「忘れられた道」

ある老インディアンとの心の旅

ケント・ナーバーン著 児玉敦子訳 講談社より





この本に目新しい叡智の言葉が全く見られないと感じる人もいる

かもしれない。しかし、本書に貫かれている怒り、悲しみ、そして

許しの言葉が深く私の心に突き刺さる。そこに映し出された素顔

に、喜んだり悲しんだり怒ったりする老人の表情のひとつひとつの

中に、白人との余りにも長き戦いの歴史という記憶が刻みこまれ

ている。1890年12月29日、保留地内のウンデッド・ニーの丘

に銃声が響き渡り、この虐殺をもって白人とインディアンとの戦い

は終結することになる。この丘に集まった人々の3分の2が女性

や子供たちであった。白人と戦う意志のないことを表明した300

人のラコタ族がこの丘で虐殺され、1000万人とも推定されてい

たインディアンもこの年には25万人になっていった。実にドイツ

のユダヤ人迫害の犠牲者600万人をも上回る虐殺が自由の国

アメリカで繰り広げられたのである。しかし白人による徹底した

同化政策はその後も容赦なくインディアンに襲いかかり、多くの

子供たちは親元から強制的に離され「インディアン学校」に隔離

されてゆく。白人の言葉、習慣、宗教を押し付けられた子供たち

に待っていたのは精神的基盤の喪失とアルコール中毒の蔓延

であった。このような状況の中においても太古からの教えを守り

続けている真のインディアンの悲痛な叫びが、そして祈りがこの

本の中から生きた息吹となって私の心に刻まれた。

(K.K)


 








現代に生きるダコタ族の老インディアンの言葉

(本書より引用)



毎晩横になる度に、年寄りや子供たちの姿が目に浮かぶ。ここや、

サンド・クリークや、今は忘れられた何百もの村々にいる彼らの姿が

な。わしもじきに彼らのもとに行くことになる。わしはどうして彼らが逃

げまどいながら殺されなければならなかったのかを知りたいんじゃ。

どうしてわしらの土地が切り刻まれてばらばらにされたのか、なぜそ

の土地や子供たちや年寄りを守るために白人にたてつくことも許さ

れなかったのか。創造主がどうしてこんなことを起こしたのか。わし

は今までずっと知りたいと思い続けてきた。





だが、わしもあんたと同じく、一人の人間にすぎん。自分の命の終

わりまでは見通せるが、そこから先のことはわからん。自分の土地

の端までは歩けても、その先には行けん。地平線の向こうまでは見

えないんじゃ。創造主はそういう風にわしらを造られたからな。だが

わしも年をとった。違った声が聞こえてくるようになったんじゃ。こう

言う声じゃ。「土地は、愛ではなく血によって贖われる。わしらの民

が死なねばならなかったのは、この大地に真実をはぐくむためだ」

とな。聞く耳を持たぬ白人の心に入り込むために、わしらは大地に

帰っていかねばならなかったんだろう。やがてわしらは戻ってきて、

丘や谷間をわしらの歌声で満たす。そうはならんと、誰が言える?





わしらの真実以上に偉大な真実があるのだろう。創造主は地平

線の向こうまで耳を澄まし、目を凝らしておられるからな。わしは

自分の民のために涙を流し、歌を歌わなければならない。彼らが

常にあがめられ、けして死ぬことがないように。だが、創造主の

考えを知ろうとしても無駄じゃ。いつの日かわかるときが来るかも

しれないし、だめかもしれない。ことによると新しい真実があるの

かもしれない。ラコタ族にとっての真実よりも、すべてのインディ

アンの民の真実よりも、あんたたちがこの土地にもたらした真実

よりも、すべての真実を合わせた真実よりも、ずっと大きな真実

が。もしそうならば、それを一緒に見つけようではないか。





わたしはこう思う。

もう戦っている場合ではない。わしらは怒りを忘れなければなら

ならない。わしが自分の怒りを葬り去ることができなければ、子

供たちがその仕事を引き受ける。それでもだめなら、そのまた子

供たち、そのまた子供たちが引き継ぐ。わしらは心の囚人じゃ。

わしらを開放してくれるのは時だけなんじゃ。あんたたちは傲慢

な態度を改めなければならない。この地球上にいるのは、白人

だけではないし、白人のやり方が唯一でもない。世界のあらゆ

る場所で、人々はそれぞれのやり方で創造主をあがめ、家族を

愛してきた。あんたたちもそのことを尊重するべきなんじゃ。

物質的な力があるのは、あんたたちの強みじゃ。ほかの民には

与えられなかった強みを持っているということじゃ。それをほかと

分かち合うか、それともさらに力を手に入れるためだけに使うか?

自分たちの力を分かち合う・・・・・・・それがあんたたちに課せら

れた課題じゃ。その力は強いが同時に危険なものでもあるんだ

からな。





白人の失敗を思い起こさせるように、インディアンは影となって

立ちはだかる。あんたたちを正しい道にとどめておくのは、わし

らの記憶じゃ。わしらが存在しなかったような、あんたたちがわ

しらを破滅させたのではない振りをするのは、あんたたちのた

めにはならん。ここはわしらの土地じゃ。わしらは常にここにい

る。わしらの記憶をこれ以上取り除くことはできない。目の前に

手をかざしても太陽を隠すことができないようにな。創造主が

わしらを破滅させて、あんたたちに命を与えたことは悲しくてな

らない。だが、考えようによってはそれほど悪いことではない

のかもしれん。なぜなら、あんたたちの宗教では、創造主が

イエスをそういう目にあわせたと教えているのだからな。わしら

が肉体的な死を受け入れることができたのは、精神力のおか

げなのだろう。その力ゆえに、創造主はわしらだけが唯一あん

たたちを救えるとお考えになったのかもしれん。つまらないこ

とをくよくよ考えるあんたたちをな。





わしらこそ、神の真の息子、娘なのかもしれん。あんたたちが

救われるように、恐怖や欲の十字架の上で死ななければなら

なかった神の子じゃ。そんなにおかしな理屈かね? わしはそ

うは思わん。ワカン・タンカ、大いなる謎、創造主、あんたたち

の言う神は、わしらが人のためにいつでも喜んで死ぬことをご

存じじゃ。それはわしらの最高の名誉なんじゃ。中でも最高の

名誉は、わしらの民がすべての人類のために死ぬことができ

たことかもしれん。ワカン・タンカだけがそれをご存じなんじゃ。


 
 


1994年春 ミネソタ州ベミジにて ケント・ナーバーン

 (本書 著者あとがき より引用)


その瞬間、私は、焼けつくような8月の暑さの中、寂しげなノース・ダコタのハイウェイ

にたたずみ、厳粛な誓いを立てた。インディアンの人々が体験してきたように、大地の

神聖さを感じたことはなかったが、だからといって、インディアンの同胞たちの暮らしや

仕事を、自分の研究対象として見たことも一度としてなかった。私には、人類の一人と

して、自分が生まれてきた世界と、いつしか知り合い愛するようになった人々の世界

とのあいだの溝を埋める架け橋になるべく努力する義務がある。


この本は、その義務を果たすために書いたものなのだ。インディアンの読者の中には、

私がこの仕事を引き受けたことについて、うさんくさく思う人も大勢いることと思う。あな

たがたは自分の民族が、善意であれ悪意であれ、白人の作家たちの手によって、間

違って解釈され、真実でない姿を伝えられ、それとは知らぬ間に利用されるのを、目の

当たりにしてきた。そのように感じている友よ、言えるのは一言、私の仕事を見て判断

してほしいということだけだ。私は人気のあるインディアンの思想を切り売りする白人

の搾取者でもないし、遠い祖先に奇跡的にチェロキーの血が流れていることを発見した

青い目のワナビーでもない。そのことは必ずやわかってもらえることと思う。そしてなに

よりも、一番たちの悪い白人作家でもないことを。私は、叡智に富んだ老人に出会い、

その人が心の奥底にあたためていたインディアンの文化に対する想いを打ち明けても

らったのだ、などと自慢するような、悪徳作家ではないのだ。この仕事が思った通りに

できているとすれば、私がただの正直者で、たまたま幸運に恵まれて、インディアンの

人々と知り合い、尊敬するようになり、ある非凡な人物の思想や想いを発表するための

本を書く機会を得たということをおわかりいただけると思う。こうした機会を得たことは、

まさに恵みであり、私は真剣に受け止めている。


私がその話や思想を伝えることになったダンは、私に秘密を守ることを誓わせた。「お尋

ね者にそうするように、わしに関しても具体的なことは伏せてくれ」彼は言った。私はその

通りにして、変えるべきところは変え、ぼかすべきところはぼかした。だが彼の言葉につい

ては、この筆の及ぶ限り、彼の言った通りを伝えた。彼の言葉にいいところがあるとした

ら、それはひとえに彼のおかげである。もしその表現に誤りがあるとしたら、それは私の

落ち度である。私は敬意と慎みを持って、最善を尽くした。それを読者の皆様への贈り物

として捧げたい。


そして白人の読者の皆様には、心を開いて読んでいただきたいと申し上げよう。あなたが

たが歩いている土地は、街の通りであろうと、田舎道であろうと、郊外の袋小路であろうと、

すべてインディアンの土地なのだ。冷静に自分の心に耳を傾ければ聞こえるはずの声が、

足もとでこだましている。だがこうした声は、我々が育ってきた世界の神話や幻想の中には

見いだすことはできない。酔っぱらいのインディアン、凶暴な野蛮人、気高い賢者、静かなる

地母といったイメージは、すべて我々が長年抱いてきた想像の産物にすぎないのである。

インディアンの人々をそうしたこぎれいで単純な型にはめこんでいる限り、彼らに敬意を表

することはできないのだ。


本物のインディアンは、笑い、泣き、過ちを犯せば、腹も立てる。そして創造主をあがめる。

店にも行くし、子供を育て、あなたがたや私が見るような夢を抱く。神話や幻想の中ではな

く、こうした本物のインディアンの中にこそ、我々の大地の真の声を聞くことができるのであ

る。ダンはそういう人物だ。あなたがたが抱いているイメージにはけしてあてはまらない。

バッファロー・ロックのように、荒削りで、直情的で、大地に根ざしている。だが、やはりバッ

ファロー・ロックと同じく、見る者が見れば、深い霊性を備えていることがわかる。


彼の声に耳を傾け、彼から学んでほしい。私たちとともに旅をして、物語を分かち合ってもら

いたい。私が学んだように、あなたも学ぶことができるはずだ。きっと私より多くのことを。

(後略)


 


目次

第一章 ある老人の依頼

第二章 燃やされた原稿

第三章 先祖のために語る

第四章 ずる賢い年寄りインディアン

第五章 夢と幻の土地

第六章 ポンコツ自動車とバッファローの死骸

第七章 カウボーイびいき

第八章 罪深き白人

第九章 ジャンボ

第十章 ポニーテールとアクセサリー

第十一章 聖なるものを売る

第十二章 我々の土地へようこそ

第十三章 タタンカ

第十四章 両の目で見る

第十五章 ぎとぎとのスープ

第十六章 見知らぬ男

第十七章 統率者と支配者

第十八章 イエスに酔って

第十九章 身勝手な白人

第二十章 明かされた真実

第二十一章 混血

第二十二章 歴史の歌

第二十三章 嵐

第二十四章 パハ・サパ

第二十五章 ウンデッド・ニー

第二十六章 約束

著者あとがき








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