「クジラの消えた日」

ユーリー・ルィトヘウ著 浅見昇吾訳

青山出版社 より引用





シベリア北東のはずれ、チュクチ半島に住む少数民族に伝わる感動的な

創世神話の物語。「クジラと人間は仲間 クジラと人間は兄弟 海と陸の

兄弟 生まれたときから結ばれている 親愛なる永遠のつながり」という

太古の祖先からの神話を口承で代々語り継いできた。そこには生きとし

生きるもの全てにたいしての慈愛、「大いなる愛」が横たわっていた。や

がて人間だけが特別の力を授かった生き物だと信じる人によって、この

「大いなる愛」が壊されてゆく。1930年代まで文字を持たなかったチュ

クチ人から生まれたルィトヘウがこの神話に再び息を吹き込んだ傑作。

(K.K)





(本書より引用)


これこそ人間というものなのだろうか? すべてのトナカイの民が

刮目して見た。強く、美しく、たくましい男。その男の大きな声が響く。

潟の静かな水にさざ波が立つようだ。「力こそ、人間の幸福そのもの

である。人間はすべてのことができる。人間にはすべてが許されて

いる!」アルマギルギンはそう主張した。アルマギルギンには子供

のころから、そのような兆候が見えていた。女たちがネズミへの返

礼として、小さな植物の根や干し肉の破片をネズミの穴に残していく

と、アルマギルギンは女たちをあざ笑った。「全部、人間のものにし

てしまえばいいんだ。こんなちっぽけな生き物なんて、全部人間の

ものにしてしまえ!」アルマギルギンはそう言って、骨からできた熊

手でネズミの穴の中のものをすっかりとりだしたあげく、穴を壊してし

まった。潟に投網を打つときには、稚魚にいたるまで残らず魚篭に

入れてしまった。大きな声で話し大きな声で笑いながら、アルマギ

ルギンはネズミの穴を壊し、魚をつかまえていた。





人々は彼と一緒にいるのが楽しかった。誰もが自分の望むことをその

まま口にできる。やりたいことがやれる。アルマギルギンとなら、どんな

欲望もすぐに簡単に満たせた。食欲や睡眠のように。しだいに人間は、

狩猟のときにクジラに感謝することを忘れていく。クジラが海の生き物を

岸に駆り立てるのではない。そう見えるだけなのだ。本当は、海の生き

物が自分で岸に近づいてくるのだ。彼らははじめから、そう動くようにな

っているのだ。アルマギルギンはそう唱えていた。秋になると、岬のう

しろ、冷たい波に洗われた小石の岸辺の辺りに、セイウチが這い上が

ってくるようになる。あるとき、朝早く太陽が昇るころ、セイウチを殺す

ことが取り決められた。海の狩人たちは岩山の上から忍び寄っていき、

静かにくつろいでいるセイウチに襲いかかり、やみくもに殺した。老いも

若きもみな殺した。セイウチの鈍いうめき声と苦痛に満ちた喘ぎが海の

上に昇っていき、、冷たい波の刺すようなにおいと溶け合っていく。





最後の一頭を殺害すると、アルマギルギンは血塗られた刃を高く掲げ、

勝利の雄叫びをあげた。あまりに大きな声に驚いたのか。近くの岩山に

巣をつくっていた鳥の群れが飛び立った。遠くのほうにはクジラが泳いで

いた。その潮が海の上に高く吹き上がっている。「おれたちこそ大地の

本当の支配者なのだ! 欲しいものは何でも自分で手に入れることが

できる。誰に感謝することもない。誰に助けてもらうこともない!」 冬の

間、小石の岬の住民は飽食による気だるさを感じていた。地下の食料

貯蔵庫には肉があふれている。新鮮なアザラシの肉が欲しい者以外、

誰も狩猟に出かけない。夜には、大きな家にタンバリンの音がとどろく。

人間の幸福を讃える歌声が響く。「強き人間にはすべてが許されている。

人間の英雄的行為、本当の人間の英雄的行為とは、今この瞬間の満足

をつかむことにある。髪が風になびく美しい少女をとらえるのと同じよう

に・・・・・・・・」





アルマギルギンは飽食に耽った。そのため、エネルギーが余ってしまい、

一人の女では満足できなくなり、二人目の妻をめとる。翌年、セイウチのね

ぐらを襲い、すべてを破壊しつくすと、三人目の妻をめとった。アルマギル

ギンの歌がつくられるようになった。様々な踊りの中でも讃えられ、人間に

今この瞬間の幸福をもたらしてくれた偉大な男と唄われる。今この瞬間の

幸福とは、何だろうか。未来の救いに対する約束ではない。今不幸なの

に、不可解な神々に干し肉を投げて慰みを得るような見せかけの慰みで

もない。今この瞬間の幸福とは、満腹の幸福である。大きなげっぷをださ

せるような幸福、大地の上からすべてを見下ろすような幸福なのである。








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