未来をまもる子どもたちへ




心に響く言葉

1996.12.8








「愛」




「愛」がわたしに来いと命じたのにわたしのたましいはしりぞいた。

罪とけがれにまみれているので。

でも、「愛」はそれをいそいでさとり、わたしが躊躇しているのを見て、

わたしがはいって行くとすぐに、

わたしのそばに寄り、やさしくたずねてくれるのだった、

わたしに何が欠けているのかと。



わたしは答えた、わたしはここにいてもよい客でしょうかと。

「愛」は言った、おまえもそうされるだろうと。

わたしは恩知らずの悪者ではないのですか、ああ、愛するかた、

わたしはあなたの方へ目を上げることもできない者です。

「愛」はわたしの手をとって、ほほえみながら答えた、

その目をつくったのはだれだ、このわたしではないのか。



そのとおりです、主よ、わたしがその目をくもらせたのです、わたしの汚辱を、

行くにふさわしいところへ行くままにしてください。

しかし、おまえは知らないのかと「愛」は言う。その罪を負うた者がいることを。

愛するかた、わたしはこののち、あなたにお仕えいたします。

まあ腰をおろしなさいと「愛」は言う。わたしの食べ物を味わっておくれ。

そこでわたしは、腰をおろして、食べたのだった。




ジョージ・ハーバート(George Herbert 1593-1633) イギリスの詩人

「シモーヌ・ヴェイユ その極限の愛の思想」 田辺 保 著 講談社現代新書より


 
 


シモーヌ・ヴェイユはこの詩を次のように表現している。

「わたしの知らない間に、この詩の吟唱が祈りの効能をもつようになっていた」そして

「このような吟唱をしていたときに、・・・・キリストご自身が下ってきて、わたしを

とらえたもうた」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 






「神を待ちのぞむ」シモーヌ・ヴェイユ著 田辺保・杉山毅・訳 勁草書房 より以下抜粋引用



1937年、私はアシジで素晴らしい二日を過ごしました。聖フランチェスコが、そこでしばしば祈りを捧げたといわれ

る、比類のない純粋さを保つ建物、サンタ・マリア・デリ・アンジェリの12世紀ロマネスクふうの小礼拝堂の中にただ

一人おりましたとき、生まれてはじめて、私よりより強い何物かが、私をひざまずかせたのでありました。



1938年、枝の日曜日から復活祭の火曜日に至る10日間をソレムで過ごし、すべての聖務に参列いたしました。

私はひどい頭痛に苦しんでおりました。物音がいたしますたびごとに打たれるような痛みをおぼえました。しかし

非常な努力をはらって注意を集中した結果、私はこの悲惨な肉体の外に逃れ出ることができ、肉体だけはその

片隅に押しつぶされて勝手に苦しみ、歌と言葉の未曾有の美しさの中に、純粋でしかも完全なよろこびを見出す

ことができたのでした。この経験から類推いたしますと、不幸を通して神の愛を愛することが可能であることが、

一層よく理解できました。この地でのいろいろな聖務が経過するうちに、キリストの受難という思想が私の中に

決定的にはいってきましたことは、申しあげるまでもございません。



そこには一人の若いイギリス人のカトリック信者がおりました。聖体を拝受したその人は、まさに天使のような

かがやきにおおわれているように思われましたが、その天使のようなかがやきによって、秘跡には超自然的な

効力があるという考えを私に初めて与えてくれました。偶然が・・・と申しますのは、つねに私は神の摂理と言う

よりむしろ偶然という方が好きですので・・・この人を、本当に私にとっての使者にしてくれたのでした。実は、形而

上学的と呼ばれる17世紀のイギリス詩人達の存在を、この人が織らせてくれたからです。後になって、これらの

詩人達の作品を読みながら、その中に「愛」と題する詩を発見いたしました。それは、残念ながらまことに不十分

な翻訳を、あなたさまにお読みしたことのある、あの詩でございます。私はこの詩をそらんじて記憶いたしました。

しばしば、頭痛のはげしい発作の絶頂で、私は全注意力を集中して、その詩が持つやさしさに私のすべての

たましいをゆだねつつ吟唱することを努めてみました。私はこの詩を一篇の美しい詩としてのみ吟唱しているの

だと思っていましたが、私の知らない間に、この吟唱は祈りの効能を持つようになっておりました。すでにあなた

さまに書きましたように、キリスト自身が下ってきて、私をとらえたもうたのは、このような吟唱をしていたときの

ことでありました。



神の問題は解決不可能であるという私の推論におきましては、この世で人間と神との間に現実的な人と人とが

触れ合うような接触がおこりうると予見したことはありませんでした。この種の事柄について話されるのを、漠然と

聞いたことはありましたが、私は決して信じたことはありませんでした。『小さな花』の中のキリストご出現の話は、

福音書の中の奇跡同様、私はむしろ不愉快にいたしました。それにもかかわらず、私に対するキリストの突然の

支配には、感覚も想像もなんらの関係を持ちませんでした。ただ私は、愛されている者の微笑の中によみとれる

愛とよく似た愛の存在を、苦しみを通して感じ取っただけでございました。








シモーヌ・ヴェイユ( Simone Weil )

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