以下、「サウンド・オブ・ミュージック 名作映画完全セリフ集」より引用。



この映画について

(相模女子大学教授 曾根田憲三)



オーストリアからアメリカへ亡命して、トラップ・ファミリー合唱団を結成した一家の実話をモデルにして作られ

たミュージカルで、1959年11月にブロードウェイで幕を上げてから1443回にも及ぶ公演を記録した「サウンド

・オブ・ミュージック」を、「ウェストサイド物語」でミュージカルの大家としての地位を獲得したロバート・ワイズ

監督が映画化したものである。大衆に訴えかけるために、作品にもっと社会性を持たせる必要性を痛感した

彼は、ヨーロッパ制覇の理念のもとに次々と隣国に魔の手を伸ばしていったナチス批判を強調した。想像を

絶する困難と恐怖を乗り越えて自由の国アメリカへ脱出するという「カサブランカ」ばりのドラマ仕立てを用意

することで、勇気と自由への憧れを見事に描くことにも成功したといえるだろう。勿論、ワイズ監督がこの作品

で「ウェストサイド物語」に続き二度目のアカデミー賞受賞に輝いたことは言うまでもない。



 





以下、「サウンド・オブ・ミュージック 名作映画完全セリフ集」より引用。



マリア・フォン・トラップの生涯

(慶應義塾大学講師 及川学)



この映画のマリアのモデルとなったマリア・フォン・トラップは自伝「サウンド・オブ・ミュージック」の中で

生涯を振り返り『すべては神の摂理だった」と言う。



ノンベルク修道院の見習いシスターだったマリアはオーストリア海軍の退役艦長のトラップ男爵のもとへ

家庭教師として派遣され、1927年に25歳年上の男爵と結婚する。笛で整列する子供たちや子供嫌いの

イヴォンヌ姫(シュレーダー男爵夫人のモデルとなった女性)のエピソードも実話である。



突然の銀行の破産により一家は財産を失うが、パイプオルガンの大家ヴァスナー神父の指導のもとに

歌を練習し続けコンクールで優勝、その後のヨーロッパ各地での演奏旅行も成功する。



しかし1938年のナチスによるオーストリア併合が家族の運命を定める。ナチスの国旗高揚も挨拶も拒ん

でいた一家であったが、トラップ男爵はボートの司令官に任命され、またトラップ・ファミリー合唱団は

ヒトラーの誕生日に歌う代表として選ばれ、拒否することが出来ない立場に追い込まれたのだ。



「物質的なものを守ろうとすれば精神的なものは断念せざるをえない。たくさんのお金が幸福につながる

かは疑問だ。おまえたちは貧しくとも忠実な人間になってほしい」という父の言葉に一家は祖国を捨てる

決心をし、ハイキングにいくふりをして徒歩でアルプス越えイタリアに逃れ、同年9月一家はアメリカに

渡る。



1948年に米国市民権を取得し、1956年まで各地でトラップ・ファミリー合唱団として演奏旅行をするかた

わら、バーモント州ストウに自分たちの手で家を建て、音楽キャンプ場をつくり人々に音楽を与え続けた。

音楽を通して皆が愛し合うという「ひとつの心」をモットーとしたマリアは、1987年3月28日、82歳の生涯を

終える。





加害者か被害者か ナチス・ドイツのオーストリア併合をめぐって

(立教大学国際学部教授 若林一平)



1938年3月13日、「独墺合邦宣言」が発せられ、ナチス・ドイツはオーストリアを併合した。以後、オースト

リアの人々は1945年のナチス・ドイツ崩壊までナチス統治下の生活を強いられることになる。だが、加害

者の側に身をおいたオーストリア人がいたことも見逃せないのではないだろうか。



時代は下って1993年6月9日、イスラエルを訪問中のオーストリア首相フラニッキは、第2次世界大戦中の

ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺などについて、オーストリアも責任があったと述べた。イスラエルは、

オーストリアのワルトハイム前大統領が、大戦中にナチスに強力したとして、抗議のため同国との外交

関係を制限していた。同首相は、ヘブライ大学の名誉学位授賞式に出席、「多くのオーストリア人が

ナチス体制を支持した」と、謝罪の意を表明した。



ワルトハイム氏は1972年から82年まで国連事務総長を務めたあと、86年にオーストリア大統領に当選、

92年までその職にあった人である。ワルトハイム氏に関してはアメリカ司法省の報告書が94年3月に公表

されている。ワシントン・ポスト紙などによると、この報告書は、ワルトハイム氏が捕虜の収容所送りや

処刑などを任務とする部隊の主要メンバーだったと指摘している。





合理と狂気 ナチス・ドイツの官僚たち

(立教大学国際学部教授 若林一平)



ヒトラーから絶大な信頼を得ていたナチスの軍需相シュペール。彼は建築家出身で、イデオロギーから

ではなく、自分自身の専門職業人としての自己表現のためにナチス体制に積極的に関わっていった

代表的人物である。シュペールの証言。私は組織計画を作成した。それは戦車や飛行機あるいは潜水

艦の個々の製造、つまり三軍の軍備を包括する縦割りの組織計画であった。この縦の支柱を中心に、

大砲・飛行機あるいは各種兵器に必要部品を供給するグループがリング状にとりまいた。シュペールの

建築家としての三次元的な思考法が軍需生産システムに見事に生かされているのではないか。



シュペールをはじめとするナチスの官僚たちはこのような組織の技術をつきつめていって、ついに総力

戦という考えに到達した。総力戦においては、物質的および人的資源の全体を戦争の遂行に有効に活用

する。しかし、ヒトラー自身は、皮肉なことに、総力戦には終始反対していたと言われる。



自分たちの小宇宙の合理性をどこまでも追求する官僚たち。小宇宙とは自分自身の専門機能に基づく

合理の世界。その合理の実現=自己実現のエネルギーが組織に吹き込まれて組織に活力が与えら

る。合理の追求の果てに待ち構えている狂おしいばかりの発狂。〈合理と狂気〉の弁証法こそ、今なお

官僚という存在が持つ最も危険な落とし穴であろう。





「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽

(慶應義塾大学講師 及川学)



映画「サウンド・オブ・ミュージック」には「エーデルワイス」「ド・レ・ミの歌」「私のお気に入り」など現在でも

愛唱され、演奏されている曲がいくつもあるが、そのほとんどがオスカー・ハマスタインU世(1895〜1960)

の作詞、リチャード・ロジャース(1902〜1979)の作曲によるものである。このコンビは「オクラホマ!」

「回転木馬」「王様と私」他、優れたミュージカルを計9本製作しているが、特に異文化との接触が得意の

テーマで、オスカーが先に作詞し、それにリチャードが曲をつけるというのが二人のやり方だった。劇場用

ミュージカルがボストンで試演された際に急遽トラップ大佐の為に書いた「エーデルワイス」がオスカー

最後の曲になったが、彼が亡くなった1960年8月23日にはブロードウェイとロンドンのウエスト・エンドで

追悼の意を表すために、演劇史上初めて明かりが3分間消されたことがラーナーの「ミュージカル物語」

に記されている。「自信をもって」と「何かよいこと」の二曲はこの映画の為にオスカー亡き後、リチャード

一人で作詞・作曲し加えたものである。「私のお気に入り」はジャズファンには「マイ・フェイバリット・シン

グス」の曲名で良く知られている。サックス奏者の巨人ジョン・コルトレーン(1926〜1967)がソプラノサックス

で繰り返し演奏、録音しているからである。彼はこの3拍子の曲を「幻想的なワルツ」と呼び、この曲名を

タイトルにしたアルバムも作り、「自分で書いていたらどんなに良かったか」というほど「お気に入り」だった。

この曲が多くのジャズファンにはコルトレーンの作曲だと誤解されている所以である。





この映画について

(相模女子大学教授 曾根田憲三)



上空からのカメラが大空を舞う鷲のようにオーストリアのアルプスの壮大な峠を据え、山麓に広がる静寂に

包まれたおとぎの国のような美しい森や湖の点在する村々を映し出し、その幻想的な風景が一望できる

高原へと穏やかに降り立った時、一人の若い娘がクローズアップされる。彼女は何処からともなく聞こえて

くる小鳥のさえずりの歌を歌いだすのだ。彼女の名はマリア、高原の麓の修道院の見習い修道女である。

歌に熱中する余り、また祈りの時間を忘れて修道院に駆け戻ったマリアに、院長は家庭教師としてザルツ

ブルク行きを命ずるのだった。初めての体験で不安が一杯のマリアは道すがら I Have Confidence を自ら

に歌い聞かせながら、トラップ家へとやって来る。家庭教師嫌いの16歳の娘リーズルを筆頭に5歳のグレー

テルに至るまで7人もの扱いにくい子供たち、しかもこれまで11人もの家庭教師がことごとく手を焼き、中に

はたったの二時間で逃げ出した者もいると聞かされて一瞬怯むが、激しい雷雨をきっかけで子供たちと

仲良しに。元海軍大佐の父親の軍隊風の激しい躾けが原因で、歌声は愚か、子供らしい笑顔も忘れた

子供たちを外へ連れ出して歌を教え、木登りやボート遊びを堪能させる。



暫くぶりに、婚約者の男爵夫人を伴って自宅に戻って来たトラップ大佐はそんなマリアの教育方針を目の

当たりにして激怒するが、男爵夫人を歓迎して歌う子供たちの姿を見た時、彼は胸に熱いものが込み上げ

てくるのを禁じ得なかった。数日後に開かれた男爵夫人歓迎のパーティで大佐とマリアは踊った。大佐の手

を取り、大佐の胸に抱かれながらフロアを滑り、宙を舞うマリア。だが、大佐の目とマリアの目が会った時、

マリアはもうそれ以上踊ることは出来なかった。頬を紅潮させ、自分の部屋に戻った彼女は、一枚の紙切れ

にメモを残して、密かに大佐の家を後にするのだった。修道院の暗い部屋にこもったきり、誰とも口をきこう

としないマリアに院長は Climb Every Mountain を歌って、自らの努力で人生を切り開いていく必要性を

説いて聞かせる。マリアが大佐の家を再び訪れた時、大佐の心が既に自分から離れていることを察知した

男爵夫人は彼のもとを去り、マリアは大佐と結ばれた。だが、この時期ヨーロッパではナチス旋風が吹き

荒れ、オーストリアはナチス・ドイツに併合されてしまった。祖国を限りなく愛する大佐は苦悩の末、亡命を

決意する。




Dame Julie Andrews - Academy of Achievement







アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)

「夜と霧」 フランクル

美に共鳴しあう生命

天空の果実


「アッシジの聖フランシスコ(フランチェスコ)」にもどる