「ネイティブ・タイム」

先住民の目で見た母なる島々の歴史

北山耕平著 地湧社 より引用

北山耕平さんのホームページ「Native Heart」





(本書より引用)


いまなにより大切なのは、過去の、つい昨日までの、いまだにかろうじて生き延びている

ネイティブ・ピープルたちが、いかに自然を − 自然なるものを − 自然であることを−

尊敬し、崇拝して生きていたかを理解することである。われわれの中から、その自然を敬

う気持ちが失われていった背景にあるものを理解することである。おそらくそのことを理解

することができれば、失ったものが何かを知り、どうやって失っていったかもわかるし、そ

のときはじめて、われわれも今の急速に脱工業化に向かって変わりつつある世界におい

て、いっさいのものたちのための平和を獲得し、人類と自然の間のバランスをとることが

できるようになるかもしれない。しばしばネイティブの人たちが口にする「最初に造物主に

教えられた生き方」というシンプルな生き方は、人間の心の中に強欲の占有するスペー

スが拡大するにしたがって、その座をもうひとつの「常に満足しない生き方」に譲り渡し、

神や仏や王の名のもとに自然の搾取と開発が強引に進められ、限界が見えないまま

陰陽が逆転したあとは、かつての主流が対抗文化になって、その対抗文化が最後の

残り火をかろうじて守っている地点まで、とうとう到達した。わたしたちは「前の世界の

生き方」をこのまますべて、地球から葬り去ってはならない。世界から「先住民」とされる

人々を − 生き方のバランスをとり続ける人たちの存在を − 消し去ってはならない。

もしそんなことが起これば、母なる地球はバランスを失って、それこそ世界に破滅が訪れ

るからだ。今こそ、地球に生き残ってきた先住民たちの文化を敬い、その伝えようとして

いることに注意深く、謙虚に耳を傾ける必要がある。そこでは日本列島に住むわたした

ちが「縄文時代」と呼んで過去のものにしようとしているもうひとつの文明が、まだかろう

じて生き延びているのだから。わたしたちはなんとしてもこの破滅を止めなくてはならな

らない。真冬の冬至が、最初の夏のはじまりであるように、わたしたちはひとりひとりが

陰陽を逆転させる最初の一滴として「人間の最初の生き方」を世界中に、自分の頭と

身体と心の中に求め、ただそこから自分のほしいものだけを奪い去ってくるのではな

く、尊敬をもって、それを学びなおし、すっかり切れてしまったかに見える自分の魂と

大地とを結びつける作業を、自発的にはじめなくてはならない。わたしたちは日本人に

なる前は「日本列島の人間」として自由であり、開放されていて、スピリットとともに生き

ていた。草や、樹や、石や、空を流れる雲の話す声を聞くこともできた。母なる大地を

おとしめることもなく、自然には神秘的な力が存在することを知っていた。今、アメリカ

のネイティブたちが、アメリカ人になることによって何か大切なものを失いつつあるよう

に、わたしたちは、日本人になることによって − 良い日本人であることに一生懸命

のあまり − 決定的に何かを失ってしまった。わたしたちの精神が母なる日本列島

の根っこから切り離されてしまったのだ。わたしたちは母親を喪失したかに見える。

神話は奪われ、改ざんされ、気がついたときには父なる太陽が母親だと教育されて

いた。わたしたちはひっくり返った世界を正しいものとして教育されて育った。母なる

大地にたいする尊敬を失ってアルコール漬けになっているネイティブ・ピープルほど、

地球上で哀しいものはない。差別をたくみに操る支配者たちにより、物理的に、経済

的に、また精神的に奴隷のような暮らしをあまりにも長期にわたって強いられてきた

ために、いつしか生きることにプライドも見つけられず、年寄りも、子どもも、女性も、

自然も、生も、死すらも、そうしたものをすべて敬い大切にすることもなくなってしまっ

た。かつてわたしたちは「最初の生き方を知る」人間として、人間は人間以外のあら

ゆるものと調和を保っていかなくてはならないということを知り、すべての生命を敬い

つつ地球で生きていたのに、今は、そこから最も遠いところにいる。みんなもうすうす

気がついていると思うが、日本列島の自然は沈黙しつつある。その声を聞く者たちは

いったいどこにいるのだろうか? ファッションのようにネイティブ・ピープルの文化や

シャーマニズムやアニミズム的なライフスタイルを取り入れて、意味のない空虚な言

葉で自分を飾りたてるのではなく、それを生きることをはじめなくてはならない。誰か

の力に頼ることもなく、自らが自らの意思で、自分の精神と大地とを結びつける作業

にとりかからなくてはならない。そのための第一歩が、わたしたちから取り上げられ

て久しく、学校教育においても完全に無視され続けてきた。もうひとつの歴史を学び

なおすことにほかならない。彼らの歴史を学ぶのではなく、われわれの歴史を取り

返さなくてはならない。




APOD: 2012 May 19 - Annular Solar Eclipse

(大きな画像)



 


2012年5月24日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



私がインディアンに関心を持った頃に、インディアンのことについて日本人の方が書いている本に出会った。

その方からは、メールを通していろいろ教えてもらったこともある。



その方はブログの中で、日食に関してインディアンのメディスン・マンから決して見てはいけないことを言われ、

世界中のシャーマン達が決して日食を見ない事例を紹介しながら、家にこもり内なるビジョンを見ることを訴

えておられた。



私は日頃から星空に関心があり、時々山にこもって星を見るのだが、日食も一つの天文現象であると浅は

かに思っていた。



確かに太陽が死んでいくことは古代の人々にとって恐怖であり、喪に服す意味で家にこもったのだろう。私

たち現代人は太陽が隠れても、直ぐに復活することを知っているため、彼ら古代の人のこの恐怖は決して

理解することは出来ないと思う。



この意味で、先のブログは私に新たな視点を与えてくれたように思う。



ただ、私自身の中で、違う見方をした古代の人もいたのではないかという疑問が湧いてきて、5月21日にそ

の思いを投稿した。



私はギリシャ神話は好きではなく、以前から古代の人が星空にどんな姿を投影してきたのか関心があった。

また自分なりに星を繋ぎあわせ星座を創ったほうが意味あることだと思っていた。



今日のことだったがアイヌの日食についての伝承に出会った。私自身まだ読んではいないが、これは『人間

達(アイヌタリ)のみた星座と伝承』末岡外美夫氏著に書かれている話だった。



アイヌの文献は何冊か読んで感じていたことではあるが、アイヌの方と神(創造主)はまるで同じ次元でもあ

るかのような親密感をもって接していながら、畏敬の心を持っている。私は彼らの世界観が大好きだった。



下にこの文献からの引用とアイヌの方が日食を歌った祈りを紹介しようと思うが、これは一つの視点であり

絶対こうでなければならないという意味ではない。



私たちは日食に対する様々な見方を受け止めなければならないのだろうと思う。



☆☆☆☆



太陽が隠れるということは、人びとにとって恐怖でした。



日食のことを次のように言いました。



チュパンコイキ(cup・ankoyki 太陽・をわれわれが叱る)
チュプ・ライ(cup・ray 太陽・が死ぬ)
チュプ・サンペ・ウェン(cup・sanpe・wen 太陽・の心臓・が病む)
トカム・シリクンネ(tokam・sirkunne, tokap・sirkunne 日(太陽)・が暗くなる)
チュプ・チルキ(cup・ciruki 太陽・が呑まれた)
トカプ・チュプ・ライ(tokap・cup・ray 日中の・太陽・が死ぬ)  
チュプ・カシ・クルカム(cup・kasi・kur・kam 太陽・の上を・魔者・がかぶさる)



日食の際の儀式を紹介します。



男性は、欠けていく太陽をめがけてノイヤ(蓬(よもぎ))で作った矢を放ちました。



女性は、身近にある器物を打ち鳴らし声を合わせて、次のように叫びました。



チュプカムイ      太陽のカムイよ
エ・ライ ナー   あなたは重態だ
ヤイヌー パー    よみがえれよー
ホーイ オーイ    ホーイ オーイ



日食は、太陽を魔者が呑み込むために起こったと考えました。その魔者を倒すために、蓬の矢が効果が

あったのです。



太陽を呑み込む魔者は、オキナ(oki・na 鯨・の化け物)、シト゜ンペ(situ・un・pe 山奥・にいる・もの 黒狐)。

オキナは、上顎(うわあご)が天空まで届き、空に浮かんでいる太陽をひと呑みにしたと伝えられています。



闘病記/定年退職後の星日記/プラネタリウム より引用



☆☆☆☆







(K.K)



 

 


2012年5月21日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。

画像省略

厚木市から見た金環日食



僕は毎日起きてすぐに太陽に祈っている。



人びとに安らぎが訪れるようにと。



今日は金環日食だった。



昔の人は急に太陽が隠されるのを見て、恐れおののいたことだろう。



でも、僕は違う人々のことも想像してみた。



インディアンホピの方たちが日食をどのように見ていたかはわからないが、

日の出と共に太陽に祈りを捧げている人々のこと。



もしこの人たちが太陽が隠され死んでいくのを見た時、こう願い叫んだかも知れない。



「太陽、生きてくれ!!!」と。



僕は肌を通してその感覚を理解しているとはとても言えない。



しかし太陽と心が通じていた民の中には、死にゆく太陽を見ながらこう願ったかも

知れない。



日々、太陽が昇ることを当たり前の出来事と受け取らず、日々感謝の心を持って

生きてきた人たち。



勿論これは僕の勝手な想像で、そのような先住民族がいたかどうかはわからない。



でも、僕は彼らのような民がいたことを、そして現代でも生きていることを信じたい。



(K.K)



 

 

2012年5月27日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



題・・・「お父さん、宇宙が、金環日食が、ここにもあるよ」・・・自宅近く



(K.K)



 

2012年6月4日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。





(大きな画像)



2004年の金星の太陽面通過、太陽の右側に金星が写っています。(写真はNASAより引用)



今日の部分月食は厚い雲に覆われ見ることが出来ませんでした。



でもお陰で近くに天体観望できる開けたところを新たに開拓することが出来たので感謝です。



ところで、明後日の金星の太陽面通過ですが、上の写真は2004年6月8日の時のものです。



じゃあ明後日見逃しても数年後に見れるんだ、と思われたら大きな間違いで、次は105年先に

なってしまいます。



105年先というと、現在の赤ちゃんでも見るのは殆ど出来ず、その赤ちゃんの赤ちゃんが長生

きしてようやく見ることができるのだと思います。



私たちが明後日見る金星の太陽面通過、そして次に目にするであろう世代を想像するとき、

インディアンの言葉を思い出します。



☆☆☆☆



「私たちの生き方では、政治の決め事は、いつも七世代先の人々のことを念頭におきなが

ら行われる。



これからやってくる人々、まだ生まれていない世代の人々が、私たちよりも悪い世界で暮ら

したりすることのないように、できればもっと良い世界に生まれてこられるように心を配るの

が、私たちの仕事なのだ。



私たちが母なる大地の上を歩くときに、いつも慎重に一歩一歩進むのは、これから生まれ

てくる世代の人々が、地面の下から私たちのことを見上げているからだ。



私たちはそのことを、片時たりとも忘れない」



オレン・ライオンズ(オノンダーガ族)



「ネイティブ・アメリカン 叡智の守りびと」築地書館より



☆☆☆☆




(K.K)









アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)に関する文献

アメリカ・インディアン(アメリカ先住民)

神を待ちのぞむ・トップページ

天空の果実

インディアンの視点を持って描かれた文献に戻る