インディアンの美しさを最初に伝えた画家 ジョージ・カトリンの贈り物 構成 香山和子
(本書より引用)
彼は“神から遣わされた記録者”だった。1830年代、インディアンたちを訪ねて北米を旅した
画家は数百点におよぶ油絵を後世に残した。彼はイーゼルの前でポーズをとるインディアン
ひとりひとりを知的、勇壮、上品、エレガントなどの言語で評し、彼らに対する愛情と尊敬を
表した。当時、アメリカの全人口1286万6020人に対して、インディアンは31万3130人とアメ
リカ政府の統計にある。白人たちから迫害を受け、戦いや伝染病などで激減した。自然と
共生する偉大な人々が正しく理解されることを願って克明に描かれた作品は今日も我々に
多くを語りかける。
緻密なタッチの油絵で表現されたインディアンたちの美しく独奏的な衣服や装飾品、彼らの
暮らしや風習、そして彼らが敬い、畏れ、共存する自然。1830年代に描かれた作品は、それ
がアメリカ合衆国の姿の一部であった、ということを即座には信じられないほど、ある種の豊
かさに包まれている。そしてインディアンたちは創造性や色彩感覚になんと恵まれていること
か。写真以上に写実的ともいえる油絵が描き出した世界に、失ったものへの敬意を呼び覚
まされる人も多いだろう。
絵筆を握った人物はジョージ・カトリン(1796〜1872)。彼は1830年から1836年にかけてセン
トルイスを拠点にインディアンの各部族を訪れる旅を5回にわたって行ない、50部族を訪問
し、彼らの生活を油絵に残した。またその2年後にはミズーリ川を3000km下り、今日のノー
スダコタとモンタナ州の州境に位置する地域に住む、南部のパウニー、オマハ、北部のマ
ンダン、クロー、アシニボイン、ブラックフィートなど18部族を訪れ、ヨーロッパ文明の影響を
さほど受けていないインディアンたちを記録した。こうして彼は1830年代におよそ600点のイ
ンディアンをテーマにする油絵を描き、また1832年から33年にかけて、訪問記をニューヨー
クの新聞に寄稿している。
ところで1830年代といえばアンドリュー・ジャクソン大統領によってインディアン移住法が制定
された年であり、保留地への強制移住に従わないインディアンは絶滅させるという『インディア
ン絶滅政策』が推進された時代だった。これによって南東部に住むチェロキー、セミノール、
チョクトー、クリークなどの部族はミシシッピ川以西に移住を強いられた。厳冬のさなか1000km
以上も離れた土地へ徒歩で以上を命じられたチェロキーは、1万2000人のうち8000人が旅の
途中で死亡したといわれ、「涙の旅路」としてインディアンたちに語り継がれている。
このような白人によるアメリカ植民地政策が進められた時代に、なぜカトリンはインディアンに
魅せられたのだろうか。
彼は1796年、ペンシルバニア州ウィルキス・バーレに生まれた。自然に恵まれた環境のなか
で釣りや狩りをして過ごし、また1778年のワイオミング大量虐殺などインディアンにまつわる
多くの話を聞いて育ったという。母親と祖母がインディアンに囚われ監禁された、という話も
幾度となく耳にしていた。弁護士の父親の願いで1817年にはコネチカット州で弁護士資格を
得たものの、1821年にはフィラデルフィアで絵描きの道を歩み出した。法律家より画家が天職
と悟ったのだろう。1828年の夏のある日、フィラデルフィアを訪れた「西部の野生のなかから
高貴で威厳あるインディアンたち」の一行に出会った。カトリンは気品ある彼らの姿に驚き、
彼の絵描き心はその美しさに刺激されたのだった。そして即座にインディアンたちを描くこと
に生涯を捧げる決心をした。それは失われつつあるものを記録し、子孫に残さなくてはなら
ないという使命感でもあった。
1838年、彼は旅を終えて東部に戻り、607点の油絵とインディアンの数多くのコスチュームや
アート作品などを「インディアン・ギャラリー」としてまとめ、アメリカやヨーロッパの主要都市を
巡回し、講演を行い、インディアンに対する正しい理解を広めることに力を尽くした。しかし
1852年には財政難のためインディアン・ギャラリーを実業家ジョセフ・ハリソンに売却し、彼自
身は南米に渡り、ふたたび原住民たちを描く旅を続けた1871年、アメリカに帰国したが、翌年
にこの世を去っている。1879年にハリソン未亡人が500点以上の原画をスミソニアン・インス
ティチューションに寄付し、今日も保存される。また彼の油絵は印刷用に版画におこされ、著
作「北アメリカインディアン」などに見ることができる。彼が意図したように「記録」は今日も活
き活きと“1830年代のアメリカ”を語っている。
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