Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)




アフリカ・レソト王国・・・モシュシュ二世の言葉「自立への復帰」

「先住民族 - 地球環境の危機を語る」

インター・プレス・サービス編 清水和久訳 明石書店 より引用



すべての天然資源は神聖である。現在生きている人びと、そしてこれから生まれる

人びとのために共同して管理すべきである。これがアフリカ人の伝統的な考え方で

あった。私自身のレソトの文化は、土地はすべて国家のもの、すなわち全体として

の国民のものである。土地は首長評議会によって管理され、首長たちは土地の保

護に責任を負う。市民はすべて土地の配分 --- 住居、牧場、畑とするために ---

を受ける権利を有する。この権利は結婚によって生じるが、独身者も両親の権利

とは別に家を建てるための土地の配分を受ける権利を有する。こうして、共同体

全員の必要が満たされる。共同体の福祉こそ、他の何よりも優先されるのである。

収穫がすむと家畜たちに畑の全部が開放されるのが伝統だった。家畜のため、

けもののために穀物の茎は必ず畑に残しておく、畑に柵や囲いは設けない、これ

また伝統だった。木、草、茸などの天然資源も共同体の所有であった。森は定ま

った時期にしか入れなかった。人びとが森に入ったときも、集めてよいのは枯木、

枯枝だけだった。伐採してもよいのは家を建てるのに必要な木だけであり、その

場合は共同体の許可が必要だった。許可には共同体の代表である首長が提案

するという手続きが必要だった。共同体のすべての決定は、どれほど時間がかか

ろうとも全員の同意によってなされる、これが伝統である。個人間の対立や財産権

の侵害は共同体の法廷に委ねられる。当事者の双方が受け入れることのできる

解決策を探すために双方の利益を配慮する、これが伝統だった。共同体の福祉

を優先するという伝統の中で最も支配的は制度が家族である。ここでの家族とは、

夫と妻、その子どもたちだけを指すのではなく、夫婦の兄弟姉妹たち、両親、祖父

母を含み、さらにはどれほど遠い血縁であっても親族たちの全員を含む、いわゆ

る拡大家族のことである。拡大家族では、構成員ひとりひとりに、他の構成員に

対する義務が明確に定められている。拡大家族の生計の中心にあったのは基本

的な生産単位である。この生産単位は物質的必要を満たす経済体制をつくりだ

す。この体制こそアフリカ人の適応を成功させてきた基盤である。この生産様式

は分業にもとづく。家族の構成員はそれぞれ役割を定められ、家族の必要を満

たすすべての技術を駆使する。富は所有する家畜の数で計られてきた。共同体

の安定やまとまりを脅かさない限り、富に制限はない。もし共同体を脅かすような

ことがあれば、共同体が行動をおこす。ある個人や家族の富の蓄積が嫉妬、

対立、共同体の分解を招いているか否かを判定される。共同体の行動は共同

体の安定やまとまりのためとして理解されるのであり、したがって正当なものと

して受け入れられる。病気、老齢、資源の不足その他の理由で不幸な暮らしを

している縁者がいれば、その面倒を見るのは豊かな縁者の義務である。老人

はいずれは家族の先祖になる人であるから尊敬の対象である。アフリカの植民

地体制が崩壊して独立国家が誕生する以前は、平等の維持が最も重要であっ

た。社会階級という概念は存在しなかった。社会的地位は年齢、性、そして個人

の資質によって決められた。首長に託された権威は権力をほしいままに振るう

ためのものではなかった。アフリカの文化では、共同体が個人の行為に対して

共同体全体として倫理的責任を負うということはなかった。だからこそ、個人は

共同体の宗教的、倫理的な基準に従って行動したのである。共同体についての

西側の考え方はこれと正反対である。過去と現在と未来の間にある連続性を

あまり意識せず、いついかなるときも、そのときに生きている者に限定するの

が西側の共同体観である。アフリカの伝統文化では、個人、その共同体、その

土地、そして環境とは互いに神聖な絆で結ばれていた。この絆こそアフリカ人

の生活、アフリカ人の文化、アフリカ人の思想の伝統的な源泉であった。この

絆が現在と未来に対する共同の倫理的責任感を生んだ。さらに、この神聖な

絆は、アフリカ人の思想と行動の全体を支えるアフリカ人の宗教のほんの一面

にすぎない。いま現在あるだけではなく永久に動きを止めることのない神による

創造の過程に表現されている --- 自然を通じて表現されているばかりかひとり

ひとりの人間を通じて表現されている --- アフリカ人の宗教のほんの一面が

この絆なのである。こうした連続性にあっては、個人は外の宇宙の模造として

理解される。言いかえると、個人をそのように理解することによって、個人が

自然環境の物理的法則となぜつねに調和して生きていかねばならないか、

その理由が説明されるのである。キリスト教とイスラム教がアフリカ人に全面

的には受け入れられなかった理由、あるいはこの二宗教がアフリカ化された

理由も以上のことで理解できるであろう。アフリカ人固有の宗教は唯一の神

--- 自然のさまざまな面にその姿を鮮やかに映しだしている神 --- を信仰

してきた。神は創造の内にいますと同時に創造の外にもおわす。すべての

事物全体を貫く生命の力として神は存在する。この信仰はよく言われるような

アニミズムではない。バランスを保って存在し、たえず自然に生命力を注入し

ている活力の体系の、その本質的な一部として自然を理解する汎神論の一種

なのである。したがって、アフリカ人の伝統的な世界観には、物質の活動と人間

の行動を同一視する考え方がある。人間と自然環境の両方に物質と精神が重

なりあって存在する --- 精神的なものは物質として明示される --- のがこの

世界だと理解されているのである。要するに、精神も物質も神の創造物なので

ある。








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