「森の思想が人類を救う」

梅原猛著 小学館ライブラリー より引用






「梅原日本学」から飛翔してアイヌ・沖縄の底に流れる縄文文化の姿は、

アメリカ・インディアンの世界観と共有していた。哲学者である著者は日本人

のルーツを明かし、このような世界観の上に日本独自の仏教文化が花開く

過程を探り出す。また近代文明を指導したデカルトやベーコンによる人間が

自然を峻別・征服する哲学を今変えてゆくことが求められていると強調する。

また国家主義に結びつく前の日本古来の神道、人間のみならず生命全てに

霊が宿っていると語る大乗仏教、そしてアイヌ、インディアン、アボリジニーの

世界観の再構築こそ危機に瀕した現代文明を救うことになると結論する。

「隠された十字架」など独自の視点で歴史の常識を覆してきた著者が語る

未来に向けての言葉は哲学者としての使命によるものであり、著者の思索

の結晶でもある。また著者編集による「アイヌ学の夜明け」という文献も同じ

視点で展開されているものである。アマゾンに生きる先住民族インディオ

言う。「木が世界を支えている」と。

(K.K)


 




本書より引用


戦後日本においても、近代文明の原理である自然征服を、無条件に善とする思想はあまねく

広がり、その著しく発展した工業生産の代償として、自然破壊が日本のいたるところで進んで

いる。もちろん、日本における工業汚染は、世界一厳しい規制によって、ある程度解決された

わけですが、しかし金儲け一辺倒にこり固まった日本人は、あるいはゴルフ場の拡大に、ある

いはリゾート施設の建設に夢中であり、私などのような反時代的な学者の意見を聞くこともな

く、ますます自然破壊は進んでいる。また日本経済の繁栄は木材や紙の浪費をもたらし、熱

帯雨林の破壊に一役買っていることも否定できません。私は、二十一世紀における人類の

最大の問題は、この環境破壊にあると思っているのです。酸性雨、オゾン層の破壊、地球の

砂漠化、熱帯雨林の破壊、森の死滅、どれをとってみても、人類の生存を脅かす現象ばかり

です。こういう現象が無限に複合化して、まさに人類社会の基盤そのものを覆そうとしている

のです。この危機から人類を救い出すためには、当面の対策も必要ですが、まずその哲学を

変えねばなりません。近代文明を指導したデカルトやベーコンの考え方は、人間と自然を峻別

し、自然を客観的に研究する自然科学の知識によって、自然を征服する技術をもとうとする

思想です。かくて、自然科学は飛躍的に発展し、人類は、自然について三百年前にもってい

た知識とは、比較できないほどの精密な知識を持つようになった。そしてそれとともに自然

征服の技術は飛躍的に進み、人間は自然から、それまでの人間にはとうてい考えられない

ような豊かな富を生産することができるようになった。そしてその代償に、地球環境の破棄と

いう、まさに人間は、自分の生きている土台を根本から崩壊させるような危機に直面したわ

けです。この危機は人類全体が直面する危機であり、かつて人類社会が直面したどんな

危機よりも、ずっと深い危機ではないかと私には思われるのです。かつての危機というもの

は、人類の一つの文明の崩壊の危機でありましたが、今やそれは人類の文明全体の崩壊

の危機なのです。しかもこの危機の淵源するところはじつに古く、たんなる産業革命以後

あるいは近代以後ではありません。人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して

いらい、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。つまり人類は森を食い潰して文明

をつくってきたのです。そして一つの文明が崩壊したあとに、つぎにまだ森の残る他の地域

において文明を興し、そしてまた森を食い潰してきた。農耕牧畜社会の段階では、森の破壊

は局部的でありましたが、工業文明ができていらい、文明は飛躍的に豊かな富を生産し、

その反面、森を急激な速度で破壊してきました。日本において比較的、森が残されたの

は、農業文明や工業文明の輸入が遅れたことにもよりますが、このまま放っておいたら、

国土の六七パーセントの森は、たちまちにして消失するかもしれません。まさに森の破壊

は、農耕牧畜文明が成立していらいの、とくに近代工業文明が成立していらいの人類の

人類の運命でありますが、この運命を現在という時点において大きく転換しなければ、

人類は一直線に地獄への道をたどることは火を見るより明らかです。われわれは文明の

原理を、人間の自然支配を善とする思想から、人間と自然との共存をはかる思想に転換

しなければなりません。私は、もう一度人類は、この狩猟採集時代の世界観にたちもどり、

個人ではなく種を中心にした考え方、つまり永遠の生と死の循環という思想をとりもどさな

ければならないと思うのです。こういう思想は、古代ギリシャの思想に、あるいはヒンズー

の思想に、あるいは中国の老荘思想にも見られるものですが、それはおそらく狩猟採集

時代における人類の共通の原理の残存であると思われます。このような原理が日本文化

の伝統のなかにもある点に、私は今後の日本文化の可能性を認めたいと思っているの

です。ギリシア思想のなかにも、ケルト思想のなかにも、あるいはアメリカ・インディアンの

思想のなかにも、あるいはアボリジニの思想のなかにも見いだすことができるかもしれ

せん。私は、近代という時代がその合理的な自然征服を貫徹するために、排除していっ

た多くの思想に注目する必要があると思うのです。







最近、私はカナダへ行きました。カナダでは大きな木の根っこだけがあちこちで見られます。

これは、百年以上前に、白人によって伐られた木の伐り株です。インディアンが何千年も大事

にしてきた自然が、またたくまに破壊されました。いま、カナダ政府は自分たちのやり方が間違

っていたことを認めています。そしてすべてのものが自然のなかで循環していくという、インディ

アンの思想に学ぼうとしています。そして、森の文明の考え方の基本は“生命はひとつだ”とい

うことです。じつはこのことは高度に発達した自然科学によって証明されています。現代の生

科学は、最後にDNAを発見したわけですが、DNAは人間にも動物にも植物にも共通にあること

がわかった。これは生命はひとつだということのなによりの証明です。旧石器時代いらいの

考え方が科学的に実証されたのです。人間は生死をくり返す。そして固体は死ぬけれども、

遺伝子は永遠に生き残るのです。それが人間の永生なのです。人間の永生を遺伝子科学が

証明したわけですね。そういうふうに考えると、植物や動物の命を尊敬して天地自然を尊敬す

る、そしてその天地自然や動植物と調和して生きていく、共生する方法をわれわれは考えな

ければならないのです。それが人類の知恵である、というふうに思わざるをえない。人間は

動物や植物を殺さなくては生きていけない面があります。木は信仰の対象だけではなくて

人間に最も役に立つものである。だから木を伐るにせよ、動物の命を奪うにせよ、われわれ

と同じ命をもった木を、そして動物を殺すわけですから、その木や動物の霊を手厚くあの世

に送らなければならないのです。霊をあの世に返さなければならないのです。そしてまた木や

動物たちにこの世に帰ってきてもらわなければならない。私は、こういう宗教を今こそとりもど

さなければならないと考えるのです。だから、巨木の問題にしても、珍しいものがここにある

から、人を呼ぼうではないかということではなくて、日本人のあるいは人類の考え方の根底

にあるものにまで、思いをはせなければならない。そして、人間が生きていくということはどう

いうことなのか、それは植物も動物もみな同じ命であって、すべてのものはあの世とこの世

を循環しつつ、永遠に共生しているのだということを認識しなければならないと思います。

そういう思想が人類に浸透したときに、人類は生き残る可能性が出てくるのだと思います。

そうでなければ、私は人類の将来はそんなにながくないと思う。巨木の問題は文明の根底に

かんする問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、二十一世紀を正視する街づくりで

なければならないと私は思います。


1990年10月佐賀県武雄市で開催された“巨木の里”シンポジウム”(武雄市・椎葉村共催)

における基調講演の記録をもとに作成されたものです。・・・本書より


 
 


目次

第一章 日本の宗教 日本文化の理解のために

第一部 日本の信仰

習俗としての日本の宗教

明治以降の日本の神道

律令時代の国家神道 禊ぎと祓い

多くの研究成果の綜合と推論

日本列島 旧石器から縄文へ

縄文文化 成熟した狩猟採集文化

二つのタイプの日本人

日本人の奥底にある森の信仰

熊送りに見るアイヌの世界観

ニライカナイ信仰に見る沖縄の世界観

死者の再生

イザイホーの神女たち

真脇遺跡 柱と輪廻信仰の原点

二つの思想 平等と再生


第二部 日本の仏教

聖徳太子に始まる日本の仏教

最澄と空海による仏教

日本的変容の著しい鎌倉仏教

釈迦の教えと大乗仏教の理念

中国仏教の主流と仏教伝来

聖徳太子の一乗思想 統一と平等

煩悩の世界が導いた如来蔵思想

太子仏教の伝統を受け継いだ最澄

最澄の悉有仏性の思想

最澄により戒律の内面化

最澄と空海

法然の専修念仏

肉食妻帯と「愚禿親鸞」

法然の極楽浄土と親鸞の環相廻向

道元禅と日蓮の法華信仰

日本の仏教 祖先崇拝と死者供養

日本人の信仰 生命の永遠の循環


第二章 インドの思想と日本の文化

釈迦の唱えた二つの理想

四つの徳 日本人の理想像

「四姓平等」の実現

ヒンズー教との共通点 仏教以前の日本の宗教


第三章 三つの危機をむかえて 二十一世紀の世界と仏教の役割

マルクス哲学の限界

近代の終焉を予言したニーチェ

二十一世紀の三つの危機

核戦争の危機

環境破壊の危機

精神崩壊の危機

釈迦仏教から大乗仏教へ

大乗仏教の展開と変容

多神教の可能性 核戦争にたいして

山川草木悉皆成仏の真理 環境破壊にたいして

空の思想による再生 精神の崩壊にたいして


第四章 “森の思想”が人類を救う

哲学者の任務

世界に誇るべき日本の森林

森の文明の考え方

日本の社会を貫く平等と和の原理

二十一世紀に必要な羅漢の和

日本の芸術にあらわれた自然観

宗教にあらわれた森の思想

二十一世紀最大の危機 環境破壊


第五章 人間の宗教から森の宗教へ

三千年も生きながらえた巨木

木を神や仏として信仰の対象に

日本の仏教は木彫仏

日本の仏教 森の宗教へ


「小学館ライブラリー版」あとがき

〈森の思想〉が問いかけること 解説にかえて 中路正恒


 


「ナバホへの旅 たましいの風景」河合隼雄著 朝日新聞社より引用


わが国の現状について考える前に、西洋の近代において、どのようにして「個の

確立」ということが生じてきたかを、人間のつながりという点に関連づけながら考え

てみよう。西洋においても、既に述べてきたような人間関係も相当に重視されてき

たであろう。しかし、近代において「個人主義」が生まれてくる要因として、キリスト

教の果たした役割は見逃すことはできない。キリスト教においては、神と人とのつ

ながりがまず優先する。したがって、血のつながりは第一義ではない。血がつな

がっているかということよりも、人は神とのつながり、同一の神につながるものとし

ての隣人の関係が大切になる。人間が感じるつながりとして、もっとも自然と思わ

れる、母子、血のつながりよりも唯一の神とのつながりを重視するキリスト教は、

「自然」と人間の切断を前提としている。このような宗教が砂漠地帯で生まれてきた

ことは示唆的である。文化人類学者、谷泰の「“聖書” 世界の構成論理 性、ヴィ

クティム、受難伝承」(岩波書店 1984年)は、このようなキリスト教の本質を明ら

かにするものとして注目すべき書物である。ただ、この点については既にあちこち

に書いてきたので詳述は避けるが、簡単にエッセンスを述べると、アフリカの砂漠

地帯で遊牧を主として生きてゆくには、いかに自然と共存するかなどということで

はなく、いかに自然を支配し操作してゆくかを考えることが必須のことだ、という

ことである。遊牧する羊を、群れとして人間の思うままに動かさないと、草の少な

い土地でそれを養ってゆけない。それに失敗すると、人間は滅亡してしまう。多く

の羊をひとつの群れとして、一人の牧者が自分の意のままに動かす構図は、唯

一の神がその意志のままに世界を動かすという構図と重なる。かくて、極めて強力

な一神教の世界が出現するが、そこに、キリストという神のイメージが生まれてき

たところに、キリスト教をユダヤ教やイスラム教とは異なる宗教として発展させる

ことになった。つまり、神と人との関係において、人がだんだんと強力になってゆ

く道が開かれたのである。唯一の神の強い支配のなかから、長い間かかって、

ヨーロッパではだんだんと人間が力をもち、神に頼らず人間の力によっていろい

ろなことが可能になることがわかってくる。この結果、人間の一人ひとりを重視す

る「個人主義」が生まれてくるが、そのときに、その個人個人は神とつながる存在

であることを忘れてはならない。神とつながっている限り、人と人とは神を介してつ

ながるし、「神の目」を意識する限り、その「個人主義」は「利己主義」になることは

ない。そしてまた、孤独になることもない。このことは、個人主義に生きようとする

日本人にとって、考慮すべき課題として決して忘れてはならないことである。現代

の欧米の知識人と話し合っていると、彼らの個人主義の背後にキリスト教があ

る、などということを意識していない人が多いことがわかる。それは当たり前すぎ

て意識することもないのだろう。それに、彼らは今ではキリスト教の力をそれほど

強いと思っていないし、かつてほど信じているわけではない。それよりも、個人と

個人の関係は、お互いの信義や契約によって結ばれている、と考えている。つま

り、ここでは一体感的感情を土台にするのではなく、個人と個人が言語によって、

その関係を確かめ、それを維持する努力を払うのである。それは、まさに個と個と

の関係であり、一体となったりはしない。そこでは言語のもつ役割が重要になっ

てくるし、運命など無関係であり、人間の意志が重んじられる。このようにして、

現代人はつながっていると思っているが、背後にある宗教性を失うにつれ、それ

は危ういものとなり、容易にキレたり、弱い者にとっては関係を維持するのが難し

くなる。そして潜在的に作用してたキリスト教と切れてしまうと、その人は容易に

「キレる」人間になる。アメリカにおける凶悪犯罪やアルコール依存症が日本より

はるかに多いことは、そのことのひとつの表れであると思う。





2012年3月12日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。



火焔型土器(縄文土器)の真価を初めて発見した岡本太郎



私は読んでいませんが、岡本太郎著「画文集・挑む」1977年、岡本太郎著「みずゑ」1952年2月号

「縄文土器論」の中で、「太陽の塔」で有名な芸術家、故・岡本太郎氏は次ぎのように記しています。



☆☆☆☆



○「偶然、上野の博物館に行った。考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない、不

思議なモノがあった。 ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表現だった。何だろう。・・・・

縄文時代。それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があっ

たのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃え

あがっている。異様なぶつかりあい。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己

発見でもあったのだ。」



○「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと

執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を

主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである。」



☆☆☆☆



この縄文時代の火焔型土器は、岡本太郎氏より前に多くの考古学者や人類学者が目にしてき

ました。彼らは刻まれた文様などの解釈に悩んでいたのだと思います。しかし彼らの頭の中では

論理的思考しか働いておらず、土器が持つ「生命力」を感じることが出来ずにいました。この火焔

型土器(縄文土器)の再発見のいきさつを思うと、左脳の論理的思考だけでは真実は見えてこな

い、右脳の創造性や直感も如何に大事かを教えてくるのではと思います。この意味での「平衡感

覚」が「在るべき人間」に備わっていると私は感じます。



先に紹介した分子生物学者の福岡伸一氏は、「光の画家」として知られるフェルメール(1632年か

ら1675年)の作品に独自の解釈をした文献も出されているようです。学者の中でもこのような平衡

感覚が備わっている方はいますが、「在るべき人間」とは、知能や知識などで判断されるものでは

決してないと思います。



誰が話したか覚えていませんが、「毎朝、妻の寝顔を見ると、新しい女がいつもそこに眠っている」

という感覚。縄文人にとっては、一日一日が美や創造の再発見であったのかも知れません。



最後に私が尊敬する哲学者・梅原猛氏の岡本太郎氏に関する記述を紹介して終わりにします。

これは「日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る」梅原猛著からの引用です。



☆☆☆☆



この縄文土器の美を発見したのは、前にも述べたように岡本太郎氏である。美というのは、すで

に存在しているものであるが、やはりそれは誰かによって見い出されるものである。日本の仏像

の美を見い出したのは、フェノロサや岡倉天心であったし、木喰(もくじき)や円空(えんくう)の仏像

や民芸の美を見い出したのは柳宗悦なのである。縄文土器もそれまで、数多くの人が見ていたは

ずであるが、それが美であり、芸術であるとはっきり宣言するのには、やはり岡本太郎氏の前衛

芸術によって養われた審美眼を待たねばならなかった。



☆☆☆☆




(K.K)



 

 

2013年1月9日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した写真です。



(大きな画像)


本日1月9日、夜明け前の光景です。


冬の思い出、私が小学1年の頃だったか、火鉢の沸騰したヤカンを足に落としたことがあった。

足が真っ赤に腫れ、母は私をおんぶして遠くの病院まで連れて行ったが、当時は救急車など

なかったのだろう。



鹿児島市内に火傷に関しては名医がいるというので、その病院に行ったのだが、そのお陰で

大きな火傷の跡は残っていない。ただ、おんぶされて何度も病院に通ったとき感じた母の背中

の温もりや想いは、私の心に刻まれている。



児童虐待など、母や父の想いを感じられず育った子供は、その穴を、長い人生をかけて何ら

かの方法で埋めていかなければならない。昔の人が言った「三つ子の魂百まで」は、幼いころ

の性格は年をとっても変らないことを意味しているが、自我が確立しておらず、無意識の中に

いる3歳までの時期は、その後の長い人生を形作るといってもいいのかも知れない。



異論はあると思うが、少なくとも3歳までは周りの人たちの助けを借りながら、親の想いを浴び

つづける満たされた時期であってほしい。



ブッダ、日本各地に赴き12万体の仏像を彫った円空、そして私が尊敬する哲学者・梅原猛さん

は幼いときに母親を亡くした。この深い喪失感は体験した者だけしかわからないのだろう。ブッダ、

円空、多くの人々を救ってきた彼らの光は、私には垣間見ることさえ出来ない深みから発せられ

ているのかも知れない。



☆☆☆☆


 

2015年8月16日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。




縄文のヴィーナス(2012年、国宝に指定された土偶の3分の1のレプリカ)

(大きな画像)

実物の「縄文のヴィーナス」はこちら



土偶が何故創られたのか様々な説がある。生命の再生、災厄などをはらう、安産のための身代わり、大地の豊穣を願うなどなど。



今後も新たな説が生まれてくると思うが、時代の背景を踏まえながら全ての先入観を捨て(完璧には不可能だとしても)、純度の

高い目で土偶に向き合う姿が求められているのかも知れない。



今から30年前、この土偶に関しての衝撃的な見解が「人間の美術 縄文の神秘」梅原猛・監修に示された(私自身、最近になって

知ったことだが)。



殆どの土偶(全てではない)に共通する客観的な事実、「土偶が女性しかも妊婦であること」、「女性の下腹部から胸にかけて線が

刻まれている(縄文草創期は不明瞭)」、「完成された後に故意に割られている」など。



アイヌ民族や東北に見られた過去の風習、妊婦が亡くなり埋葬した後に、シャーマンの老婆が墓に入り母親の腹を裂き、子供を

取り出し母親に抱かせた。



それは胎内の子供の霊をあの世に送るため、そして子供の霊の再生のための儀式だった。



また現在でもそうかも知れないが、あの世とこの世は真逆で、壊れたものはあの世では完全な姿になると信じられており、葬式の

時に死者に贈るものを故意に傷つけていた。



このような事実や背景などから、梅原猛は「土偶は死者(妊婦)を表現した像」ではないかと推察しており、そこには縄文人の深い

悲しみと再生の祈りが込められていると記している。



「縄文のヴィーナス」、現在でも創った動機は推察の域を出ないが、そこに秘められた想いを私自身も感じていかなければと思う。



縄文人に限らず、他の人類(ネアンデルタール人、デニソワ人など)や、私たち現生人類の変遷。



過去をさかのぼること、彼らのその姿はいろいろな意味で、未来を想うことと全く同じ次元に立っていると感じている。










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