「老女の聖なる贈りもの」
心の内奥へ導くインディアンの教え
プリシラ・コーガン著 ハーディング・祥子訳 めるくまーるより
この本の著者のプリシラ・コーガンは、スー族のメディスンに精通しているチェロキー・ インディアンの心理学者を通して、そしてこの小説の主人公は一人のインディアンの 老女を通して、インディアンの死生観や心身を癒す方法を学んでいく。著者の実体験 が色濃く反映されたこの小説から、インディアンの豊穣な精神文化(特に死生観)の 一端を知ることが出来るだろう。尚、本書はスー族の伝統的な教えに根差した物語 として、インディアンの読者にも好評を博しているとのことである。 (K.K)
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本書より引用
メギー・オコーナーは40歳を目前にしたサイコセラピスト。仕事の上では成功を収め たが、離婚を経験し、女性としての生き方に自信をなくしていた。そんな彼女がある日、 「2ヶ月後に自分は死ぬ」と宣言したインディアンの老女、ウィノナのカウンセリングを依頼 される。だが、老女は病気でもなければ、自殺をしたがっているわけでもなかった。なぜ そんな宣言をしたのかと尋ねるメギーに、メディスン・ウーマンであるウィノナは「2ヶ月たっ たら、死ぬのにいい時だからさ」としか答えない。こうして始まった週2回のセッションは、 やがてウィノナがスー族の死生観や、男女のスピリチュアルな関係などを語って聞かせる となり、メギーはいつのまにか心を癒される立場にまわってしまう。老女の人柄と教えに 魅せられ、別の生き方に目覚めはじめたメギーは、二人のインディアン男性にも心を寄せ るようになっていく。
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本書より引用
彼女は私の質問を無視して、天候のことを話しだした。「木々の葉は、時が来たのを 知っている。これまでは懸命に枝にしがみついて、日に日に明るい太陽の色をまとって きた。だがすぐにも北風が吹いて、葉を激しく揺らすだろう。よく注意して見れば、彼ら が薄皮一枚で枝につながっているのが分かるはずだ。そしてある日、すべてを忘れて いっせいに枝を離れる。円を描いて、くるくる回りながら落ちていく。聖なる輪を空いっ ぱいに描きながらね。必死に枝にしがみついてはいても、いつそこを離れるかはよく 分かっているんだ」 鋭い痛みが私の胸を刺した。彼女の言葉を手がかりにセッション を始めた。「で、あなたにとっても今が離れる時だと思うのね? 長いことこの世にしが みついてきて」 ウィノナは何も言わなかった。最も重要な話題に突入するのに、急ぎ すぎたかしら? 静けさが部屋を支配して、夕暮れの影が色濃く落ちてきた。やがて、 まるで質問などされなかったのように、ウィノナは彼女の教えを続けた。 「ヴィジョン (啓示)は西から来る。北からは清め、東からは洞察、そして子供についての教えと、こ の世の時が終わったときにたどる道についての教えは南から来るんだ。あなたを取り 囲む方角すべてが、聖なる輪なのさ、メギー。頭上にはグランドファーザーがいて、あ んたはグランドマザーである大地を歩む。何もかもがめぐってゆく。留まるものなど何 ひとつない。あんたはまだ、あたしが死ぬことを恐れている。もう一度よく周囲を見て ごらん、メギー」ウィノナはたなごころにとても大切なものを包みこむかのように、両手 を丸く合わせた。「生きることのすべては、ひとつの輪なんだよ、分からないかい?」 私には分からなかったが、それまでよりいっそう注意深く彼女の声に耳を傾けた。ウィ ノナは再び説明を試みた。「季節でさえ輪のようにめぐっている。秋の死がなければ、 春の美しさはない。命の前に死があることを知らなかったのかね? だが・・・・・・・」 老女は意味ありげに私を見た。「葉っぱだって、そうやすやすとは枝から離れない。 そう、あたしたちの体には生命の液体が流れているからね。みんな、自分がいったい 何にしがみついているかを知らずに、ただ必死にしがみついているだけなんだよ、 メギー。時が、輪が完成した時が、来たことが分かるまではね。そうして風とともに踊り、 聖なる命のサークルについて語りながら散るんだ。幾度も幾度も」「私に言いたいのも それなのね、ウィクナ? じゃあ、あなたの命のサークルについて教えて」真剣に耳を 傾けることで、彼女の言っていることは理解できるようになった。しかし、それが私の セラピストの仕事とどうつながるのかは分からなかった。仕事とは、もちろんウィクナに 死なないよう説得することなのだが。老女は苛々して、私に食ってかかった。「いいか い、よく聞くんだメギー。白人はすぐに途中を省略して、結論に飛びつきたがる。結論 が分かれば、それ以外は必要ないと言う。白人は直線の上しか通らないんだ。Aから Bだけ。途中は、単に過ぎ去っていくきれいな背景にすぎない。“太陽が沈むわ、まあ、 なんてきれいなんでしょう”ってわけだ」ウィノナはわざと甘ったるい声を出した。「白人 は」彼女は続けた。「四角や三角の世界に住んでいる。足し算と引き算の世界だ。分か らないかい、メギー? 人生の中で大切なのは、数え上げられる大きな出来事ではない んだ。本当に重要なのは旅なんだ。続いていく動きなんだよ。あんた自身のメディスン・ サークルの中心に入っていくってことだ。ウィ、つまり太陽が昇る朝には「命をありがと う」と歌い、「今日は死ぬのにいい日だ」と言う。グランドファーザーが西に沈みはじめる とき、そこに光と闇のはざまの瞬間がある。二つの世界が触れ合う瞬間が・・・・・・・」
本書・「日本の読者のみなさまへ」より抜粋引用
こうして私は、博士を通してラコタの儀式の世界とのつながりを持つことができるようになり ました。1981年、ダンカンと私は、ラコタのブランケット・セレモニーの伝統にのっとって結婚 式をあげ、ネイティブ・アメリカンの教えを伝える自分たちのコミュニティを作りあげました。ネイ ティブ・アメリカンの儀式の中で私が経験した説明しがたい現象の数々は、それまで私が慣れ 親しんでいた、安全で科学的な世界観に疑問を投げかけました。ですから、現在の私が持って いるスピリチュアルな世界観は、単にメディスン・マンの教えを頭から信じ込んだり、盲目的に 受け容れたりした結果ではなく、むしろ私が身をもって体験したことに基づいています。もし、 この小説に少しでも説得力があるとすれば、それはこのことによるのではないかと思います。 ラコタの心身を癒すやり方は、欧米における臨床心理学の療法とはかなり異なっています。 私はこの違いに光をあてた本を書きたいと思いました。私たちが異なる物の見方のぶつかり 合いを大事にするならば、そこに新たな何かが浮かび上がってくると信じているからです。 すなわち、人間の経験を理解するための別のアプローチの仕方や、生と死の意味について の疑問、異文化に対する畏敬の念などです。本書の中で老女ウィノナは、この宇宙には良い 精霊といたずら好きの精霊と悪い精霊が存在すると言っています。元型的な三部作の第一 作目である本書が描いているのは、もっぱら良い精霊の領域についてです。ウィノナは、私 たちが持っている死についての考え方に課題を投げかけます。そして死とは何かを問い直す ことは、とりもなおさず生とは何かを問い直すことでもあります。その点からいって、この物語 はひとつの発見の旅だと言うことができるでしょう。最後にその発見の旅が、単に小説の中 の登場人物や作者だけのものに留まらず、この本を読まれるみなさんの旅にもなりますよう に、心から願ってやみません。 1999年 プリシラ・コーガン
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訳者あとがき より抜粋引用
物語は、その心理学博士の女医の元にひとりのインディアンの老女がクライアントとして 連れてこられるところから始まります。老女は、病気でもないのに、自分は2ヵ月後に死ぬ と言い張るのです。こうしてセラピーが始まりました。ところがセッションを続けていくうち、 その極めて理性的な白人医師メギーと、患者であるはずのインディアンの老女ウィノナの 立場がいつのまにか逆転してしまいます。いったいどちらが医師で、どちらがクライアント かわからなくなってしまったのです。もちろん、メギーはあわてます。なぜなら、ウィノナの 話に惹かれれば惹かれるほど、それまで住んでいた安全で、理詰めの世界から離れてい くような気がして、不安でたまらなくなったからです。医者という職業を考えれば、なおさら でしょう。それでも、メギーはウィノナに死んでもらいたくない一心で、彼女の語る広大な 宇宙の物語に耳を傾けつづけます。こうして、私たちはメギーを通して、少しずつ、無理な く、ウィノナの世界に誘われていきます。それも現代に生きる人間としては実に自然な 反応である、否定、疑い、当惑、混乱などの感情を経験しながら進んでいくのです。
物語は、それだけではありません。メギーや友人の医師であるベヴを取り巻くさまざまな 人間模様も同時に進行します。家庭、離婚、同性愛、暴力、恋愛。そこには現代の人間が 抱えるさまざまな問題が浮かんできます。これだけ多くのことを取り上げながら、実はこの 作品をひとつの恋愛小説として読むことだってできるのです。この本には、押しつけがまし いところや、説教じみたところがまったくありません。ウィノナの老獪さに笑い転げ、ベヴ の失恋に同情し、病院から盗まれた赤ん坊の話に涙しながら、いつのまにかウィノナの 語る別の世界の存在に心を開いていくのです。
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