「今日は死ぬのにもってこいの日」
ナンシー・ウッド著 フランク・ハウエル画
金関寿夫訳 めるくまーる より
白人の女性である著者が、インディアンの古老から聞いた言葉・口承詩を 集めたものだが、インディアンの死生観を見事に現わしている好著である。 (K.K)
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・タオス・プエブロの古老の言葉 (本書より引用)
今日は死ぬのにもってこいの日だ。 生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。 すべての声が、わたしの中で合唱している。 すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。 あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。 今日は死ぬのにもってこいの日だ。 わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。 わたしの畑は、もう耕されることはない。 わたしの家は、笑い声に満ちている。 子どもたちは、うちに帰ってきた。 そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
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本書 訳者あとがき より抜粋引用
本書は、一つの独立した短めの長編詩のようにも読めるが、一つずつ別々の 叙情詩を集めた詩集としても読むことができる。詩人が、タオス・プエブロの古老 たちに私淑して、その生き方に感銘したことを、短い叙情詩として表現している。 ときどき和歌の詞書のように、補足説明的な、これも短い散文詩が混じっている。 詩的にも成功していて、非常に美しいものも少なくない。語法は単純明快で、もと もとこの詩集の対象として考えられていたらしい「青少年」読者にも、楽に読める はずである。しかしこの詩の成功の秘密は、なによりもこの詩人が、インディアン の「口承詩」の伝統を我がものにしているところにある。彼らの口承詩を特徴づ けている単純なフレーズの「繰り返し」パターン、そしてイメージによる即物的な 表現など。だが他の何にも増して、宇宙や自然の環境を「神話的」に捕らえる性格 において、彼女の詩は、口承詩の特徴をもっとも正統的に受け継いでいる。ナンシ ー・ウッドは、プエブロ部族の古老たちが、今も彼らに「身をすり寄せる」文明化の 脅威にもかかわらず、激しく憤りもせず、深く悲しみもせず、平然としていることに 感動している。ウッド女史によると、タオスは生き残れるということに関して、彼ら は絶大な自信があるのだという。「白人ならこういう楽天主義を妄信と呼ぶのだ ろう。しかしタオスの人は、これを生き方と呼んでいる。そしてそれは、政府や利得 よりも強いものだ、と彼らは信じている」と彼女は書いている。そしてその生き方 について古老たちが語り、それを彼女が書き留めておいたのが、この詩になった のである。
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ナンシー・ウッドはもう長いこと、サンタフェから20マイルの、広野の端に、 孤独を共として住んでいる。「孤独」は、自分の霊的生活に欠くことのでき ない要件だ、と彼女は言っている。夏になると、コロラド州のロッキー山麓 に、ヴィヴァルディやモーツァルトのテープを持ってハイキングに出かける。 そして音楽を風に聴かせながら、山の中でダンスをするのだという。そうし た彼女にとっては、恐らく毎日が「死ぬのにもってこいの日」であるにちがい ない。・・・同著「今日は死ぬのにもってこいの日」 訳者あとがきより
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