An old woman (Blood)

Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)


魅せられたもの

1997.12/31




与え尽くし


アッシジの聖フランシスコ、シモーヌ・ヴェイユの視点はいつも虐げられた

人に向かっていった。それはその人の存在が鏡のように自らの鏡に曇り

なく映し出され、その人の悲しみ苦しみがまるで自分のことのように重く

のしかかったに違いない。与え尽くすその聖なる輪をこの世界に体現し

た人たちは数多く存在していた。聖フランシスコやヴェイユというような

著名な人だけでなく、名も知られることもない人たちの中にも。人はどれ

だけ多くの善行をしたかによって、その価値が決められるものではない

と思っている。人道的にどれだけ偉大な事業をなしたかがではなく、ど

れだけそのことに心を込めたかが問題であるような気がする。子供たち

が公園に落ちているガラスの破片で怪我しないようにと、毎朝掃除をし

ている人も偉大な事業をなしている一人だと私は思う。私は体の不自由

な人の介護をしているが、それが私自身の生活の糧を得る仕事という

限りにおいて「与え尽くし」とはならない。ただ今のこの仕事にどれだけ

心を込めているかが、この仕事に求められているのかもしれない。その

日一日の言動が正しいことであったかを振り返り、反省することも数多

い。ただそれ無しには明日の活力は生まれてこないし、惰性に流され

て変化のない自己防衛的な日々を送るしかないのだろう。





多くの新興宗教や精神世界と呼ばれる分野の中で、どれだけ虐げら

れた人々の悲しみ、苦しみが心の鏡に映し出されているのであろう

か。または何故、映し出されないのだろうか。「自分だけの救い」に

囚われてしまっている鏡は創造主の真の光を周りに反射することが

出来ない曇ったものかも知れない。そしてそこには「与え尽くす」行為

が存在していないのだろう。宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にな

らないうちは個人の幸せはあり得ない」と言った。哲学者の梅原猛

氏は彼の思想は苦しむ衆生のために自分の身を捧げるという菩薩の

「犠牲死」であったと表現している。ヴェイユは言う。「地球の表面を

覆った不幸は、わたしの心に取り憑いて離れません。わたしは自分

の能力が駄目になってしまうほど打ちひしがれてしまいました」。そ

して無名のチベット隠者も次のように告白しなければならなかった。



「あなたは幸せですか?」とわたしはたずねた。これに答えている間、涙が彼の頬を

伝い落ちた。「いや、幸せではない。純人間的な観点からすれば、わたしのような人

間は胸が張り裂けるほど孤独になることが多いものだ。わたしは人々を愛している

が、それでも彼らにしてあげられることがいかに小さいかがわかるのだ。深い悲しみ

がここにある。全世界が幸せになるまでわたしは幸せにはなれないのだ。その目標

に達するまでには長い苦難が、限りなく長い苦難が前途に横たわっているのだよ」

「チベット永遠の書」より引用





自分が持っている魅力を再発見させてくれるレオ・バスカリア「自分

らしさを愛せますか」やジョン・パウエル「なぜ自分を知らせるのを恐

れるのか」はこの領域の文献でも特筆されるべき本であると感じてい

る。ただ私は聖フランシスコ、ヴェイユ、宮沢賢治、インディアン、ある

チベットの隠者の魂の奥底に流れている源流に魅せられているのか

も知れない。そこには徹底した虐げられた者への「与え尽くし」が横た

わっている。私自身、仕事以外にも二つの活動をしているがそんな事

は大した意味を持たない。どれだけそこに心が込められているかが

問われているのだと思う。私みたいな無器用な人間にとって全てに

心を込めることは出来ない。ただたった一つのことでも、それがどん

なに小さなものであろうとも心を込めた行為には「与え尽くし」が横

たわっていると信じている。上に紹介した人々はその「与え尽くし」を

壮絶に生き抜いた人であるが故に、多くの人の指標となり輝き続け

るのである。どんなに手を伸ばしてもつかむ事が出来ないこれらの

光に少しでも近づくことは燃え盛る火に身を投げ出すようなことなの

だろう。無傷ではすまされないこの火、存在を全て溶かしてしまうほ

どのこの火の中に創造主の真の姿があるような気がしてならない。





しかし、忘れてはいけないことがある。この曇りのない純度の高い

鏡には当然のようにこの世界の美も映し出されているということを。

そしてその美を前にして喜びと感謝が満ちあふれていた。聖フランシ

スコの「太陽の歌」やインディアンの言葉はこの世界の美しさを高ら

かに唄い、宗教の垣根を超えて多くの人にその崇高な視点は感銘

を与えつづけている。虐げられたものと美という一見相容れないもの

でも、そこに「在る」のである。だからどちらにも創造主の完全なる喜

びを見出すのだろう。私たちは家庭、仕事など多くのものを背負って

生きている。ただ背負っているものが大きければ大きいほど、そして

その中においても虐げられた人たちへの想いが生き続けている以

上、その人も偉大な聖なる人であると私は思う。修道者のように全

てを捨てて清貧に生きている人と対比しても、その価値は劣るもの

では決してない。そしてどんな小さなことであっても心をこめて実践

している場に「与え尽くし」が息づいていると感じられてならない。

(K.K)





この拙いホームページを見てくださった全ての人に感謝したいと

思います。このホームページは私にとっても心を込めていきたい

と思っているものの一つであり、多くの考えさせられる出会いが

生まれました。来年は皆様にとって恵み豊かな年となりますよう

に、そして多くの出会いが生まれますようにお祈りしています。

1997.12/31


 


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