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      2013年7月14日、フェイスブック(http://www.facebook.com/aritearu)に投稿した記事です。 
       
       
        
       
       
      今年の夏公開のジブリの映画「風立ちぬ」に登場する零戦の設計者・堀越二郎氏(中央)、 
       
      右は零戦の撃墜王・坂井三郎氏、二人とも故人。(写真は『写真 大空のサムライ』より引用) 
       
       
       
      奄美での幼稚園時代、私はいつも零戦の絵ばかり書いていたが、その頃の私にとって零戦 
       
      は憧れの存在だった。 
       
       
       
      坂井三郎氏の著書「大空のサムライ」は海外でベストセラーにもなったが、64機を撃墜した 
       
      零戦のエースだけでなく、自分の僚機(指揮官《部隊長・隊長》が搭乗する長機とペアになる 
       
      機で部下が務める)を失わなかったことでも有名である。 
       
       
       
      坂井氏によればエース(撃墜王)一人に、未熟な100機が一度に戦いを挑んだとしても、100機 
       
      全てがエース一人に撃ち落されてしまう(弾が十分であれば)程の差があるという。 
       
       
       
      だからこそ、坂井氏は部下からは「鬼」と呼ばれるほど厳しく指導したが、自分の部下が上官に 
       
      理不尽な理由で殴られると、この上官に対して銃を向けたこともある部下思いの人間であった。 
       
       
       
      坂井氏の本で印象に残っていることは、零戦にもパラシュートはあったが使われることはあまり 
       
      なく、撃墜されてもパラシュートで脱出するアメリカのパイロットが羨ましいと坂井氏が思ってい 
       
      たことです。 
       
       
       
      これは「生きて捕虜としての辱めを受けることなかれ」が浸透していた日本軍では当然だった 
       
      のかも知れませんが、これに憤慨していた坂井氏は「たとえ捕虜になっても生きのびろ」と 
       
      部下に強く言い聞かせていました。 
       
       
       
      このように当時の日本軍の「生命軽視」を戦争中何度も坂井氏は経験しますが、それが終戦後 
       
      に当時の軍の上層部批判(山本五十六など)となっていきます。 
       
       
       
      歴史認識は人それぞれ捉え方が違うと思いますが、「生命軽視」の風潮が軍だけでなく日本 
       
      全体を覆っていたとしたら、たとえ日本が先の戦争に勝ったとしても、その未来は暗いものに 
       
      なっていたでしょう。 
       
       
       
      最後に坂井三郎の逸話を要約した他のサイトより引用します。 
       
       
       
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      1942年初頭、オランダ領東インド(今のインドネシア共和国)・ジャワ島の敵基地への侵攻途中 
       
      で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた坂井は、偵察機撃墜後に侵攻す 
       
      る日本軍から逃れる軍人・民間人を満載したオランダ軍の大型輸送機(坂井はダグラスDC-4 
       
      と回想しているが実際にはDC-3と思われる)に遭遇した。 
       
       
       
      当時、当該エリアを飛行する敵国機(飛行機への攻撃は軍民・武装の有無は通常問わない) 
       
      は撃墜する命令が出ていた。相手は鈍重な輸送機であり、容易に撃墜可能な相手ではあった 
       
      が、坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと疑い、生け捕りにする事を 
       
      考えた。味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ時、坂井は輸送機の窓に震え慄く 
       
      母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。 
       
       
       
      その様子を見てさすがに闘志が萎えた坂井は、当該機を見逃す事に決めた。坂井は敵機に 
       
      手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。彼は後に、青山学院 
       
      中等部時代に英語を教え親切にしてくれたアメリカ人のマーチン夫人と彼女が似ており、殺す 
       
      べきではないと思った、と語った。 
       
       
       
      攻撃せず、あまつさえ逃亡を許した背命行為は重罪であり、また軍律違反はいかなる理由に 
       
      せよ恥ずべきことだと感じていた坂井は戦後の著作にもこの件を記述しなかったが、年を重 
       
      ねるに従って考え方が変わり、終戦から50年近く経った頃の講演会で初めてこのことを明か 
       
      した。 
       
       
       
      坂井はインタビューで、戦争とは軍人同士が戦うものであり、民間人を攻撃するものではない 
       
      と信じていたと答えている。 
       
       
       
      なお、これと同じ頃、当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あの 
       
      パイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、該当パイロットが有名な 
       
      坂井三郎であることを知り、非常に驚いた。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。 
       
       
       
      「あのとき輸送機に乗っていた人々は、ほとんどが負傷者、病人、老人、女性や子供でした。 
       
      みんなあなたの飛行機を見て悪魔が来たと思いました。でもあなたは笑って手を振って遠ざ 
       
      かっていきました。みんなは歓声をあげてそれこそ抱き合って喜びました。そして全員あなた 
       
      に心から感謝したのです。あそこにいた人々は、その後、多くの家族を持ちました。あなたは 
       
      多くの人々の命を救ってくれたんです。かけがえのない命の恩人なのです」 
       
       
       
      そう言って、女性はあらためて50年前のシーンを思い出すと涙を流して坂井の手をとったという。 
       
       
       
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