佐藤初女さんプロフィール 1921年 青森市生まれ 青森技芸学院(現在の青森明の星高等学校)卒業 小学校教員を経て、1964年より弘前学院短期大学非常勤講師(家庭科) 1979年より弘前染色工房を主宰 1983年、悩み苦しんで訪れる人を受け入れるため自宅を改装して「弘前イスキア」を開設。 1992年、多くの寄付や尽力により岩木山の麓に「森のイスキア」が完成、心をこめた 手作りの料理でもてなしながら全国各地から訪れる人を迎えている 1995年、龍村仁監督のドキュメンタリー映画「ガイアシンフォニー(地球交響曲)第二番」で、 ダライ・ラマらとともにとりあげられ、その活動が広く知られるようになった。「食べることは いのちの移しかえ」と国内外で「おむすび講習会」や講演活動を続けている。 2002年、NHK「心の時代」に出演、その活動が紹介された。 |
「おむすびの祈り 『森のイスキア』 こころの歳時記」佐藤初女 著 より引用
人のために働く喜び
人は、自分が満たされて喜びを感じると、その次には、必ず他人のために何かを しようと、気持ちが変わってくるようです。人のために働くということは、私たちが 生まれたときに、すでに与えられている天性だということを聞いたことがあります。 本当にそうだと思います。誰かのために尽くすことによって与えられる心の底から の喜び、私はそれを“霊的喜び”と呼んでいるのですが、その霊的喜びを一度体験 すると、生きていく上で、これ以上の感動はないと思っています。
私の日々の生活を見て、「何も仕事をしなくても、普通にしていれば、何の苦労も なく暮らしていけるのに、どうしてわざわざ忙しい思いをするんですか」とか、「何の 楽しみもなく、ただ働くばかりで、こんな生活が何になりますか。それより、ご馳走 を食べて、旅行でもして、もっと楽にしたらどうですか」と、案じておっしゃる人もあ ります。でも私は常日頃から“霊的喜び”を求めて生きたいと思っています。「森の イスキア」で奉仕をしてくださる人たちも、その霊的喜びを体験しているのだと感じ ます。
物的な喜びというのは、絶え間ない欲望の追求です。今この物を求めると次はそれ 以上の物がほしくなります。例えば旅行なら、日本中は回ってしまったから、今度は 外国だというように、一つの欲望を満たしても、そこで満足することができず、果てし がありません。それに対して、霊的な喜びとは、形もないし見返りもありません。でも、 傍から見ればどんなに些細なことであっても、それは、その人にとって最大の喜びと なるのです。
「おむすびの祈り 『森のイスキア』 こころの歳時記」佐藤初女 著 より引用 足もとのことから動く 何か奉仕の仕事をしたいのだけれど何をしたらいいのかわからないとか、自分のやり たいことが見つからないという相談を受けることがあります。何をしようとか、自分は何 がしたいのかと考える前に、今このとき、自分の目の前にあることに忠実に心をこめて 動くことで、答えは自ずと出てきます。ただ考えているだけで何も動こうとしなければ、 何も見えてはきません。動くこと、行動に移すことが何よりも大切なのです。
「あなたのところには、皆さんが次から次へと、相談に来たり頼みごとに来るけれども、 私のところには誰も来ない。だから私には何もすることができない。どうしたらいいんで しょう。」といってきた方もあります。
私は、奉仕というものは、まず自分の足もとのことから始めるものと思っています。道端 にジュースの缶が落ちていたら歩いている人がつまずかないように拾うとか、自分のまわ りの人たちに、いつも明るく温かい言葉をかけるように心がけるとか、そんな些細なこと の積み重ねが、人の心に伝わります。
例えば、皆が使うトイレを掃除したり、気づいたときに廊下や玄関を掃くとか、お茶を飲ん だ湯飲みをさっと洗うとか、そうした身近なことから動いていますと、それをさり気なく見て いたまわりの人は、この次はあの人にこの仕事をお願いしましょうという気持ちになりま す。その頼まれた仕事を気持ちよくこなしていくことで、この次もあの人にお願いしましょう ということになって、動きの輪は次第に大きく広がっていくものです。
「私には何もできない」という人には、そのような「気づき」をしていないことが多いようです。 毎日私のところに来ても、ただいれてもらったお茶を飲んでいるだけで、まわりの人のお茶 が空になっても、新しいお客様がきても、座っているだけで自分から腰をあげようとしない、 そんな人にかぎって、「私には誰も頼んでくれない」と不満をこぼしていたりするものです。
「おむすびの祈り 『森のイスキア』 こころの歳時記」佐藤初女 著 より引用 小さきテレジア 前にもお話しましたが、父が事業で失敗した後、私たち一家は函館に移り住み、 私は函館山の麓にある女学校に入学しました。十三歳の頃のことです。まわりに は教会がたくさんありまして、学校で朝礼をしているときなど、教会の鐘が一斉に 鳴り響きます。そこで再び、幼かった頃の、鐘の音に神秘を求める心が呼び起こ されました。学校の帰りに友人を誘って教会の前まで何度も足を運んだのです が、函館でもついに、教会の中に入ることはできませんでした。女学校三年生の とき、私は胸を患いました。故郷に帰れば病も治るにちがいないという祖母の強 い希望で、私は函館の女学校を退学して、青森で静養することになりました。青 森に帰ってきましたら、ちょうど近所に現在の明の星高校の前身である青森技 芸学院を創設するための工事が進んでいました。学校の母体になっていたの は、聖母被昇天会という修道会で、シスターたちが創設準備のために工事中の 学校に毎日通っているのを見て、この学校に入れば教会に行けるようになるの ではと、私は両親に入学させてもらえるようお願いしました。その願いがかなって、 第一回生として入学することができたのです。青森に戻ってからも、喀血が止まっ たわけではありませんでした。卒業間近の頃は、具合が悪くてもどうしても学校を 休めず、学校に行く途中で血を吐いたこともありました。電信柱につかまって少し 落ちつくと、次の電信柱までそろりそろりと歩いていって、ようやく学校にたどりつ くというありさまでした。学校にたどりついても、そのままでは授業を受けることもで きず、静養室で寝ていることもしばしばでした。ある日のことです。看護婦さんのシ スターが休んでいた私の枕元に一冊の本をそっと置いていきました。それは『小さ き花のテレジア』という本でした。それが私にとっては一番最初の、神様との出会い だったのです。若き修道女のテレジアは、病に蝕まれ、咳き込み、血を吐きながら も、そのすべての努力を、神様への祈りの隣人への愛に注ぎ込んでいました。 テレジアの信仰生活の根底には、神様の愛への無条件の信頼が流れていました。 そのとき私は十七歳、ちょうどテレジアと同じくらいの年齢でした。そんなこともあっ て、私は、どんな困難にあっても一心に祈り続けたテレジアの生涯に大変感動し、 自分がいつかクリスチャンになれるときがきたら、テレジアの霊名をいただきたい と、心に秘めておりました。その頃は戦争中でしたので、学校では宗教の話は一 切できませんでしたし、もちろん教会に行くこともできません。シスターとも授業の 話以外で言葉を交わすことはできませでした。それでも、私は自分から信仰の世 界を求めて学校に入ったのですから、何としてでも祈りの勉強を続けたいという 思いでいっぱいでした。放課後になると、修道院の前に行き、誰か見ていないか あたりを見渡して、誰もいなければ修道院の裏口からさっと中に入り、お祈りの ことを勉強していました。修道院に行くことは両親からも反対されていましたの で、家にいるときは、何か用はないですかとお使いを申し出て、素早く用事を済 ませたら、その合間に急いで修道院に寄って、隠れて勉強もしていました。学校 を卒業したらすぐにでも洗礼を受けたかったのですが、まだ戦争が終わらず、 シスターも拘留されたりしていましたので、すぐ受洗というわけにはいきませんで した。ですが、私の心の中では、どんな苦しい中にあっても神様への愛を見失う ことのなかったテレジアが、信仰へのともしびを燃やし続けてくれていたのです。
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