Edward S. Curtis's North American Indian (American Memory, Library of Congress)
1997.9.29
今日も一日世界は美しくある。 私のまえにある美とともに、 私のうしろにある美とともに、 私は歩む。
Walk in Beauty (ナバホ族の朝の祈りの言葉) 「ホピの聖地へ」 北沢方邦 著 東京書籍 より
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この祈りの言葉に、アッシジの聖フランシスコと同じような心の鏡を持っていた インディアンの視点の崇高さを感じずにはいられない。フランシスコとインディ アンに共通するものは、「与えつくし」を最高の美徳としていることと、物欲と いう衣に囚われず、それを脱ぎ去ってしまった魂を持っていたことなのかもし れないと思うことがある。インディァン社会における「勇気ある戦士」とは勇敢 であるとともに、「正直で、生きとし生きるものすべてに優しい」ことが前提で ることは部族を問わず共通の理解が存在した。物欲の放棄と、「与えつくし」 に実践された生活の中で、彼らの心の輝きは外の世界へとはじき飛んでゆ く。物欲に囚われている限りにおいて、この心の輝きは内なる牢獄に閉じ込 められてゆくしかないのだろう。そして、そこには外の世界への架け橋が崩 れ落ち、誰もが生まれながらに持っている生命の輝きが、外界へと飛び出す ことを阻まれ、孤独な根無し草として生き続けてゆくのだろう。彼らインディ アンは、物欲がもたらすこのような霊的牢獄を本能的に知り尽くしていたに 違いない。単に人知を超える大自然の圧倒さを前にしての畏敬の念だけで はなく、「生きとし生けるものすべて」にかかる架け橋が存在することに。 この架け橋のことを我々は、アニミズムとかシャーマニズムと表現している のだが、彼らにとってはそれは実際に虹のように実在感あふれるものであ った。私自身、物欲に囚われている人間であるが故に、この架け橋が存在 していることに気づくことさえ出来ない。しかし、この物欲に染まった衣を 一枚一枚と脱ぎ捨てることなしに、フランシスコやインディアンの視点に立つ ことは許されないのかも知れない。確かに物欲の良き僕である白人の侵入 と共に彼らの眼に影が宿り、各部族は白人の作戦に扇動させられ部族間 の戦いにまで及んだ時期が存在したのは事実であろう。だが、現在でも物 欲の僕になることを拒否している数少ない人々の祈りの透明さには心洗わ れてならない。このWalk in Beautyは私にとってその一つである。
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