーン著 SB文庫 写真はこの本で紹介されたストロングハート(1917〜1929)である(写真は他のサイト より引用)。 「ハリウッドの聖人」「銀幕王国の聖フランシスコ」と呼ばれた著者のアレン・ブーン(1882 〜1965)は、映画の製作者で1965年に83歳で亡くなるが、この文献の中でストロングハート という犬に留まらず、ヘビ、スカンク、ハエやアリも「沈黙のことば」で分かり合えることを 事例を挙げながら語っている。 またこの文献の特色として、人間やそれ以外の存在、その存在そのものを問う哲学的・ 宗教的な洞察も語られているところにあるが、日本及び外国においてこの文献は高く評価 され続けており、その内容に懐疑的な意見はあまり聞かれない。 私個人はというと、そのような経験がないからか正直わからないというしかないが、この アレン・ブーンとほぼ同じ時代に生きた「シートン動物記」で有名なアーネスト・シートン (1860年〜1946年)と重ね合わせてしまう。 シートンはアメリカ先住民の世界に触れて、「レッドマンのこころ」(1937)の出版など彼ら 先住民の世界観を世に広める活動をしてきた人物でもあるが、ブーンはシートンよりも 22年遅く生まれながらも、二人はアメリカ先住民が白人より劣った消えゆく民族であると の目が支配していた時代に生きていた。 ブーンもこの本の中でアメリカ先住民やアラブ系の遊牧民ベドウィン族との触れ合いから 教えられたことを紹介しているが、二人は「沈黙のことば」「沈黙」の真の姿を垣間見た 数少ない白人だったのかも知れない。また二人は出会ったことはないかも知れないが、 互いの存在に気づいていた可能性はあるのではと思う。 ただ、シートンが自分とは反対の証言を紹介しながら観察事実を基に博物学者・科学者 としての冷徹な視点を保ちながらも、動物に対する畏敬の念を抱いていたのに対し、ブー ンの「動物はすべてを知っている」はこの視点があまり感じらない。 別な言い方が可能なら、シートンが人間と動物の種に横たわる断崖を受け入れるの対し、 ブーンはその断崖を埋めようとする、或いはその断崖を跳躍しようとする姿勢を感じたの も事実である。 フランスの哲学者であり戦士、神秘家であったシモーヌ・ヴェイユ(1909〜1943)は「重力 と恩寵」の中で次のように記している。 「純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにある へだたりを何より尊重することである。」 私自身この言葉の意味を真に理解したものではないので偉そうなことは言えないが、 種と種の間に横たわる断崖、その隔たり、これは人間同士の間、人間と創造主との間に も横たわっているものものかも知れない。 アレン・ブーンが訴えかけているような、実際に動物や昆虫と沈黙を通して意志の完全 な疎通を、私は経験したことはない。 ただ私自身が経験したことがないと言って全て否定することは傲慢であるし、私が経験し たことがない、或いは私が気づいていない何かが、この世界に横たわっているのだろう。 それは世界の先住民の文献を読んでいて常にそう思うし、「沈黙」が語りかけるものを 先住民に限らずキリスト教や仏教でも重視してきた。 写真のストロングハートの目を見ると、人間界のブッダ、キリストのような光が犬の世界 でも僅かなものに現われ、その光を目の前にして初めて、アレン・ブーンはそれが多くの 動物の中にも宿っていることに気づいたのだろうか。 「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」、これは象、ライオンや豹などの 多くの動物といとも簡単に心を通わせることができたアフリカで育まれた少女ティッピの 言葉である。しかし、アフリカからヨーロッパに戻ったティッピは、この不思議な能力が 少しずつ消えていくのを感じた。 本書で語られている内容の真偽、アレン・ブーンが亡くなって50年近く経った今となって は、もうわからないかも知れない。 最後に今から100年以上前に書かれた「シートン動物誌」の中から、オオカミに関する シートンの想いを引用します。イヌはオオカミが飼い馴らされて家畜化したものと考え られていますので本書とも関係があるかと思います。長い間オオカミは誤ったとらえ方 が横行し、人間の手によってニホンオオカミも100年以上前に絶滅しました。今、この オオカミを森の再生のため山に放そうとする運動が世界中で起きていますが、私自身 この問題をもっと勉強していつか書くことが出来ればと願っています。 ☆☆☆☆ オオカミの真実の姿を描き出す・「シートン動物誌2 オオカミの騎士道」 紀伊国屋書店より以下引用 この章で私は、オオカミの勇敢さ、騎士道精神、強さ、遊び好きな性格、忠誠心、 獰猛さ、親しみやすさ、思いやり、英雄的な態度、それにやさしさなどについて、 さまざまな証拠をあげながら論じてきた。 悪意に満ちた人間社会のうわさ話に終止符を打ち、この動物の誠実で勇敢な姿 を読者に示したいというのが、私の願いだった。 私はまるでごみ箱を引っかきまわし、なかからほんのひとかけらの金片を見つけ 出そうとするかのように、猟師たちから根堀り葉堀り聞き出し、小さな真実のかけら を見つけ、つなぎあわせようとしてきた。 そうしたなかから読者に、この野生動物の本当の姿、本当の生活を少しでも察知し てもらうことができただろうか。 こうして山と積んだすべての証拠を見て、望むならさらに手に入れることのできる 大量の証拠があること、それに「ロボ・・・カランポーの王様」の物語(基本的に事実 にもとづいている)に書かれたことを思い起こしていただければ、わかってもらえる のではないだろうか。 私がオオカミを心の底から愛していること、そして、私がオオカミこそは真の高潔さ、 すなわち、輝かしい動物界の英雄にふさわしい性格のもち主だと信じて疑わない ことを。 ☆☆☆☆ |
未読の文献
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Sia war-dancer
Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)